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もし自分が死んだらお葬式にたくさんの人が来てくれるとは思えません 勝手に悩み相談 その32

妻の職場でコロナ感染者が出たと思ったら、次は娘の保育園で感染者が出てきた。コロナ禍、という言葉はもう耳にタコだがここまで身近に感染者数の増加を感じたのは初めてである。

どんだけ擦るねん。
所属事務所からの厚いプッシュ受けとんのかい。

ってなクソみたいなこともぼやきたくなる。

というのも「キッザニア」というこども向けの職業体験施設のチケットを姉から譲ってもらったのだが、期限が3月末までなのだ。

私はいち早く後ろめたい気持ちなく、キッザニア内のでピザ職人を体験した娘がつくったピザが食べたいし、さらには娘が稼いだ施設内貨幣「キッゾ」でショッピングに頭を悩ませる姿が見たいのだ。

安心してほしいのは、キッゾを用いたチンチロなどの賭博行為は禁止されているのでざわざわすることはないということだ。

はやくいきたいナリィ…

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・悩み その32

もし自分が死んだらお葬式にたくさんの人が来てくれるとは思えません。
友達いないわけじゃないですが深い関わりを持つ人がすごく少ないです。学校でも浅く広くで、クラスメイト全員とは話すけど2人組作るってなったら作れません。
私は同級生の死を2度体験していて、どちらのお葬式にも行かせて頂きました。2人とも凄く明るくて優しい子で友達が多いです。だからたくさんのヒトが来てました。
それを見て同時に私が死んでもきっとここまでの人は来ないんだろうなと思いました。

そう思ったから別に死にたいとか悲しいと思うわけではないですが、やはり友達は多く作るべきなんですかね?ひとりでいるのが好きなのであまり作ってません。人との関わりも苦手なので、、

みなさんどう思いますか?

ID非公開さん
(引用元は
コチラ

あーいいですね。
青くて、クラスメイトという記述からも若いんでしょう。

私もこういうことを考えた時期あります。
これに対して、面白い動画を過去に見たことがあるので共有したい。

こちらは解剖学者、東京大学名誉教授の養老孟司(ようろう たけし)さん。
ベストセラー本『バカの壁』の著者といった方がピンとくる方もいるかもしれない。

サムネイルにもあるが、養老氏は動画内にて

「自分の死」に論理的な意味はない。
「死」というものは「自分の死」ではない。

何故ならば死んだことを認識することができないから。

こういった旨のことを主張している。
いきなりドライすぎやしませんかと、そりゃそうだけど…。


って思ったかもしませんが、これはマジでそうなんすよ。

自分の葬式は見れないんですよ。

同級生の死を目の当たりにして、自分の死後の想像が輪郭までくっきりとしてしまった、のかもしれませんが、とはいえそれはただの想像です。

もしも、あなた自身の希望として「たくさんの人に弔ってもらいたい」というのであれば、それが実現したとしても、それを観測するのことはできないので残念でしたとしか言えません。


またそういうことではなく、あるいは同時に、あなたにとって大事な人が「たくさんの人に弔ってもらってよかったね」と思ってもらいたい、あるいは「あなたの葬儀の参列者が少なくて悲しい」などと思う想像をしているのであれば、

あなたにとっての大事な人は、あなたという人の葬式の際に、葬儀の参列者の多い少ないを気にする人ですか?

あるいは気にする余裕があると思いますか、所詮そんなことを考えるのは関係性の薄い故にショックが小さい、つまり余裕のある人たちではないでしょうか。

動画内にて養老氏は、こうも言ってます。

「自分の死」は基本的にはない。
「死」というのは自分の親しい人です。
親であり、子どもであり、恋人であり、友人。
そういう人が死んだらショックです。

赤の他人はどうか。
「死のうが生きようが知ったこっちゃない」

ドライすぎやしませんかーと言いましたが、それは論理的に自分の死はないといったことに対してなんですが、これはどうですか。

クソエモいですよね。


赤の他人は知ったこっちゃない、これは裏を返せばば養老氏にとっての大事な人の存在の重みを感じますよね。

同級生の死は、確かにショックな経験だっただろうと思います。しかし、それはあなたの親しい人でしたか。参列者の数の大小を見れる程度の余裕があったことからあなたにとっては大きな存在ではなかったんじゃないですか。

なにが言いたいかっていうと


・観測もできない葬式の参列者の数のために、苦手分野である人付き合いに踏み込むのはムダムダムダムダ。

・そんなアサパチャな人を作ることにパワー割くなら、大事な人を作ることにリソースを注いでいきましょう。


ってことでよろ。

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養老氏のエピソードで好きなやつ。

父の臨終に立ち会った際、周囲の大人たちに促されながら「さよなら」の一言を言えなかった経験が、中学生・高校生時代「人とあいさつするのが苦手」な性格に影響したと自己分析している。

その因果関係に気づいたのは40歳を過ぎてからの通勤途中の地下鉄のホーム上であり、その後、地下鉄の中で涙しながら「そのとき初めて自分の中で父が死んだ」と自著で告白している。

一見、ドライに見える死生観ですが、父の死に対して十数年向き合ってきている訳です。大事な人の死が、「死」である。

体現してます。

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