武蔵野に帰ってきた「大物」を通して、改めて横河武蔵野というチームの凄さをアピールしてみた、というお話
少し前の話になります。翌々日にJFLの全日程が発表される2月7日。午前中から通常の業務に加えて、エクセルとパワーポイントを使って資料作りとその他の頼まれごとをこなし、いつものように遅い昼食を取るべく事務所を出てさっそく情報集めの為、Xを開いてみました。すると、ちょうどアップされたばかりのゲキサカの記事を伝えるツイートが飛び込んできました。内容は「琉球退団FW阿部拓馬の移籍先が決定「育成年代を過ごしたチームで…」」というものでした。
「阿部拓馬ってどこ出身だったっけ?ヴェルディ?いや、もしそうだったらこういう書き方はしないよなあ…。じゃあ、F東か?」
などと思いつつ、リンクの記事を開いてみました。すると、記事の1行目にこう書かれていたのでした。
「FC琉球は7日、昨季限りで退団したFW阿部拓馬の移籍先が横河武蔵野FC(JFL)に決定したことを発表した。」
え〜!!あ、アベタクが〜、む、武蔵野〜?!
おそらく、どの人事異動の中でもここ数年で一番のビックリ案件だと思います(表現!笑)。そ〜か〜、アベタク武蔵野ユースの子だったんだね…。今まで知らなくてゴメンね…。
で、さっそく調べてみました、阿部拓馬が武蔵野にいた痕跡を。どうやら2005年に2種登録されているようなので、古い記録を辿ってみたら確かにいました!阿部拓馬!
その勢いで、武蔵野がJFLに昇格した年からずっと見続けている知り合いに、このことを振ってみたところ「あ〜。そういや、ユースの時に2種登録で試合出てたよ、多摩陸で…」と、秒殺の如く、そしてやや興奮気味に回答がきました。たしかに調べてみたら、2005年7月31日の会場は多摩市立陸上競技場で行われたデンソーサッカー部との試合に、途中出場していました。どれをとってもとても懐かしすぎます…(笑)
82分に原島に代わって出場した阿部拓馬は、僅か10分くらいの出場ながらシュート1本を記録。その頃から、持てるポテンシャルを余すことなく発揮していたことが伺えます。
しかしその試合以降、阿部拓馬は武蔵野の試合に出ることはおろか、メンバーにすら入らなくなってしまいます。そのまま高校を卒業して、法政大学に進学。当時の川勝監督に才能を見出されて点取り屋として成長、卒業後はその川勝監督がいた東京ヴェルディに入ります。
それ以降の経歴は調べてもらえれば出てくるとは思いますが、ヴェルディでの活躍を買われてドイツブンデスリーグ2部のVfRアーヘンに移籍。1年半プレーしたものの、日本でのプレーを希望したため帰国。その後はヴァンフォーレ甲府、FC東京と渡り歩き、再び海外へ。韓国の蔚山現代に移籍するも、思うようなプレーができずに半年で再び帰国。ベガルタ仙台に2年、FC琉球に3年在籍しましたが2022年に左足アキレス腱断裂という不運もあり、昨年末に契約満了となります。そして今年から、JFLの横河武蔵野FCでプレーするという流れになったのです。
彼が戻って来た横河武蔵野FCについて、あれこれと編んでみる
では、なぜそんなキャリアを持つ阿部拓馬が横河武蔵野FCに戻って来たのか?まず考えられるのは、セカンドキャリアを考えて横河武蔵野FCに戻って来たのではないかということです。彼も今年37歳と、もういつ引退してもおかしくない年齢。サッカー一筋で歩んできた人生ですが、いずれはサッカー選手から退く日がきます。引退後の人生を考えた時に、サッカーから完全に身を引くのではなく、サッカーに関わりながら生きていきたい。そう考えたなら、一番いいのはサッカーのコーチ、そしてゆくゆくは監督という道となります。そのキャリアを始めるのに、ヴェルディやFC東京、あるいはついこの前まで所属していたFC琉球でもなく、小さい頃にサッカーのいろんなことを学び、そして慣れ親しんだ横河武蔵野FCを選んだのは、それだけ彼の武蔵野に対する熱い想いを示しているのでしょう。これは、チームのスタッフや関係者のみならず、サポーターとしてもとてもとても嬉しいことです。ユース以前の経歴が分からないのでなんとも言えませんが、少なくともユースの3年間しかいなかった(かもしれない)チームにも関わらず、それだけの愛を持ってチームに戻って来てくれたんだ、という熱い気持ちだけでもはや充分です。彼には感謝の気持ちしかありません。本当にありがとう!
