「『負け組』応援団」でいいじゃない
日本は今、選挙結果の話で持ちきりですから、私のnoteを読んでいる方など誰もいないでしょう。
でもだからこそ、この時間にひっそり書いておきたいと思います。
先日SNS上で、大変高名な国際政治学者の方が
「(この時期に)ウクライナ国内に残っている人は、ほとんど負け組」
とお書きになり、それへの賛否両論が巻き起こっていると理解しています。
私自身は、その「負け組」という言葉がこの文脈で正確に意味するところや、ウクライナの国内に残った方が「負け組」であると判断される根拠などについて、ご本人に直接お伺いしたわけではなく、従って十分に把握しているわけではないことを、まずお断りしておきたいと思います。
もちろん、その方なりのお考えがおありなのでしょう。
その上で、この「負け組」発言そのものや、その発言に憤り、悲しむ人々の反応を見ているうちに、私はある方のある言葉を思い出していました。
「(人は)結局、今いる場所で、一生懸命生きるしかない」
私が心から尊敬する人の言葉です。
その方も、大切な人生の目標を持ちながら、それを達成するに適した状況に自分がおかれていないことに悩み、苦しんでいる。
それでもなにかしら前に進み、小さくてもなにかを成し遂げようとするのなら、たとえ不本意でも、限られた状況下でも、自分の出来ることを毎日少しずつやっていくしかない。
私はその方を、とても強く、美しいと感じました。
自ら前線に向かい、国土防衛のために闘う人。
ウクライナ国内で経済を回し、防衛を支えようとする人。
生き残りと発信のためにウクライナ国外に出て、活動する人。
その選択には優劣などなく、すべて強く美しいと、私は思います。
そのうえで、私自身も自分が今いる場所と環境で最善を尽くそうとするのなら、侵略を非難し続け、侵略に耐え続ける人々に――どこでどのように耐え続けていようと――寄り添い、国際政治の場でなにが起こっているかを発信し、支援を続けるしかない。
いったんそう決断してしまったら、ウクライナ国内に残る決断をした方々が「負け組」と評する方がいたとしても、とくになにかが変わるわけでもないと思えてきます。
ロシアによる侵略を非難し続ける行為を「ウクライナ応援団」と揶揄されることは、これまでにも増して多くなってきています。
これからは「負け組応援団」とでも評されるのかもしれません。
でもだからといって、今起こっている侵略をやめさせ、今後の侵略を押しとどめる必要性がいささかでも減るとは思えません。
私たち国際政治学者の行う発信の意義が減じられたとも思いません。
だからいいじゃないですか、「負け組応援団」で。
やるべき仕事は変わらないのですから。
(冒頭の写真はこちらのリンクからお借りいたしました。
2年前の記事ですが、今回の話にも通じる良い記事です。読んでみてくださいね。
https://www3.nhk.or.jp/news/special/international_news_navi/articles/cor/2022/12/05/27712.html
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