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マクドナルド事件

「もう無理、疲れた...」
溢れ落ちる程ではないその涙を
瞳に溜めた女はそう言った。

"涙は世界最小の海だ"
僕はその瞳を見て、
どこかで誰かが言っていた、
その言葉を頭の中で反芻した。


3時間前、タイムカードを切り、
その日のアルバイトを終え、
近く迫っていた自らの個展の
コンセプトや作品をいくつ展示するかなど
諸々の事をノートにまとめようと
24時間営業のマクドナルドへと向かった。

少し小腹が空いていた。
携帯アプリのクーポンを見ると
ポテトフライのLサイズが
190円だったのでそれと
コーラのSサイズを頼むことにした。

「クーポンのこれと、コーラの...
いや、お水で...」

コーラまで頼んでしまうと、
1万円札をくずさなくては
いけなかった。

カリカリのポテト、
ふにゃふにゃのポテト、
ピンと直線になったポテト、
弧を描いたような形のポテト、
矢継ぎ早に口へ運んだ。
ガラス張りのカウンターテーブルから
見える人々は同じ表情をしていた。
よっぽどポテトの方が個性を持っている。
塩が纏わり付いた親指と人差し指を舐めた。
世界で一番おいしい指だった。
舐めた後の指を右の太ももでさっと拭いた。

ノートを開いて頭を捻らせて、
まずは箇条書きで思いついた
アイディアを書き始めた。
そろそろ具体的にまとめていこうと
次の作業に移ろうとした。

その刹那、
独りの女性が
シナモンメルツとホットコーヒーを
トレーに乗せて僕の席の隣に座った。
同世代ぐらいであろう彼女は
明らかに目に悲しみの色を持っていた。
だが、トレーの上の食べ物は
むしろ嬉しいことがあった人が
注文しそうな食べ物であった。
どっちなんだろう、と思った。
嫌な事があり、せめて自分を労うために
食べ物だけはキラキラさせたのか、
"自分へのご褒美"というやつか。
一口、二口と"ご褒美"を
食べている彼女に電話がなった。

電話の相手が先に話し始めたのだろう。
数秒経った。

「もう無理、疲れた...」

まるで独り言のように、
真夜中の海から聞こえる
静かな波の音のように、
彼女はそう言った。
神妙な面持ちでそう言った。
ホットコーヒーひとつなら
雰囲気は完璧を保っていたが、
シナモンメルツがその雰囲気を
少しブレさせた。
やはり人生はドラマではない。

「無理やってば...」
「なんでそうなるん...」
「もうわからへん...」

ネガティブな言葉が続いた。
そんな言葉を吐く度に
少しづつ涙がストックされていった。

恋人と揉めているのか、と思ったが
でもそれを裏付ける言葉はなかったから
家族か友達と喧嘩したのか、
仕事でうまくいっていないのか、
彼女の言葉から様々な想像を働かせたが、
涙の所以はわからなかった。

なぜか僕は今日初めて会った彼女に
惻隠の情を示していた。
事情は何もわからないくせに
彼女の哀しみに共感すらしていた。
同世代だからか、少し可愛いからか、
もう理由はどうだってよかった。

たまたま隣の席にいる僕の使命は
きっと、せめて、瞳に溜まった涙を
頬までは伝わせない事だと思った。

僕はカバンを弄った。
鼻を噛んだティッシュ、
ダメだ、これじゃ汚すぎる。
どうして僕は1人の紳士として
ハンカチすら持っていないんだ、、。
トレーを返却するところにある紙ナプキン、
ダメだ、なんとなくダメだ。
そういえば、隣にセブンイレブンがあった。
僕は財布だけを持ち席を立った。

ブルーのハンカチ、
ピンクのハンカチタオル。
どっちだ、どっちが正解だ?
僕は思考を巡らせた。
女性だ、ピンクだ。
僕はバカだった。
そういった決めつけが
女性の社会進出の妨げになっている。
未だに海外に比べて日本の
政治家に女性が少ないのは、
会社において役員や幹部社員に
女性が少ないのは
僕みたいなバカが多いからだ。
どおりで最近よく"多様性"という言葉が
飛び交うわけだ。あれは僕に言っていたのか。

レジで1万円札をくずした。
コーラを頼んでもよかったな。

僕はカウンターの席に戻った。
大丈夫だ。
彼女の涙はまだ頬を伝っていない。
どのタイミングで渡そうか。
いやどんな言葉を添えて渡そうか。
「これ、もし良ければ、、」
よくて50点だ。
「涙、似合わないですよ、ほら笑って?」
マイナス10000点。

言い忘れていたが、僕は内弁慶なのだ。
身内だとイキり倒せるのだが、
初対面の人に対しては自意識が極端に高まる。
新手のナンパと思われないだろうか、
もちろん僕にそんな気はない。
そうだ、最愛の彼女だっているんだ。
緻密にシミュレーションを重ねた。

爽やかな笑顔で、
「もしよれしければ、お使いください!」
僕はそう言った。

こんな誰も見ていない文章で
かっこつける必要などない。
詫びます。実際の僕はこう言った。

ゼロに近い表情で
「すいません...あの..これ..使ってください。」

僕が自分の使いさしを
渡していると思われないために
綺麗にパッケージされたタオルハンカチの
セブンイレブンのシールがついている方を
見えるようにして渡した。


「え....あ....えっ....」


一瞬にして涙が乾いた。
そうです。僕は完全に引かれました。
誰か僕を殺してくれる人いませんでしょうか。

僕の優しさを受けた彼女が
また誰かに優しさを渡して、
彼女の優しさを受けた誰かが
また誰かに優しさを渡せば、
世界が今より少し良くなると思った。

先日、知人に言われた。
「優しさかどうかを決めるのは受け手だ。」
僕はどうやら、
ただ、おこがましかったようです。

神に問う、優しさは罪なりや。


終電は過ぎていた。
僕は逃げるように走って帰った。

その事件以降、
僕がマクドナルドに
足を一歩も踏み入れてないない事は
言うまでもないだろう。
やはり人生はドラマではない。

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