獄卒スペース論評

「大学生協でカップ麺が啜れない」

喧騒 テーブル席に独り座る六道冥
机の上にはカップ麺と蓋を止める割り箸がある

今日の授業は午前と午後を跨ぐため、どうしても昼食を大学付近で済ませる必要があった。しかし学期初めということもあり大学構内はやけに人が多い。周辺の定食屋もほとんど満席で、席に着く頃には昼休みの1時間はとっくに過ぎてしまうだろう。今日くらいは生協に行ってカップ麺で済ませてしまおうと思った。

そろそろ3分か。
十分麺もほぐれているし、少しくらい硬くても食べれないことはないだろう。何よりこんな人混みの中に独りでいるのは悪い意味で目立ってしまう。早く食べて次の教室に行ってしまおう。

いただきます。
心の中でそう唱えて軽く手を合わせる。麺を持ち上げ箸を口に運ぶ。麺の先を口に含んだ刹那、ある疑問が頭に浮かぶ。
人前で麺って啜っていいんだっけ。
麺を啜るべきか否か、頭の中で思考がぐるぐると巡り目がまわる。脂汗が出てくる。さっきより周りの声が遠くで聞こえる気がする。というよりも周りの人間が明らかに話をしていない。
見られている。
しかし、口とスープとの間にある、宙ぶらりんになった麺から目が離せないので確認することはできない。
周りの人間はなぜ私を見ている。
淑女がカップ麺を啜るのを非難しようと待ち構えているのか。それとも麺を口に咥えたままいつまでも啜る決心がつかない私に嘲笑の眼差しを向けているのか。

私は考えても仕方がない思考を断ち切るかの如く、外気に晒され不味くなった麺を噛み切った。脂汗の滲んだ顔をあげると、誰も私を見ていなかった。だんだんと人の話し声も耳に入ってきた。いつも通りの喧騒が辺りに充満した。

「自我はいつ芽生えるのか」

六道冥がX(旧Twitter)のスペースで話したエピソードの中に「20歳頃、大学の公共スペースでカップ麺を啜れなかった」というものがあった。このエピソード自体は淑女らしい大変かわいい話ではあるが、特に私が注目した点は当時の年齢を「自我が芽生え始めた頃」と形容していたことである。
「あなたの自我が芽生えたのはいつ頃ですか」と問われれば、大抵の人は一番古い記憶の年齢、だいたい3〜6才を言うだろう。しかしその年齢を20歳前後とした六道冥には人間に対する真摯さが伺える。

人の多いスクランブル交差点を歩くとき、目的の信号機の下へ自分の足で歩き対向する人を自分の意思で避けたとしても、辿ることのできるルートはそれほど多くはない。大学入学までの約20年、家族や友人、学校などのコミュニティに属していた時分は、謂わば人混みの中を歩いているようなもので、自分の下した意思決定は否が応でも周囲の影響を受けたものになる。
そういったコミュニティから離れて、真に自分のみで意思決定を下さなければならなくなったとき感じた孤独こそが自我であると六道冥はこのエピソードを通して我々に伝えているのだ。

20世紀を代表する実存主義の哲学者サルトルはレヴィ=ストロースを始めとする構造主義の興隆によってその威厳を失ってしまった。しかし彼の残した「人間は自由の刑に処されている」という言葉は今でも多くの人を魅了するだけの力強さがある。この言葉を再解釈することで六道冥は構造主義と実存主義の思考プロセスを融合し新たな哲学のフォーマットを築こうとしているのではないか。
六道冥が21世紀を代表する哲学者になる未来も、そう遠くはないのかもしれない。

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