【小説】 アヒルの合唱は風呂の中

私には彼氏がいた。少なくとも私自身は彼のことを彼氏だと認識していた。

彼にとっても私は彼女と呼べる存在だったと思いたいが、どう思っていたのかは分からないというのが正直な所だ。彼は少し不思議な人だった。

彼とは少し前まで同棲していた。年頃の男女が二人きりで同棲していたのだから、傍から見てもカップルにしか見えなかったことだろう。

しかし、改めて問われたら付き合っていたとはっきりと答えられる程の自信はない。

私が煮えきらない態度になってしまう理由は大きく分けて二つある。
 
一つは彼氏彼女という関係性を裏付ける言葉を交わした記憶がないことだ。

「付き合おう」
とかそれに類する言葉を私から投げ掛けたこともなく、彼から受け取った記憶もない。

気が付いたら一緒にいたし、いつの間にか彼が私の家に居着いていた。

もう一つは彼が掴み所がない不思議な人物ということだ。

仕事をしているのかどうかも正直よく分からない。ふらっと何処かに行っていることはあるものの、時間も曜日もまちまちで定職についているとは考えにくい。

お金には困っていないようだったので、私が思いもよらないような仕事をしていたのかもしれない。

交友関係についても見えない。彼は容姿が良く、さっぱりとしたタイプのイケメンであった。スタイルの良さが効いているのか、何を着ても様になっていた。

私以外にも同じような相手が存在するのではないかと考えたこともあるが、他の女の影は見えなかった。

いつしか私は考えることを辞めた。変に詮索して関係が壊れる方を恐れたのだ。何も分からないが不満がないのだから、無理に知る必要はないと考えていた。


彼は可愛いものが好きだった。キャラクターや動物の類を見るたびに目を輝かせていた。

そうした彼の趣味で私の部屋の中にはぬいぐるみ等のファンシーグッズがじわじわと増えていった。

中でも百円均一ショップで購入したアヒルの人形が特にお気に入りだった。

彼はアヒルに名前を付け、お風呂に入る際はいつも持ち込んでいた。お風呂上がりには自分より先にアヒルを拭いてあげているくらいの溺愛っぷりだった。

はじめは一体しか所持していなかったが、いつだったかアヒルが一人では可哀想だと言い出して仲間をお迎えしていた。

それはある日のことだった。その日も彼は複数体のアヒル人形を浴室へ持ち込み、気持ち良さそうに湯舟に身体を預けていた。

彼はシャワー中こそ扉を閉めているものの、入浴に移行すると扉を開けて私に話し掛けてくれる。彼の声が浴室に響く感じがして、私はその時間が好きだった。

その時に何の話をしていたのかは思い出せないが、唐突に彼がアヒルの人形をつまみはじめた。

アヒル人形は掴んだり潰したりすると音が出るようになっていた。プッという可愛らしい音が浴槽内に響き渡る。

彼はプッという音を連続で響かせた。浴室内に反響する感じが楽しいのか、気分が乗ったようだ。浴室ではアヒル達が彼の手によって独特のリズムを奏でている。

「アヒルの合唱は〜風呂の中〜」

メロディーに合わせるようにアヒル人形達を鳴らしつつ、彼がご機嫌に歌っている。

「それ面白い。かえるの合唱だっけ?」
「めだかの学校じゃないかな?」
「それだ。久しぶりに聴いた気がする」
「懐かしいよね」

その後も彼は歌いながらアヒル人形を鳴らし続けた。様々な歌に合わせてアヒルを奏でる彼はさながらミュージシャンのようだった。

「歌も良かったけどアヒルさばきが凄かったね。その道のプロみたいだったよ」

お風呂上がりの彼に私は語りかけた。彼はバスタオルで身体を拭く手を止め、嬉しそうな顔でこちらを見つめてきた。

「本当!?アヒル、極めようかな」
「良いかもね。アヒルもきっと喜んでるよ」

私としては何気ない会話のつもりだった。その時は彼が楽しそうで私も嬉しいという程度にしか考えていなかった。


ある日、彼は音楽をやると言い始めた。バンドに加入するのだと嬉しそうに語り、スタジオ練習に向かっていった。特に大きな荷物は持っていないようだった。