と同時に、こうして小さい頃に所属していた選手が大人になって、またそのチームに戻って来れるというのも、実はトップチームがちゃんと存在していて、さらにそれなりに強くなければ有り得ないことなのです。
そもそも横河武蔵野FCの歴史は長く、前身の横河電機サッカー部は、1939年に社内同好会として発足したのがその始まりです。太平洋戦争の始まる2年前ですよ!今年創立85周年なんですね…。横河武蔵野FCとしてクラブチーム化するのは2003年のこと。そこからでも21年なので、歴史あるクラブですよね。そして特筆すべきはユースとジュニアユースが結成されたのが1991年。まだ横河電機サッカー部だった頃に、武蔵野スポーツクラブのサッカーアカデミーとして始まりました。さらにU-12のジュニアに至ってはそれより古い1986年というので、Jリーグ創設以前から育成のアカデミーを始めていたというわけです。
これは何も横河武蔵野FCに限らず、同じ東京だと三菱養和SCも前身の三菱倶楽部から数えれば、ほぼ同時代から存在するチームはありますし、また関西だとここでもたまに取り上げる、京都紫光クラブや神戸FCや枚方FCもJ以前から続く、歴史あるクラブです。東海では愛知FCも息の長いです。実は意外とあるものなんです。
でも、仮にジュニアからトップチームまで全カテゴリーのチームが揃っていたとしても、学校を卒業してからも続けられるトップチームが魅力的なチームかというと、必ずしもそうとは言えないのが現実です。京都紫光クラブや神戸FCのように地域リーグに所属しているクラブは稀で、そんな稀なクラブのトップチームといえども、実際はアカデミー出身者が多いかというと必ずしもそうでもないのです。そんな中、横河武蔵野FCは1999年から全国のトップリーグ、JFLに所属し今年で26年目と、アカデミー出身者であれば魅力のあるチームと言えるでしょう。それが証拠に、ユースやジュニアユース出身の選手が大学卒業後に横河武蔵野FCに入ってくることが多いです。Jには行かない、でも高いレベルでサッカーを続けたい、というアカデミー出身の子たちにとってはちょうどいいチームと言えるでしょう。それが、30年以上アカデミーを続けている街クラブの底力ではないでしょうか。
街クラブがフルカテゴリーを持つことの凄さとは…
横河武蔵野FCがジュニアからトップチームまで持っているということ。武蔵野目線からするとごく当たり前のことのように思えますが、実はそれはものすごいことなんです。
まず大変なのは練習場の確保です。横河武蔵野FCは三鷹駅の北口から歩いて10分くらいのところにある、横河電機のグラウンドでジュニアからトップまで全てのカテゴリーが練習をしています。育成のクラブで自前のグラウンドを持っているところって、最近こそそこそこ増えましたが、まだまだ公共の施設や学校のグラウンドを借りて練習を行うクラブが多いです。学校のグラウンドだと借りるのにお金は掛かりませんが、学校の行事や開放時間が限られているので、必然的に使える時間帯が限られます。また、公共の施設だと定期的に同じ時間に借りられるかどうか分かりませんし、借りるのには当然お金が必要となります。遅い時間となると照明施設のあるグラウンドじゃないといけないので、またそれらの限られたグラウンドの取り合いとなります。自前のグラウンドのあるなしは、クラブにとってはものすごく大きな違いとなるのです。その点、横河武蔵野FCは横河電機のグラウンドを使えるので「グラウンド難民」になる心配がないのです。
次に大変なのはコーチの確保です。横河武蔵野FCを運営する横河武蔵野スポーツクラブはサッカー、男女ラグビーチームを持ち、さらにそれらのスクールやユースチームなどを運営しています。そして横河武蔵野スポーツクラブのサッカースクール、およびアカデミーは横河電機の子会社の横河パイオニックスが運営しています。コーチの多くは横河バイオニックスの社員ではないかと推測されます。JクラブのアカデミーのコーチはJクラブの社員で、当然ながら各クラブからお給料を頂いています。J1のクラブだとおそらく、アカデミーのコーチでも十分食べていけるだけのお給料は貰っていると思うのです。でも、Jクラブでも下の方になるとかなり貰える額は厳しいのかな?と思うのです。ましてやトップチームの入場収入もない、グッズ収益もない、スポンサーもほぼいないといったごく普通の街クラブのアカデミーコーチとなると、どこまでのお給料を貰っているのか、あるいはほぼボランティアに近い額しか貰っていないという可能性もあります。
