チームが消滅するということ。経験者としてそれを冷静に受け止め、今思うこと、かつて何があったのかということ…、そんなことを淡々と冷静に書いてみました、というお話
9/27
ソニー仙台FCが2024年末でチームの活動の停止、JFLからの退会届を提出したという発表がありました。
世間では衝撃的に受け止められているようですが、昔から企業チームを見ている立場からすると「この日がやってきましたか…」という反応です。私自身が企業チームのサポーターをやっていたので、個々のチームの事情はさておきこういう流れになるということは驚きではありませんでした。ですが、自分のチームではないのになぜか焦燥感だけが漂うという、世間一般の人たちとは違った反応を覚えています。残り少ない企業チームの一つが無くなるわけですから、やはり寂しさを感じます。
チームに近い人たちの中には社内ではない、つまり一サポーターなどの社外の立場だったとしても、発表前に何らかの兆候はあったのかもしれません。私の経験、佐川滋賀の時にはその兆候は確かにありました、というか後から思うとそうなんだろうな〜という程度のものではありますが、確かにあったと思います。もうそろそろ時効だろうと思うので、その佐川滋賀時代の「兆候」についてこの機会に少しだけお話しさせていただきます。
2012年8月4日。その日はホンダロックとアウェイでの対戦でした。実は佐川滋賀、いや、佐川大阪時代からなぜか相性の悪かったホンダロックの、それも宮崎市生目の杜総合運動公園陸上競技場でのアウェイ戦。当時、残留争い圏内にいたホンダロックと、優勝争いをしていた佐川滋賀。当然ながら佐川滋賀の圧勝と思われたこの一戦でしたが、終わってみると1-1のドロー。しかも開始早々にホンダロックが先制。後半になってようやく御給のゴールで追いつくも、そのまま終了。現場で見ていても、明らかに動きが重い、おかしいとは思いつつも「暑さや疲れもあるからね…」とその時はそう思っていました。それは終了後、公式記録を貰った私たちに「公式出た?」と声をかけてきた、中口監督かそれを見て「シュート7本か!勝てるわけないやん!」と言い放ったことも含めて「やっぱりそうなんだろうな」と思っていました。
それから1ヶ月もしないうちに、どうやらチームの状況が怪しいらしいという話がどこかしらから聞こえてくるようになりました。実はホンダロック戦の数日前ににチームと選手たちには、翌年1月末でチームの廃部が伝えられていたのでした。そんな絶望的なことを聞かされた直後の試合で、まともなパフォーマンスを発揮できる選手はそういないでしょう。そう考えると、あの内容も致し方ないと思わざるをえないです。よくぞ、同点まで追いつきましたね!そう思ってあげないといけないでしょう。おそらく中口監督のあの言葉は、重大な事実を隠すために必死に強がっていただけなのかもしれません。
この8月の段階では、まだ表向きには何か発表されていません。私たちサポーターでさえも「もしかしたら…」くらいの認識でしかありませんでした。
でも、そのことを確信したのは皮肉にも翌月行われた天皇杯でした。2012年当時、天皇杯は9月開幕で悪夢のホンダロック戦、その翌週のツエーゲン金沢戦を終えてしばらくの間、リーグ戦はインターバルがありました。そのインターバルの間に天皇杯の1回戦と2回戦が行われました。そのインターバルで選手たちは気持ちをしっかりと切り替えて、また強い佐川滋賀が戻ってきました。1回戦は関学大に大勝し、2回戦はJ1のヴィッセル神戸との対戦となりました。会場は神戸のホーム、ホームズスタジアム、ではなく同じ兵庫県の姫路陸上競技場でした。
今まで見てきた天皇杯でのJクラブとの対戦と比べても、明らかに動きと気合の入り方が違っていたこの日の佐川滋賀。11分に相手のパスをカットした清原から出たパスを嶋田が決めて、佐川滋賀が先制します。ターンオーバーを使っていた神戸は、焦りやコンビネーションの悪さから佐川の守備を崩せずにいましたが、43分にCKから同点に追いついて前半を終えます。佐川からしたら嫌な流れでしたが55分、CKを旗手がチョンと叩いたボールを奈良輪が絶妙なクロスを上げると、それに合わせたのは1点目のアシストの清原。後半開始から都倉に替えて大久保を入れた、神戸の反撃ムードをいなすような勝ち越しゴールでした。
