募金について思うこと
どうも。
東野京(ひがしのみやこ)です。
今回は募金について私見を記していきたいと思います。
※あくまで私という一個人の感想です。
異なる考えを持つ方を批判する意図はございません。
駅前の募金活動
私の職場の最寄駅の入口前では、頻繁に募金活動が行われています。
アフリカの方(だと思います)が幾度となく声を張り上げ、
「恵まれない子どもたちの為に〜小学校を〜建てています!」
というフレーズを唱え続けているのです。
少し前までは成人男性しか見かけなかった気がするのですが、昨日は少女二人が同様のフレーズを歌うように奏でていました。
二人は息ぴったりで、無駄に綺麗なユニゾンがより遠方まで声を届けていきます。
私は募金を見る度に少し複雑な気持ちになる為、やや困ってしまいます。
東日本大震災後
2011年3月11日の震災から暫く経った頃、街頭で被災地に向けての募金活動をよく目にするようになりました。
あの頃の日本は被災地に対して何かしてあげられる事をしようという機運が高かったように思います。
当時の私は大学生でしたが、震災とは関係の無い所でそれなりに苦労をしていました。
実家が火事で全焼したことで母を亡くし、生き残った妹を引き取り、世話をしながらギリギリのところで大学生を続けていました。
父は幼い頃に他界しており、手を差し伸べてくれる親族もおらず、生きるか死ぬかというところだった感じです。
周りの方々の善意もあり、何とか生きていますし、大学も卒業できました。
緩やかな強要と爆発
先程述べた震災後の頃の話です。
ある日、友人と歩いていると駅前にて募金活動が実施されていました。
友人が善意で募金を行うと、活動者はこちら見てきます。
「貴方も良かったらどうですか?」
活動者は悪意のない笑みを浮かべ、私に募金を促してきます。
「すみません。今は自分の事で手一杯なもので」
そこまで話す必要はないのですが、相手に合わせて出来るだけ丁重に断ろうと努めました。
通常はそこで終わるかと思っていたのですが、今回の活動者は妙に熱心で押しが強かったです。
「東北は今とても大変なんです。皆さんの助けが必要です」
悪意のない笑みを絶やさぬまま、募金を強く促してきます。
その方の態度が不満だったのか、自身の虫の居所が悪かったのかは定かではありませんが、怒りが沸々と込み上げてきたのを今でも覚えています。
「では私は誰が助けてくれるのですか?実家が全焼して母を亡くして妹も養わなければならず、身内もいないのですが?他人に手を差し伸べられる程の余裕がないのですが?断っているのに募金を強要するのですか?警察を呼びましょうか?」
言いたいだけ言ってその場を離れてしまった為、活動者のリアクションは覚えていません。
気まずい思いをさせてしまった友人に謝ったことだけは覚えています。
成人して尚ここまで稚拙な面がある事に驚きを隠せず、自身の性格の悪さに辟易するばかりです。
きっと読んでいる方も引いたに違いないですね。
募金をしなくなった
上記の一件以来、募金そのものが何だか苦手になってしまいました。
募金という行為そのものを否定するつもりはありませんが、私はつい忌避してしまうのです。
よくよく考えたら募金という行為は不透明で、回収されたお金が本当に役に立っているのかを実感できないと思います。
横領や中抜も少なからず存在するようで、直近でも某長時間テレビの募金が話題になりましたよね。
基本的に見えないところには手が届かないと思っていて、知らない誰かに手を差し伸べるよりも周囲の方に出来ることをしていく方がずっと良いのではないでしょうか。
あくまで私の持論であり、冒頭にも記したように募金そのものを批判する意図はありません。
素晴らしい目的を持ち、その為に正しく使われる募金も存在していると思います。
その裏に潜む人の善意をチューチューして私腹を肥やす輩だけがどうにも許せないというだけです。
おわりに
相変わらず私の性格の悪さや偏屈さが溢れる内容になってしまいました。
読んでいて不快になってしまった方がいたら申し訳ありません。
ちなみに私は11日が嫌いです。
父の死も東日本大震災も実家全焼&母の死も自身の住まいが燃えたのも全部11日なので。
反対に好きな日は13日です。
嫌いな日の後に好きな日が来てくれるように、嫌な事の後にはきっと良い事があると思っていきたいです。
最後までお目通しくださった方、ありがとうございます。
また何処かでお目にかかれたら幸いです。