と、サラッと入場収入などと書いてますが、入場収入の発生するJFLにいる横河武蔵野FCでさえも、実際のところはその収益は試合の運営でほぼなくなってしまうのが現実です。J以外のクラブに「入場収入」はないに等しいです。そんな苦しい状況の中、選手も生活をするだけのお金がないとサッカーは続けていくことはできないとよくお話ししていますが、それは選手だけではなくコーチも同じことです。コーチとしての生業を成立させるためには、やはりある程度のお給料を貰わないとなかなか続けられません。横河武蔵野FCのアカデミーコーチが、横河パイオニックスからどれくらいのお給料を頂いているか定かではありません。でも、Jクラブと比較してもそれなりの額は頂いているのではないかと思います。
以上のような街クラブのウィークポイントをクリアしているからこそ、横河武蔵野FCのアカデミーは常に一定のレベルを保ちながら運営することが出来ているのです。そういう意味では、本当に横河電機さんには感謝、感謝です!
横河武蔵野のようなクラブになろうとして挫折したクラブが…
そんな横河武蔵野FCのような、トップチームはJリーグを目指さない(目指していた時期もありましたが…)、そしてスクールやアカデミーもしっかりと運営するという、アマチュアに特化したサッカークラブを作り上げようとしたものの、志半ばで断念したクラブがかつてありました。それは佐川滋賀FCです。
佐川滋賀FCは佐川急便東京SCと佐川急便大阪SCというJFLにいた両チームが2007年にチームを統合、佐川急便の保養所や運動施設のあった滋賀県守山市に本拠地を移して生まれたクラブです。滋賀県のサッカーについて書いた際、少しだけその経緯について触れていますので、そちらを参考にしてください
チームが統合されて本拠地が滋賀県に移った年には、すでにジュニア向けのスクールを開設。その翌年にはジュニアユースチームを結成。ただ単にサッカーチームを持つのではなく、地元のサッカー少年の育成を通じて滋賀県のサッカーに貢献することを目指しました。しかしトップチームは毎年JFL上位レベルを維持したまま、2012年シーズンを以てチームの活動を休止。ジュニアユース以下のアカデミーのみの活動に縮小しました。
その後もジュニアやスクール、ジュニアユースの活動は続き、2019年にはジュニアユースがU-15関西サンライズリーグ2部に昇格。残念ながらリーグ9位(10チーム中)で滋賀県リーグに降格。その後も県リーグに参戦、サンライズリーグへの昇格を目指しています。そういえば、2019年シーズンは私も何試合か見に行きましたね…
で、ここからが本題で。関西2部に昇格したこの年、とある試合を見に行った際に、元佐川大阪→佐川滋賀の選手で当時の監督だった求衛監督に「将来的にユースチームを作ったりはしないんですか?」と聞いたところ、意外な回答が返って来たのです。
「グラウンドがあと1面ないと無理なんだよね…」
えっ?あの、広い人工芝のコートでも足りないんですか…?というのも、佐川滋賀のアカデミーの子たちが練習しているグラウンドは、佐川美術館の隣にある佐川急便の運動施設が集まる敷地内にあり、そこにはソフトボール部が使う球場、ニューイヤー駅伝の常連でもある陸上競技部が主に使う陸上競技場、そしてその隣にソフトボールのコートが何面も取れる、かなり広い人工芝のコートがあり、その人工芝のコートでかつてのトップチームとアカデミーが練習をしていました。かなり大きなコートだったと記憶していますが、そんな広いコートがあってもジュニアとジュニアユース、そしてユースの3カテゴリーのチームの練習場としては「まだ狭い」らしいのです。
ただ、この航空写真を見ると分かるのですが、元はソフトボールのグラウンドとして作られたため、四隅のうち3箇所が内野のフィールド部分にあたり、そこだけ人工芝ではなく土のグラウンドになっています。それを避けるようにサッカーコートを敷くとなると、どうしても1面取るのが限界です。日頃からフットサルコートやそれよりもちょっと広めのコートで練習を行うクラブであればこれくらいあれば十分かもしれませんが、フルコートでの練習をメインにするとなると、やはり1面だけでは難しいです。仮に時間をずらしてもなると、十分な練習時間が取れないことになります。ジュニア年代なら狭いコートでもなんとかなったとしても、ジュニアユース以上になるとやはり普段からフルコートで練習させたいとクラブも指導者もそう考えるのは当然のことだと思います。そうなると、やはりフルコートは1面ではなく2面は欲しいですね。
