コカ・コーラ
病院の近くには桜の並木道があって、あの日満開だった桜はもう散り始めていた。
明るく晴れた淡い空に薄桃色の花びらがこんなにも"映え"ているのに、わたしにはちっともきれいに見えない。
”色を失う”っていうのは、例えなんかではなくて、そう見えるんだということをこの時初めて知った。
よく眠れていなくて、病院へ向かう足取りも重い。
その日、主人の傍らには看護師さんがいて、わたしの姿を見つけてぱぁっと微笑んだ。
「ご主人、ちゃんと聞こえていて、分かっているので、なにか話しかけてあげてみてください!!」
「?????」
この言葉の意味を理解することができない。
え?だって、鎮静剤はゆっくり時間をかけて少なくしていくんでしょ?
見た目には昨日の主人となにも変わりがない。目も閉じたまま。
「奥さんがお見えになりましたよ。」
「え?お父さんっ?!分かるの???」
かすかに指が動くのが分かった。
「分かるの?」
5本の指をゆっくりとぎこちなく曲げたり広げたり閉じたりして、「分かってるよ」と合図を送ってくれた(ように見えた)。
よかった!
よかった!!!!!
耳も聞こえているし、わたしが言っていることも分かるんだと思ったら、のどの奥がぎゅっとした。
人差し指がゆっくりと動く。
何かを書いている。
「主人、なにか言ってますよね?」
「ほんとだ。なにか言っているみたいですね。」
人差し指でゆっくりと、何度も何度も”なにか”を書こうとしている。
「なに?なんて書いてるだろ? お父さん、なにが言いたいの?」
「なんでしょうね?」
「『口』?『口』がどうしたのよ。口の中が痛いの?」
違う違うとばかりに、白い布団の上に何度も同じ文字を書いている。
「もしかして、カタカナの『コ』?」
「たしかにカタカナの『コ』かも?」
主人の手がうんうんと頷く。
「次は『力』?『ちから』って漢字?」「それとも、これもカタカナの『カ』ってこと?」
「『コカ』?『コカ』ってなんだろ?」
「なんのことでしょうね?」
「『コカ』で合ってる?なに言っているの?」
主人がまた手でうんうんと頷く。
「まだなにか書いている。」
「また『コ』?」
「次はまた『カ』?それとも『ラ』かな?」
看護師さんと顔を見合わせる。
「もしかして、『コカ・コーラ』?」
やっと分かってくれたとばかりに、それそれと手が頷く。
ゆっくりと手首を上下に曲げる。まるで”飲む”しぐさを表すように。
動かない腕を顔にもっていくようにも見えた。
全然腕が上がってなんですけど!
「コカ・コーラが飲みたいっておっしゃっているんですね!(苦笑)」
言いたいことがやっと分かった。
でも、なんで?なんで?なんで?
どうして、今、それもこんな場面で、「コカ・コーラ」なの?
普通なら、「俺どうなっちゃってるの?」とか「心配かけてごめん!」とか「仕事は大丈夫?」って、まずは、そんなことを言ったり聞いたりしたくなるんじゃないの?
「そうですよねー、喉が渇いてますよね。コカ・コーラ、飲ませてあげたいけど、今は無理ですよ。しばらく我慢してくださいね。」
看護師さんが明るくたしなめる。
それでも、何度も何度も「コカ・コーラ」の文字をなぞる。
ただただ『コカ・コーラ』が飲みたくて、飲みたくて、しかたがないのだ。