吉村虎太郎原えい処(東吉野村天誅組紀行)
天誅組総裁の一人である吉村虎太郎原えい処に行ってきました。
東吉野村関連の本は「寅太郎」と記載されています。私は先日父にお見舞いのメッセージをくださった末裔の方が「虎太郎」という漢字を使われていたので、そちらを使用しています。
吉村寅太郎の最期(「草莽ノ記」より)
本隊の後から傷病者が足ノ郷峠(東熊野街道)を下ってきた。この中には吉村寅太郎の組、松本奎堂、藤本鉄石の組、安岡嘉助の組などが前後して進んできた。戦闘能力の乏しい傷病者の組は、行路を変更して伊勢方面をめざした。
9月24日の夜、吉村の一行は本隊よりやや遅れて武木(現川上村)を出発した。高取城攻撃での傷が悪化して歩けない吉村は、むしろを2つ折りにした駕籠(かご)に乗っていた。
吉村は、
「辛抱せよ、辛抱せよ、辛抱をしたら世は変わる。それを楽しめ。」
と、担いでいる人夫を励ましたという。
鷲家口の東約1km手前、烏原(からすわら)の三畝峠(現東吉野村幼稚園の川向のあたり)にさしかかると、鷲家口は篝火(かがりび)で天を焦がし銃声が闇を裂いて響きわたった。これに驚いた人夫は、山ノ上の祠(ほこら)の前で吉村を投げ出して逃げてしまった。
吉村はどうすることもできずに途方に暮れていた。そこへ、山下佐吉、山崎吉之助、森下幾馬らがやってきて、吉村に出くわした。
彼らは、総裁吉村を譲って、激戦の鷲家口を避けて小村に下りた。石舟垣内の簾屋(すだれや)(笹岡初枝宅、一泊したとも)で少し休んで人夫を雇い、駕籠で木津川に行き、庄屋堂本孫兵衛(堂本みつ枝宅)の世話で26日まで休養していた。しかし、敵に密告の噂を聞き、その夜堂本宅を出た。
寅太郎は出発の時、堂本家の好意に感謝して土佐から持ってきた象牙と銀でつくった陣中箸を形見に与えた。堂本家には今も家宝として保存されている。
一行は萩原、伊豆尾への道が追討軍の警護によって塞がれていることを知って、病態の吉村をいたわりながら、深山をよじ登る覚悟をきめ、逃れられるだけ逃れようとした。蟻通(ありどおし)神社の裏山小牟漏岳(おむろだけ)の中に分け入った。山坂をよじ登り、谷をわたり、闇にまぎれて辿りついたのは、鷲家の南端鷲家口との村境であった。
吉村の疲労はにわかに重く一歩も進むことができない。ふとふり返ると、今おりてきた山の端にかすかに灯火がもれる一軒の茅屋(かやぶきの家)があった。家の中をみると、ただ一人老婆がいるだけである。吉村らは、二分銀を取り出して老婆に与え、やっと冷飯にありついた。
それから雑木を割った松明で間道を辿って進んだ。しかし逃れるすきはありそうもない。やむなく歩みをかえして新田にきた。
吉村は、島村省吾、その他(森下幾馬、森下儀之助、辻本卯吉ほか一名)の一堂に別れを告げた。河内の辻本卯吉に金三十両を与え一同を逃れさせた。そうして吉村は再び老婆の家にもどり、そばの薪小屋に潜んでいた。(辻は点が一つの方の字)
翌日、9月27日の早朝、老婆が起きて水をくむために薪小屋のそばへきた。すると人の気配がする。小屋の中をのぞいてみると、夜明け前に食を求めた浪士の一人であった。びっくりした老婆は太七という者に告げた。太七はこのことを鷲家にある油屋旅館(橋本宅)の藤堂藩の分営に訴えた。
太七の知らせを受けた藤堂藩は、兵40人を選んで逮捕に向かった。召捕役人は、老婆の案内で薪小屋に近づいたが、天誅組の隊士であると聞いてみな恐れて近づかない。寅太郎はこのさまをみて、朱鞘の小刀をさげ悠々と小屋をでて、そばの大岩の所に座った。そして荘重な語調で、
「予は義党の首領吉村寅太郎である。心を皇室の回復によせ東奔西走、今回、叡慮を奉じて義兵をあげたがこと敗れた。これも天命である。ただつくすべき臣節は終わった。今はいさぎよく大義に殉ずるのほか思い残すことはない。しかし、武士には死際に士道をはずかしめないことである。このことについて頭分に面会したい。」
と、述べた。
しかし、藤堂兵は自決を許さず、寅太郎を銃殺した。
寅太郎辞世「吉野山風にみだるるもみぢ葉は我が打つ太刀の血煙と見よ」
吉村虎太郎原えいの碑
寅太郎の遺骸は、鷲家「石ノ本」の「原えい処」に埋葬されたが、明治28年の天誅組三十三回忌の墓地改装にともなって、小川の明治谷墓地(みよじだに)に那須信吾らとともに合祀された。
虎太郎が戦死した場所は、こちらの岩の裏側です。
この場所は東吉野村の天誅組の史跡の中で一番多くの方が訪れる場所です。父は千人以上の人を案内したと言っていました。
(実は娘の私はこの日が初めてです)
ここだけ違う空気が流れていて厳かな気持ちになりました。
荘厳な雰囲気と父の語りを動画にしました。
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