もちろん、コーチの人員の問題もあるかとは思います。でもそれは、コーチを雇うお金があればすぐにでもなんとかなります。しかし、サッカーコートをあと1面というのはそう簡単に解決する問題ではありません。ましてや、その隣にはソフトボール部と陸上競技部がそれぞれ使う施設があり、たとえ陸上競技場のピッチがあるとはいっても、陸上競技部との兼ね合いでピッチだけ使わせてもらうことも難しいでしょう。ということで、いくら佐川急便という大企業がついていると言えども、ユースチームまで持つということは相当ハードルが高いことは理解していただけたかと思います。と同時に、横河武蔵野FCというクラブが、そのへんのJクラブに匹敵するくらいのものすごいクラブだということも理解していただけたかと思います。
(註釈:横河電機のグラウンドも実はフルコート1面取るのがやっとです。佐川滋賀のグラウンドと条件は同じ、いや横河の方が明らかに狭いです。でもユース年代までのチームを持てるのは、なんと言っても立地の違いがあるかと思います。横河電機のグラウンドはJR三鷹駅から歩いて10分程度と子供達だけで通うことができるので、例えば時間を詰め詰めにして1日2クラスの練習を組んで、終わるのが多少遅い時間になったとしても、子供達だけで電車やバスに乗って家に帰ることができるでしょう。逆に佐川滋賀のグラウンドは琵琶湖畔沿いにあり、一番最寄りの守山駅や堅田駅まで車で20〜30分は軽くかかります。通うには親の送り迎えが必要となります。その為、あまり遅い時間まで練習ができないので1日1クラスの練習がやっとだと思います。そういう理由から「ユースチームを持つにはあと1面必要」ということになったのかと思われます。)
そんな横河武蔵野FCも苦難の時代がありました…
そんな横河武蔵野FCですが、いろいろと大変な時期もありました。J3リーグが開設されてから、Jリーグは無理だけどアマチュア最高峰のJFLにいる横河武蔵野なら入ってもいいかな?と思っていたレベルの関東大学リーグで活躍した選手が、軒並み「Jリーガー」に憧れてJ3のクラブに入ることが増えました。選手の確保が難しくなったこともあり、とうとう2015年にチーム名を「東京武蔵野シティFC」に変更、Jリーグ参入を目指すクラブに路線を変更することになりました。
その頃からJリーグへの入会条件が大幅に緩和されたのですが、それでも東京武蔵野シティFCの Jリーグ参入の1番のネックはスタジアムでした。現在もホームゲームの多くを開催している武蔵野市立武蔵野陸上競技場は、周辺に住宅がひしめき合っていて、特にバックスタンドとサイドスタンドの拡張はかなり困難です。さらに照明施設もありませんし、もっと言うと実際に行かれたことのある方なら分かると思うのですが、騒音の問題から太鼓などの鳴り物はおろか、メガホンなどの音の鳴るものを使っての応援が禁止されています(そういえば佐川大阪時代、ムサリクでは指笛を吹いても怒られたことがありましたね…笑)。Jリーグの応援=太鼓などの鳴り物というのが必ずしもイコールではないにしろ、やはりそれらがないと物足りないという印象は受けますよね。そのうえ、メインスタンドは体育館と一体化しており、メインスタンドの拡張もほぼ不可能ということで、もしJリーグ参入を本気で目指すなら武蔵野市内のどこかに新しいスタジアムを作るしか方法はないのでした。
そこで新スタジアムの予定地として挙がったのは、JR武蔵境駅の近くにある境浄水場でした。平成27年頃から持ち上がった東京都による再構築事業計画に乗っかって、その跡地にスタジアムを建設しようという構想を打ち立てました。この計画に乗り気だったのは前々任の武蔵野市長でした。東京都水道局所有の境浄水場が作られたのは1924年、大正13年のことです。埼玉県の多摩湖と山口湖から水を引いてきて濾過、そのまま都内へと供給されています。ちなみに武蔵野市は境浄水場からは給水はされていなく、ただ単に場所だけ提供している形となっています。もう100年も稼働し続けている浄水場。新しくするにも、規模をデカくして新しくするにももう一刻の猶予もないということで、境浄水場の再整備計画が持ち上がったのです。そんなこともあり、武蔵野市内に新スタジアム建設可能な土地が出来るかも?という期待も相まって、東京武蔵野シティFCの Jリーグ参入への期待が一気に膨らみました。
