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ドーナッツショップの常連/ 1979-1981 アメリカ南部で暮らす

今回はGoogle Map Street Viewで懐かしい海辺の街を訪ね、出会った人々を思い出してみました。/ Google Map Street Viewツアーで思い出すドーナッツショップの思い出です。

*画像は全て私が80年代後半に再訪した時にインスタントカメラで撮った物です。しかし画像悪すぎですね…。

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カウンターのその席は大体空いている。
何処で買ったか今では覚えていないが、地元の新聞を抱えて毎朝買い出しの後に寄る。きっとその店の外にある新聞スタンドで買ったんだろう。

席につくと毎日同じシナモンシュガーとcoffee注文する。。接客する黒人のおばちゃんは無愛想に返事する。もう慣れっこだけど南部の田舎町ではアジア人は歓迎されていないようだった。1980年初頭とは言え、当時まだベトナム戦争と言う後遺症を抱えたアメリカはアジア人と見るとベトナム人と思ったのかも知れない。

まぁ〜嫌だったらとっとと母国に帰ればと言われそうな勢いだから別に気にする事もない。そんなつっけんどんなやり取りでもドーナッツとcoffeeは出てくる。そしてお代わりも聞いてくれる。しかし私はこの店のアメリカンcoffeeに慣れるまで時間がかかった。日本のコーヒー専門店でバイトした事のある身としては厳しい評価をするしかない。

新聞を広げるとイランアメリカ大使館人質事件と大統領選挙の話題がトップページを飾っている。新聞の一面の上部には人質になって何日(例えばDAY 30)といと言う数字があった。人質事件は444日間続き1981年1月20日に解決した。

地方紙に日本の話題はまず皆無と言っていい。だから日本での出来事は殆ど知る由もない。兎に角この土地に馴染むことに必死で街の中をまだ彷徨っている状態だったが、このドーナッツショップともう一軒居心地のいいCoffee shopを見つけたのが救いだった。そのcoffee shopの話はいずれ。

新聞に目を通すが読むものと言うより見るもので、ほとんど理解できない政治用語や経済用語の羅列に閉口していた。それでもそこに載っている写真を見るとなんとなくこの町に馴染めそうで、世の中が判った様に思えた。新聞を眺めながら随分遠くまで来たもんだと思った。

さてこのドーナツショップは1937年創業の日本でも近年話題になった”Krispy Kreme Doughnuts”当時アメリカの何処の街にもある普通のドーナッツショップだった。Topの写真は80年代後半に再訪した時に撮ったもので、私が通っていた頃のまま残っていた。しかし現在google mapでお店の画像を見ると現代風に変わっていて三角屋根は無くなっていたのがちょっと残念だ。店に入るとガラス越しにドーナッツを作っているところが見えレジカウンターと一体になったカウンター席が伸びその先でUの字にラウンドして続いている。その中で黒人のおばちゃんは忙しそうに働いている。

カウンターから外を眺めると次々に車がやって来て、労働者が出勤前にここでcoffeeトーナッツを買い、忙しそうにそれぞれの職場に向かう姿が見える。お店の中はリタイアした老人が多いのでゆったりした時間が流れ、飲み放題のcoffeeをお代わりしている。

なんでこの店に毎朝寄ったかと言うと他にその時間に開いている店がなかったと言う単純な理由だった。でも古き良き時代をまだ残している80年代初頭のこの店がお気に入りだった。

仕事が休みの日以外は、職場のレストランの買い出しの後、朝8時過ぎにはここに居た。

通い出して数ヶ月が過ぎた頃、おばちゃんの態度が明らかに変わり始めた。愛想良くなったのだ。毎日寄る内にいつものドーナッツとcoffeeと言うのを覚えてもらえ、会話はなかったが居心地良くなった。確か1ドルに位の会計でも25¢のチップは必ず置いたからだろうか。この街を離れるまでの2年間通い詰め、1981年春のある朝、最後に寄った時は別れの挨拶をおばちゃんと出来るまでになった。3ドルをお礼に渡しこの街を離れ、カリフォルニアにむかった。

この体験から同じ店に通い詰め常連になることで町に溶け込めるんだという事を学び、同じ様に通い詰めたスーパーのレジの白人のおばちゃんとも仲良くなり、当地を離れる時はハグまでしてくれた。そして毎週末にはライブハウスに通い、そこで生涯の友となるミュージシャン夫婦と運命的な出会いをする。その話は滞在記として纏めているのでそのうち公開します。

ドーナツショップでの出来事がきっかけで益々この町が居心地良くなるという結果を生む。もしかするとドーナツショップのおばちゃんは幸運の女神だったのかも知れない。

さて、この街は歴史がある街で至る所に歴史的建造物も多かったし、観光客向けのナイトスポットも沢山あった。この街が住みやすかったのはアメリカでも有名なNAVY BASE があり、海外に駐屯した経験のある軍人さんが沢山いたという事情もあり、南部の田舎町にしては垢抜けている印象もあった。そして、リタイアした軍人さんも多く住んでいた。

当時の毎週末に通ったスクエアーはデスコあり、ライブハウスあり、デキシーランドジャズありととても賑やかな所だった。ここでミュージシャンの夫婦と友達になった思い出の場所でもある。

80年代後半に再度訪れた時は当時の賑やかさはなかったが、現在は復活しているようだ。
右上の壁のイラストがメンバーカードの元になっている。
1980年当時、実際に私が使っていた会員書。毎週末通い詰めたので顔パスで提示する事はなくなった。未だに捨てられずに保管しているのはいい思い出がこの場所に一杯詰まっているからだろう。
歴史的建造物保存地区はきれいに保たれ、レストランやショップとして使われている。


歴史的建造物のサンドイッチハウス。中もウッディーで素敵です。

今回はGoogle mapストリートビューを観ながら、79-81年まで住んだPensacola Fla USAの思い出からのエピソードでした。こういう使い方も面白いですね。しかし、40年前に2年だけ住んだ高層ビルなど皆無の田舎町なのに道路を覚えているって事は相当この街が気に入っていたんでしょうね。

今、長文のその滞在記を書いています。発表出来る時が近づきましたらまたお知らせ致します。

Photographer higehiro
instagram higehiro
Twitter higehiro134



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