【小説】 これをあちらのお客様へ
「お酒が……飲みたい……」
繁華街の雑踏の中、僕のつぶやく声は誰にも届かない。
バイトの給料日まではまだ遠い。仮に給料が入っても自由に使えるお金は無いに等しい。
家賃や光熱費と次年度の学費に向けた積立で大半が吹き飛び、残る僅かな金額でやりくりをしなければならない。
仕送りはない。反対する親と折り合わぬまま、逃げるように地元を出てきたのだ。
大学に入ってからは一度も地元に帰っていない。万が一帰りたくなったとしても夜行バス代すら捻出できない。
そんな経済状況なものなので、お酒なんて外で飲めたものではない。
ディスカウントショップで買ってきた特大ペットボトルの焼酎をお茶や低価格の炭酸飲料で割って飲む。それだけでも僕にとっては贅沢な時間だ。
そのように基本的には酔えれば何でも良いのだが、時には美味しい酒が飲みたい。時々発作のようにやってくる衝動に駆られ、家を飛び出したのだ。
僕は定期圏内にある繁華街の片隅に佇み、楽しそうな人々を見つめていた。
少し先の方で小綺麗な身なりの学生集団が陽気な声を上げている。きっと彼らは実家が太く、不自由のない暮らしを送っている。
羨ましさで気が狂いそうだったが、無い物ねだりをしても仕方がない。
僕には一緒に飲むような友人もいなければ、奢ってくれるような先輩もいない。
女子がやるパパ活のようにママ活が出来れば良いが、残念なことに僕は眉目秀麗とは言い難い。その上、弁が立つ方でもない。
なんとかしてお酒を飲みたいのだが、良い方法が浮かばない。
何か捻り出そうと考えるうちに、昔見たドラマで主人公が食い逃げをしていたシーンが頭に浮かんできた。
食い逃げならぬ飲み逃げというのは実践可能なのだろうか。
一昔前なら何とかなったかもしれないが、今では難しそうに思える。
現代は監視カメラが多いので、一度逃げ切れたとしてもすぐに捕まりそうだ。
そもそも、酒に酔った状態で逃げ切れるのかといわれるとそれもまた難しそうである。
そんな時、ある案が思い浮かんだ。
これならば自然に他の客にお会計を押し付けられるかもしれない。
とあるバーの入口が見える位置で、僕は佇んでいた。通り過ぎる人やバーに降りていく人を吟味し、次の行動に繋げようと意気込む。
目の前に一人の女性が現れた。社会人と思しき風貌で、連れはいなさそうだ。
作戦を実行に移すなら今しかない。僕は意気込んでバーに向かった。
先程の女性は予想通り一人で飲んでいた。ペースが早く、既に二杯目のお酒を頼んでいた。
僕は女性から少し離れた席に着き、注文を入れる。
「はじめてなので、オススメをいただけますか」
マスターは注文に応じ、ジンバックを提供してくれた。
居酒屋で飲んだことのあるジンバックとはまるで別の飲み物としか思えないくらい美味しかった。
あっという間に飲んでしまいたくなる気持ちを抑えながら、女性の方を見る。二杯目を空けて三杯目に差し掛かっていた。
ゆっくりと味わいながら女性の様子を見る。ジンバックを飲み干し、女性の三杯目が終わりに差し掛かるのをじっと待つ。
今だ。
「マスター、これをあちらの女性に」
マスターは空のグラスを女性に差し出した。
「あちらのお客様からです」
女性は一瞬喜んだ素振りを見せた後、困惑の表情を浮かべた。
女性に向けて微笑みかけつつ、女性からの視線が外れた瞬間に無駄のない動作で退店した。
成功だ。
僕は足早に現場を離れ、電車に乗り込んだ。
信じられないくらい美味しいお酒だった。
今回はたまたま上手くいったが、二度目はないだろう。女性には悪いことをしてしまった。
いつか何処かで会うことがあれば、その時は観念して贖罪しよう。