しかし2017年の武蔵野市長選で、当時の現職で境浄水場再整備後の新スタジアム建設計画に乗り気だった市長が敗れ、後任の市長は新スタジアム計画に対し冷ややかな姿勢を取り続けました。そんな中、東京武蔵野シティFCは2016年からJリーグ百年構想クラブに申請、その年と翌年にJ3クラブライセンスを申請しますが、スタジアム要件と財務状況の2点で条件を満たさないとして交付されませんでした。そしてその翌年はJ3クラブライセンスを申請を断念、将来的にJリーグ申請可能なクラブ作りへとシフトチェンジし、スタジアム建設も含むて一から見直すことになりました。今から思うと、この時にはすでに新スタジアム建設というのはほぼ無理だったのかもしれませんね…。
武蔵野のJリーグ入りが座礁しかけた2019年。J3クラブライセンスのスタジアム要件の緩和により「5年以内に新設のスタジアムを作ること」を条件に、ようやく東京武蔵野シティFCに2020年のJ3クラブライセンスが交付されました。おそらくライセンスを交付されたクラブはこの年、J3参入条件である4位以内と平均観客動員数2000人をクリアしてJ3に参入を決め、それを梃子にして武蔵野市へスタジアム建設を強く訴えようと考えたのでしょう。しかし、ライセンス交付されたのがシーズン途中の夏場。そこから慌てて観客動員を増やそうと、武蔵野市陸上競技場に収容人員を大きく上回る5000人以上の観客を入れたことが、消防法に抵触する可能性があると指摘されます。まだ規定の観客動員数に大きく足りない状況(残り1試合で5000人以上が必要)を考慮して、クラブは平均観客動員数2000人到達の目標を断念。成績はJFL4位とクリアしましたが、J3参入は果たせませんでした。そして、これまでのJリーグ参入への試みの数々が、後々クラブの財政を逼迫させることとなるのでした。
Jリーグ入りの断念、そして合併…
新型コロナウイルスの世界的な感染拡大が始まった2020年。この年の夏に、東京武蔵野シティFCは大きな決断をします。まずはJリーグ百年構想クラブからの脱退を発表。さらにトップチームから全カテゴリーを運営していた、NPO法人である武蔵野スポーツクラブからアカデミー部門を切り離して、横河電機が出資する一般社団法人横河武蔵野スポーツクラブに移管。最終的にはトップチームも移管させて、最終的には武蔵野スポーツクラブを解散させる方向となりました。トップチームはJFLでの活動を継続することにはなりましたが、現状の形のクラブ運営では資金的にいつまで続けられるかすら見通しが立たないくらい、クラブ自体の資金が底を尽き掛けていたのではないかと思われます。
そんな資金難のクラブに翌年手を貸したのは、関東リーグで東京ユナイテッドFCを運営する一般社団法人CLUB LB&BRBでした。互いに提携という形を取りつつ、横河武蔵野シティFCはチームを横河武蔵野スポーツクラブに運営を移管。その上で横河武蔵野スポーツクラブと一般社団法人CLUB LB&BRBが折半で新たな運営会社を立ち上げることで、トップチームを新たに東京武蔵野ユナイテッドFCとして運営していくことになりました。その後のいろんなことについてはらこのブログでもお話ししたことがあるので割愛しますが、わずか2年(形式上は3年)でその関係を断つことになるこの合併。少なくともこの時点では武蔵野にとっては喉から手が出るくらいの「救いの手」だったことは間違いないと思います。また、東京ユナイテッドにとっては自身のチームが地域CLはおろか、関東リーグでも優勝することができず、Jリーグ入りを標榜するクラブとして、今ここで横河武蔵野FCと提携することでJリーグ入りの前段階となる「トップチームのJFL入り」という目的を、手段はさておき達成したとも言えるわけです。その当時は互いにwin-winの関係とも思えたのです。
