食い尽くしを理性で抑えているのでなんとか大食い系で留まっている人の精神の危うさの話
食べることが好きだ。
偏食ではあるが、自分の大好きなものを前にすると手が止まらない。
だから、食いつくし系の気持ちがほんの少しだけわかってしまう。
たまたま胃腸が弱く、たまたま胃の容量が人並で、たまたま自分が食い尽くされるのが嫌だから他人が食い尽くされるのも嫌であろうことがわかって、たまたま私が他人のことをあまり舐めない、それゆえにギリギリ、本当にギリギリ食いつくし系になっていないだけなんだと思う。
例えば、大皿でエビチリがでてきたとしよう。エビの数は大小合わせて9個で、2人で分けるとする。
エビチリは私の大大大好物!エビを4個しか食べられないなら全部大きいエビを貰えないと不満、エビを5個貰えたとしても一つくらい大きいエビがないと不満である。
平等でないのはわかっているが、頭で理解しているのと心が追い付かないのは別だ。
これは私が辛うじて食いつくし系でない部分だが、大皿から勝手に5個食べるようなことはしない。4人で分けるなら、勝手に3個食べるようなことはしない。
しかし私が理性を働かせて我慢をしている分、他人の挙動に目を光らせてしまう。
勝手に私より多くエビを食べた人間のことは、その食卓についている間は決して忘れない。
食いつくし系の特徴として、ほぼ平等に分けた料理でも、相手が食べている姿を恨みがましい目で見るというものがあるらしい。
私にとって2個と3個は平等ではないのだが、こういう意見をきくと理性的にならねばと背筋が伸びる。
なお、食いつくし系は他人の「食い」を許せるという意見もあるが、あれは嘘だ。むしろ食いつくしを理性で我慢しているからこそ、他人の「食い」を許せないのではなかろうか。
朝が弱いのに遅刻を一生懸命回避している人は、遅刻魔を許せないだろう。
それと同じだ。
例えば、クッキー缶をいただいたとしよう。
とてつもなく美味しいクッキー缶で、私個人宛にいただいたプレゼントだ。
私は家族が集まるリビングで、美味しい美味しいと騒ぎながらクッキーを食べるだろう。私宛のプレゼントなので独り占めしたい。
しかし、家族から「こんなにたくさん入っているクッキー缶で1つも分けてくれないなんて心が狭い」「なんでこんな子に育ってしまったんだ」「貰えないものを美味しい美味しいと騒ぎながら食べるのは意地悪でしかない」と言われ続けるのは目に見えており、文句を言われながら食べるクッキーは美味しさが半減するので、仕方なく1枚だけ分ける。
クッキー缶なんてのは同じ味が2-3枚ずつしか入っていないので、自分のものを人に奪われたという気分になる。
この間話題になったこのポスト↓には、共感できる部分があり自分に対してぞっとする。
前夫が食い尽くし系だったけど、お酒や食べ物を見ると、
— 夏野あおい@モラ夫と離婚への道のり (@natsu_no_aoi) January 13, 2025
「これは全部俺のだ。俺以外の人間が手を付けると『ああっ! 俺のなのに!』と腹が立つ」
と言っていた。人と一緒に大皿で食事すると、目の前で自分の分が減っていくのでストレスなんだって。
なので、本当に相手を見てやる。続く https://t.co/UOuMYkCyEm
おっしゃる通り。目の前に同じ味のクッキーは複数枚あるが、それら全ては善意で分けるものではなく私のものにしか見えないのだ。
一方こんなポストもあり、これへの慰めの反応には状況は違えど少し救われる。
食い尽くし系とは真逆だけど、うちの母は何でも家族で分けろって主義で、高校生の時、高3の先輩がバレンタインにくれたクッキーを一人で食べようとしたら「なんで分けないんだ」って叱られて泣く泣く分けたよ。料理上手な先輩が作った、一個ずつ違うクッキー。私にくれたクッキー。今でも悔しい。
— あひ (@ahidayoh) January 16, 2025
なお、自分用に買った同じ味が1種類も入っていないチョコレートアソートなんかは絶対に分けない。
私のお金で私が買った私のものなのに……という気持ちが沸々湧いて止まらないからだ。
お金をもらったとしても絶対に分けない(=交渉に応じない)。目の前のチョコレートには、お金以上の価値があるからだ。
例えば、目の前に駄菓子があるとする。
これは実話だが、小さい頃、弟と私、一人一つずつ駄菓子を買ってもらったことがある。別に珍しいことではない。
弟が何を買ってもらっていたかは忘れた。私はわたパチを買ってもらった。
※わたパチ
https://www.nichokichi.co.jp/SHOP/40203.html
私がチープなグレープ味とふわふわ食感とパチパチした刺激を大いに楽しんでいると、弟がしきりに「おいしい?」「それおいしい?」と聞いてきた。
「おいしいよ」と答え続け、一人で食べきった。
母からは、一口くらいあげてもいいのに何で察することができないのかと𠮟られた。
いや、それくらい察している。
弟がはっきり一口ほしいと言わないのをいいことに、分け与えたくない気持ちを全面に押し出しただけだ。
自分のものを人に分けることを、損得で考えてしまう。
例えば、いちごが目の前にあるとしよう。いちごの数は大小合わせて8個で、4人で分けるとする。
これは我が家の食習慣でしかないのだが、食後のデザートが大皿に出てきた場合、おかずを食べ終わった人間から順にいちごを選ぶ権利を得ることになっている。
自分が1番最初に権利を勝ち取った場合、当然1番大きいいちごと、2番目に大きいいちごをもらう。
しかし、自分が最後まで権利を勝ち取れなかった場合、7番目に大きいいちごと8番目に大きいいちごしか残っていなかったら不満である。
平等でないのはわかっているが、頭で理解しているのと心が追い付かないのは別だ(2回目)。
ちなみに、1番大きいいちごと2番目に大きいいちごをもらうことに罪悪感はない。権利を行使しただけだからだ。他の人もそうしている。だから私は正しい。
そのような心持ちになるのはひとえに食習慣の問題である。食いつくし系は育った環境によって生まれるという分析は正しいのだろう。
勿論駄々はこねない。おかずを食べ終わってないうちから先に手を出すこともないし、2個より多く食べることもない。
しかしそれは、私が食いつくし系でないからではない。分け合う相手が家族(親と弟)であり、家族を必要以上に舐めれば痛い目を見るのがわかっているからなのだろう。
今までの人生において、心から舐めた真似ができる人間がたまたま近くにいなかったからこそ、私は食いつくし系にならなかったのだ。
私が筋肉のない文化部女であり、先に他人を舐めたら自分が危険になる、というのも大きな理由であろうと思われる。
私はラッキーだから犯罪者でないだけだ、ということを心に刻んで生きていかなければならない。
誰にだって、悪いことをする気質が少しずつあるはずだ。
NOTEに移住したくて毎日記事を書くことにしています。
Twitterに依存してたころに毎日つぶやいていたようなことを書きます。