その後、森岡から田代を投入。前線に圧を掛けて押し切ってゴールを奪おうとする神戸の攻撃を凌いだ佐川滋賀が2-1で逃げ切り、ようやく天皇杯でJ1クラブに勝利した、そんな試合でした。この時もまだ、佐川滋賀の活動休止の発表はまだでした。まだてしたが、この試合を見て「もしかすると…」という思いは頭をよぎりました。「勝ち続ければ12月もこのチームでサッカーができる」そういう思いでみんな戦っていたのだと思います。そして当然ながら、この段階でもまだチームの活動休止は発表されてませんでした。
実はこの日、佐川大阪時代に一緒に活動して、チームが滋賀に移ってからは試合に来ることがほぼなくなったサポ仲間がフラッとやって来たのです。「あれっ、どうしたん?」「いや、近くでやってたから」などと言ってたけど、何かと感性の鋭き彼のことなので、なんとなくそれっぽい虫の予感があったのかもしれないですねと、今からすればそう思いますね。そんなこともあった上で神戸に勝ったから、余計に嬉しかったですね…
その後の3回戦の記憶はほとんどありません(笑)「ホームズスタジアムで出来る」ということで、ほぼトランス状態になってたのかもしれません。PK戦までもつれたとか、公式記録を見て「そういや、PKで失点したかも?」という記憶しか辿れません。活動休止の発表はこれより2週間くらい後だったのですが、もしジェフユナイテッド千葉に勝っていれば12月までこのチームでサッカーが出来たのです。でもそれが叶わなかった選手たちの落胆ぶりを見て、その場にいたサポーターの多くはその頃すでに悟っていましたので「あ〜、やっぱりそうなんだな〜」と疑心が確信したことを覚えています。
そんなことがあって、それから約1ヶ月ちょっと。感傷に浸りながらチームを見続けていったので、最終戦の頃にはもう思い残すことは何もなかったです。いい思い出になりました、ちょっと寂しいですが…
そんな昔のことを、つい思い出してしまいました…
JFLからの退会って実は定期的に発生していて、一昨年の神楽しまね。その前は2016年のファジアーノ岡山ネクスト、2015年のSP京都、2012年の佐川滋賀、2011年のジェフリザーブズと三菱水島とけっこうな頻度で発生しています。神楽しまねはさておき、他のクラブに共通しているのは「Jリーグを目指すことを積極的に行わなかったクラブ」です。Jのセカンドチーム的な存在だったファジネクとジェフリザに関しては、シーズン中の移籍要項の変更や育成組織の充実化なども撤退の理由ですが、やはり金銭的なものも大きかったと思います。
以前、JFLで活動するにはどれくらいお金が掛かるのだろうかという試算をザッとしてみた記事を載せましたが、この記事の前提は大学のサッカー部だってので、実際は必要となるはずの練習場の確保にかかる費用や選手への人件費はほぼ含まれていません。それを含むと年間5000万近くはかかるのではないかと推測されます。それだけのお金を毎年払って、アマチュアとして全国リーグを戦うというのはかなりの負担です。
企業スポーツといえばよく「福利厚生活動」「社会貢献活動」というものがセットで語られます。福利厚生、社会貢献という「利益を生み出さない」活動ですが、高度経済成長期からオイルショック、円高不況を経てバブル期までは企業も多少の赤字が出ても活動を縮小や収束させる動きは少なかったです。でもバブル崩壊以降、徐々に企業の福利厚生活動の縮小が始まりました。さらに、株主の力が強くなって来た2000年台以降には「福利厚生活動は利益を生み出さない不要なもの」というレッテルが貼られるようになり、リストラ=スポーツ部の統廃合という構図が定着してしまいました。近年、ようやく日本でも「企業の社会貢献」「企業のメセナ活動」などが定着してきたおかげで、企業スポーツのクラブチーム化が進んできました。それでも厳しいことには変わりはありませんが…