彼は歌が上手いし、ボーカルなのだろうか。突然言い始めたと思ったらもうバンドに加入しているなんて、彼の行動力には驚かされるばかりだ。

それから数週間後、私は彼のライブに招待された。小さなライブハウスで客もそこまでは多くない。

いくつかの知らないバンドの演奏を経て、彼の所属するバンドがステージに登場した。

私は驚いた。彼が予想外の出で立ちをしていたからだ。彼が手に持っている黄色の物体、それはまさしくアヒル人形に他ならない。

彼は曲に合わせてアヒルを奏でている。音が出る部分をマイクに向けてリズミカルにアヒルを握る。時々別のマイクを使ってコーラスにも入っている。

あまりにもシュールな光景に曲なんて一切頭に入ってこなかった。

「どうだった?」
「うーん、初めて見るスタイルだったから新鮮だったかな」

返す言葉が見つけられず、美味しくなかった時の食リポのような返答になってしまった。私の返答を聞いた彼は少し悲しそうな顔をしていた。

初ライブから数日が経った頃のことだった。彼はバンドを抜けたと言い出した。

バンド仲間は彼にアヒルを辞めてボーカルをしてほしがったのだという。ツインボーカルにして、彼には歌唱に専念してほしいと言われたらしいのだ。

アヒルを辞めたくない彼とアヒルを辞めさせたいバンド仲間との間に軋轢が生じ、脱退に至ったのだという。

所謂方向性の違いというやつなのだろう。

バンドを抜けた彼はこれからソロで活動していくのだという。私は頷いた。

正直ソロで活動していく姿も想像できないが、彼がやりたいと思うことを否定したくなかったのだ。

その週の金曜から彼は路上でパフォーマンスをするようになった。毎週金曜の帰宅ラッシュの時間帯に駅の近くでアヒルを奏でていた。

いつからかアヒル以外の動物人形も駆使するようになり、彼の周りは沢山の動物人形で溢れていた。

動物たちを奏でる彼の様子は小さな動物園のようで、より多くの人の目を引く存在になりつつあった。

たくさんの動物達は一体一体音が違い、それぞれの良さがあるのだと彼は言う。

同じ種類の動物の人形でも大きさが違えば音も変わるらしい。そんな楽しそうな彼の表情を見ていると私まで楽しくなってくる。

ある日、彼はちょっとした有名人から本物の有名人になった。

通行人が彼のパフォーマンスを撮影し、その動画をSNSにアップしたのだ。その珍しさと見栄えから一気にバズった。

路上の観客は増え続け、ついには警察が出動するほどの人だかりとなってしまった。

話題が話題を呼び、彼はレコード会社にスカウトされた。メジャーデビューの誘いを受けたのだという。

しかし、彼はその誘いを断った。彼が言うにはレコード会社の人が動物人形達に無礼な態度を取ったのだとか。

その日以降、彼は路上ライブを辞めた。その代わり、気が向いた時に演奏動画をネット上にアップロードするようになった。

彼の動画は海外でも好評で、様々な言語のコメントが溢れていた。


ある日、彼は突然いなくなってしまった。動物達と世界一周をしてくるという書置を残して。

時々海外で現地の人と音を奏でる動画がアップロードされるため、それで彼の生存を確認していた。

彼がいなくなってから数年の月日が流れた。動画のアップロードは続いているが、私個人に向けては特になんの音沙汰もない。

付き合っているかどうかも定かではない状態で、このまま彼を待ち続けても良いのだろうか。そんな考えが頭を過る。

私はどうするべきなのだろう。

部屋を見渡すと彼が置いていった一体のアヒル人形が目に入った。

彼に触れたい、触れられたい。
彼がどう思ってくれていたかは分からないが、私は彼が好きでたまらない。

私は泣きそうになりながらアヒルのお腹の辺りをつまんでみた。

プスッとなんだか情けないようなみっともないような音がした。気の抜けた音はまるで今の私のようで、なんだかちょっと可笑しい。

私はこのアヒルを彼のようには上手に奏でてあげられない。でも今日はこの子と一緒にお風呂に入ろうと思う。

彼が歌っていたあの曲を思い出しながら。


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