遮光カーテン
「山口君、日が出てきたから
教室のカーテン閉めてきてくれるー?」
村木さんにそう言われ私は教室の
遮光カーテンを閉めた。
が、劣化により生地が薄くなり
所々、破れてしまって、
カーテンから光が漏れていた。
"遮光カーテン"のくせに
光をお漏らししていた。
光を遮るために、
この世に生を授かり、
遮光カーテンという名前を与えられたはずだ。
私はもう友人を呼ぶように
「遮光カーテン」と呼んであげられないのか?
ここで私は1つの問いが生まれた。
"見た目は完全にそれであるならば
機能や役割を果たせずとも、
それ足り得るのか。"
例えば、
見た目は完全に車なのだけれど、
壊れていて走ることはできない。
これは車と呼べるのか。
車は元来、
人を移動させる役割である。
その役割を失った車は
まだ車と果たして呼べるのか。
はたまた、ただのゴミか。
例えば、
死んだ鳥は鳥か?
枯れた花は花か?
錆びた鉄は鉄か?
そんな疑問を物や他の生物ではなく、
自分に当てはめてみた。
世界はどんどん、
システマティックになってゆく。
システムを回すためには、
決まり事(コード)があって、
人間はそれに適合した生き方をする、
というか、せざるを得ない。
どんな人間でも、そのコードを
犯さない限りは、多様性は大事だからと
優しく人間と認めてもらえる。
しかし、私はほとんど
そのコードを守れていない。
人間の形はしているが、
人間としての役割は果たせていない。
私は人間足り得るのか。
その存在意義はあるのだろうか。
もしかしたら、
システムエラーなのかもしれない。
破れた遮光カーテンを見ながら
15分ぐらい考えたが答えは出なかった。
事務室に戻った。
「カーテン閉めるのにそんな時間かかる?」
「へへっ、すみません」
誰がシステムエラーや。
今日もしんど。