オリパラ東京大会~政府の役割とは
7/20ウォールストリートジャーナル紙の取材に対する菅首相のコメントが話題になっています。
「やめることは一番簡単なこと、楽なことだ。挑戦するのが政府の役割だ」
周囲からオリパラの開催は危険だからやめるようにとの助言を何度も受けたにもかかわらず、上記の信念から結構したとのことです。
https://www.sponichi.co.jp/society/news/2021/07/22/kiji/20210722s00042000123000c.html
首相のインタビューでは「申し上げましたように」という言葉で回答が始まることが多いように感じます。規定の路線は変更しないというのがスタイルのようです。全く他人の話は聞けないのかと思っていたのですが、助言があったことは理解できているらしいのがせめてもの救いです。
それにしても「政府の役割」というのは、どう理解するべきなのでしょうか。
オリンピックが経済効果の目的で承知されたのは自明の理ですが、経済の維持が役割なのでしょうか。中止に伴うIOCへの解約金等の損失は数兆円に上るとも言われていますが、開催による感染拡大に伴う経済損失は明らかにそれを上回るものでしょう。すでに国だけで数十兆円の緊急支出を行っており、国民経済の損失はさらにそれを上回っているでしょうから、感染拡大の負の経済効果が開催の経済効果を上回るだろうことは、早い時点から予測できていたはずです。
では、国民のムードを明るいものにするのが役割でしょうか。それがかなわないものであることは、オリンピックに反対する各種の世論調査を見れば明らかなことです。バッハ会長は「オリンピックの開催が世界へのポジティブなメッセージとなる」と発言しているようですが、そのメッセージが日本国民の悲鳴によってかき消されていることを多くの海外メディアも報じているようです。
どうにも「政府の役割」というものが理解できないのです。おそらく多くの国民は「安全・安心な東京大会」ではなく「安全・安心な国民生活」の維持を政府に望んでいると思うのですが、政府は違う考えのようで・・・
政府ではなく自民党総裁の役割として、オリパラの開催に期待するものがあるのは容易に想像がつくのですが、それに対しても世論調査はNOといっています。「始まってしまえばムードが変わる」という考えはバッハも会長も共有しているようですが、実に日本国民もなめられたものです。私はそれが悔しいのもあり、この「オリパラ見ない」の記事を書き続けています。
苦しいことに挑戦する、苦しければ苦しいほどやりがいがあるという菅首相(政府?)の価値観は、我々の世代だとアニメ「巨人の星」を思い出します。思い込んだら試練の道を行くのです。
国民の(文字通り!)血を流し、医療従事者の汗を流し、スポーツの美しさに感動して流す涙はもう枯れ果ててしまいました。
タイトルバックでうさぎ跳びをしていたのを思い出します。今では百害あって一利なしと言われるうさぎ跳び。
どうやら、自ら(国民だけでなく内閣支持率も(笑))を痛めつけるだけのうさぎ跳びを我々は強制されているようです。
オリパラ視聴をやめませんか
https://note.com/higetikuwa/n/naef51caf2bb1