「ソニー仙台くらいなら、どこかチームの引き取り手が見つかったんじゃない?」と思われる方も多いと思います。そんな簡単なもんじゃないんです。先ほども触れましたが、Jリーグのような世間的な知名度も宣伝効果もあまり期待できないJFLというリーグで、かつ年間5000万近く掛かる経費を毎年負担できるような企業もスポンサーもありません。それが簡単に見つかるなら、佐川滋賀もSP京都も今でもチームとして残っていることでしょう。いないから活動休止や廃部、解散してしまったのです。それでもSP京都はラストの数年、地域のクラブチームとして活動を続け、その間に新たな受け入れ先を必死に探したはずです。それでも結局見つからなかったので、そのままチームを畳まざるを得なかったのでしょう。佐川印刷サッカー部から佐川印刷京都SCに、そしてSP京都SCと変わるのを見ながら「チーム存続に苦慮してるな」と思いつつ、その一方で「時間の問題だろう」とも思っていました。それもこれも佐川滋賀での実体験があるからこそ、冷静に捉えられたのかもしれません。
今回のソニー仙台の活動休止はブルーレイ事業からの撤退がその発端とされています。ソニー仙台のチームのある多賀城事業所は、磁気テープやブルーレイの製造・研究拠点です。ブルーレイ市場の縮小に伴い、今年の6月には大幅な早期退職希望者を募っています。
そうした状況下で、選手のほとんどが多賀城の事業所やその関連会社の社員となっているソニー仙台の選手たちを抱えておくことは、リストラの動きに反することとなります。事業所としても苦渋の選択を迫られたことと察します。そのため、今行われているサッカースクールも、コーチやスタッフが社員である以上、活動終了となるのも当然の流れでしょう。
2011年の東日本大震災では事業所の1階部分にまで津波が押し寄せ、サッカーどころではなかったにも関わらず、選手たちは多賀城や塩釜、七ヶ浜などの仮設住宅に赴き、サッカー教室を開いたりしていました。2015年にはセカンドステージで優勝、チャンピオンシップにてヴァンラーレ八戸を下して初優勝。震災復興のシンボルの一つになったことでしょう。
それでも、同じ企業チームを見続けてきた者としては「いつ何時、チームの活動が終わるかもしれない」という不安を抱きつつ、その活躍を見届けてきました。そして2024年9月27日、ついにその時がやってきました…
ソニー仙台というクラブが無くなることは確定です。もはや覆ることはありません。そうなった以上、叶うのなら1人でも多く、サッカープレイヤーとしてJFLやJリーグ、あるいは地域リーグでもいいから移籍して、1年でも長くプレイヤー人生を続けてもらいたいと思うこと。プレイヤーを諦めたとしても1人でも多く、サッカーに携われること。ソニー仙台の宮城県内での貢献度は非常に高いので、おそらく県のサッカー協会や県内のサッカー関係者の中にソニー仙台のOBは多数存在すると思うのです。そういう人たちの人脈をフルに活用して、どこかのクラブでコーチやスタッフを続けたり、またコーチングライセンスの取得するにしても多少の融通が利くことと思います。そうした繋がりを活かして、宮城県やその他の地域のサッカーの振興や発展に貢献してもらいたいです。そして、残念ながらサッカーから離れることになったとしても、今後の人生においてソニー仙台のプレイヤーだったことを誇りに思える、そんなチームで最後終わって欲しいです。そのためには、今の順位はあまりにも残念すぎます(9/29現在、勝点23、12位)。一つでも順位を上げ、勝点を上積みして、出来る限り最高の成績で最後のシーズンを終えてもらいたいです。
そして最後に、鈴木淳監督以下コーチの皆さん。今シーズン出場機会に恵まれなかった選手たち全員を、残り試合で使ってあげてください。わずかな出場時間であっても、彼らにとってはそれが「最後の就職活動」になります。佐川滋賀の最後の年、中口監督は廃部が決まってからは、残り試合全部を使ってほぼ全選手を試合で起用しました。それが選手たちへの最後の配慮でした。思うようなシーズンにはならなかったかと思います。でも、チームを預かる監督として最後に出来ることは、おそらくこれじゃないでしょうか。みんなが最後、ハッピーに終われるように最大限努力してもらいたいです。それが「チームを失ったサポーター」からの切な願です…
以前書いた記事を載せておきます。重複する内容もあるかと思いますが、合わせて読むとより分かりやすくなるかと思います。
参考までにこういう記事も上がったようなので、そちらもどうぞ…
そう考えると、一度降格して再びJFLに戻ってきたホンダロックというクラブ、いや会社はバケモノみたいなものなんですよ、実は…。ただ、今のあの会社にそこまでのやる気とパワーがあるかは別ですが…