その後、この関係は互いにクラブの思想や目指すところの相違、現場サイドでは当初主導権を握った東京ユナイテッド側の稚拙な対応に、武蔵野側が業を煮やして現場に介入。それによりチーム状況が好転し始め、成績も上向きになったことで秋口くらいまでは関東リーグへの降格の危機もありましたが、最終的には入替戦にも進むことなくなんとかJFL残留を決めました。東京ユナイテッドと横河武蔵野とのクラブの歴史の差が、クラブの総合力の違いを示したのではないかと思います。
こうしてチームの主導権を完全に掌握した横河武蔵野サイドが中心となった2022年は、東京ユナイテッドサイドから招福したスポンサーからの資金によって、かつての安定したクラブ運営が出来るようになりました。しかしその反面、ユナイテッドサイドとしてはあまり望まない展開だったとも言えるでしょう。お互いに不信感を募らせつつあった2022年。その関係を完全に断ち切ることになったきっかけと思える出来事が起こります。
その年のシーズンからB3リーグに参戦した、東京ユナイテッドのプロバスケットボールクラブの記念すべきホーム開幕戦の有明アリーナにおいて、国内クラブ主管試合最多入場者数を更新する9,295人を動員。その後も東京ユナイテッドBCはB3ながら、大成功とも言えるクラブ運営を続けています。東京ユナイテッドからすると、武蔵野に主導権を握られたサッカーよりも自前で大成功したバスケに注力した方がいいのではないか?と真剣に思うようになったのではないでしょうか。その年を6位という好成績で終えたものの、その裏ではそれぞれのクラブの思惑が蠢いていたのでした。
そうして迎えた2023年。すでにこの年のシーズン前から横河武蔵野と東京ユナイテッドとの関係は完全に切れていました。ただ、チーム名を含めた組織的な面は「まだ」完全に断ち切れておらず、チーム名もそのまま「東京武蔵野ユナイテッド」としてJFLを戦うことになりました。武蔵野サイドからすれば、ようやくチームを取り戻したといったとも言えるのでしょうが、その反面この2年間、ユナイテッドサイドに運営から資金面までおんぶに抱っこだったため、あらゆる面において人手不足、資金不足に陥ってしまいました。そんな苦しいシーズンではありましたが、最終的にはこの年も15位中13位となんとかJFLに残留。1999年に始まった新しいJFLのオリジナルメンバーである横河武蔵野は今年もJFLで戦えることとなりました。めでたしめでたし…
そもそも横河武蔵野FCは、横河電機がサッカー部の経費を負担できなくなったために、NPO法人の武蔵野スポーツクラブへと「切り離した」ことでスタートしたクラブでした。それから、さまざまな環境や状況の変化、いろいろな人だとの思惑や、街クラブが直面する資金繰りの問題など、横河武蔵野FCの歴史はまさに激動の足跡と言ってもいいでしょう。
この原稿を書いている今、すでにJFLは開幕しております。今期は38人という大所帯の横河武蔵野FC。ここまでの大所帯だったのって7、8年前くらいにあったかどうか…。まあ、毎年大所帯だった三菱水島FCというチームよりかは少ないですが(笑)、これだけ多いとまず覚えるのが大変です。でも、いろんな組み合わせを試せるし、どうしても夏場はケガ人が多い武蔵野としてはちょっと多い方が絶対いいと思います。
でも、Jに行かないと言っているチームにもかかわらず、これだけの新卒選手が集まってくるというのは、横河武蔵野という「ブランド」が広く浸透しているという証なのかもしれません。Jからは声が掛からなかった、あるいはJには行かないと決めた選手が、それでも高いレベルでまだサッカーを続けたい、でも将来のことを考えると仕事もちゃんとやらないと…などと考えると、最終的にはこのチームを選ぶことになるのでしょう。そういう、ニッチな需要のある横河武蔵野FC。ブランドの構築には長い時間といろんな犠牲と失敗がありましたが、今となってはいい思い出と言えるのかもしれませんね。
そんな武蔵野を見に、今年もムサリクに、あるいは日本全国各地に行くんでしょうね…、などとホーム開幕の駒沢のスタンドでふとそんなことを思ったのでした。みなさん、また今年も一年、よろしくお願いします!
ホーム開幕のお話は、また改めて書きたいと思いますので、それまでお待ちください。
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