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発達障害からニューロマイノリティという捉え方へ



普通とは何か?


 「普通とは一体なんですか?」
 実のところ、多くの人が、そのように問いかけられると、ドキッとするし、なかなか正鵠を得た返答ができないのではないだろうか。
 日々の生活の中で、なかなか、自分自身の中にある、「当たり前」の物差しとなり基準となる、この「普通」という概念、自分自身が目の前の世界を切り取り、捉える枠となっている「普通」に対して、人は疑念を持つことはなかなかないのかもしれない。いや、よく吟味されることがないにもかかわらず、当たり前のように受け入れられているからこそ、人は、正確にそれに対して答えを出すことができないのだろう。
 世間でいわゆる「定型」とか「普通」と考えられ、捉えられていることは、あくまでも、時間軸やある一定の文化空間に限定されたものである。つまり、世間的に強要される「こんなの普通・・・だよね」、「あなたは、・・・なので全然普通に見える」というときの「普通」とは、具体的には日本の文化空間の中の普通であって、他国に行った際にそれは普通ではなくなるし、時間軸的に過去においてはそれは普通ではなかったはずだし、未来にいけばそれは普通ではなくなる可能性がある。しかし、人は、日々「普通」にこだわるし、「普通」のもたらす精神的圧力はかなり大きい。
 どうして、私たちは「普通」という「時間や場所で、色々と捉え方が変わる不確かな言葉や概念」を重用したり、時に意識しすぎてしまったりするのだろうか?ダイバーシティなる言葉や多様性のある社会への移行が推奨されている一方で、社会は、少しばかり違いが発現すると、人はその違いを理解するのではなく、「普通」という基準をもとに切り捨てたり、異化したりするし、そうした違いを表出させている存在の気持ちや考えをどうにか受けとめ考えてみようとはせずに、いつの間にか自分自身がそれに同化し、それを内面化してしまい、その「普通」というフィルターにかけながら、世界を見て、解釈しながら生きている。かつて流行ったKYという捉え方も、普通から外れたイレギュラーを排除しようとする圧力のかかった社会の中で、いかに多くの人が、自分自身排除されないように必死に生きているかを表している。また、人は、時に、自分自身の周りに、そうしたKYを意識的に際立たせ、表出させることで、自分自身が「普通」であることの安心を得ようとする防衛本能を発動させる。
 そうした「普通」がもたらす圧力は、発達の世界においても同様である。発達曲線から外れているわが子の成長を「普通」とのズレから親は憂う。他方で、障害を持った方々の世界においては、殊更、強い力として、日々の生活の細部にまで張り巡らされた「普通」の圧力の中で、彼らが「普通」でなければならないという規範意識を内面化しすぎて、自分自身の存在に価値を見出せず、自己否定して生きざるを得ない方も多くいる。

ニューロダイバシティとは何か?

 私自身、この2月(2024年2月)に発刊された『ニューロマイノリティ~発達障害の子どもたちを内側から理解する~』横道誠・青山誠編著、北大路書房をもとに、上記で考えてみた「普通」について考え捉えなおす機会を得ることができたので、今回は、本書に触れられている内容を共有してみたい。 
 まず、ニューロダイバシティとは何か。本書では、そのことに関して、次のように記述されている。

ニューロダイバシティとは、脳の多様性のことであり、全人類の一人ひとりの脳や神経の違いを多様性と捉えて、それを理解、尊重し合うという人間理解の発想から生まれている」。
「一人ひとりの脳や神経は違うのだから、その違いを正す、治すではなく、ましてや平均やマジョリティに合わせるのでもなく、その違いを理解し一人ひとりの可能性をどう伸ばし活かすかを考えるマネジメントである」(225-226)(志岐靖彦)

 本書によると、いわゆる発達障害者や発達障害児に関わる文脈で、ニューロダイバシティという言葉がよくつかわれるようになってきており、その中で、多くの論者が発達障害のない定型発達者と定型発達児を「ニューロティピカル」(神経(学的)定型者)、発達障害者と発達障害児を「ニューロダイバージェント」(神経(学的)多様性者)と区分して議論するようになってきているという。また、その中の代表的論者であるジュディ・シンガーは、「神経多様」なのは全人類がそもそもそうであるとして、発達障害者と発達障害児のために「ニューロマイノリティ」(神経学的少数者)という名称を提唱しているという。

ニューロダイバシティの考え方から、何が見えてくるか?

 では、このニューロダイバシティの考え方は、私たちをがんじがらめにし、縛りつけている、複雑に絡み合っている、私たちの「普通」の捉え方や概念をどのように解き、紐解いてくれるのだろうか?そのことに関して、本書では次のように説明されている。

このニューロダイバシティという視点は、『ニューロマイノリティ』を単純な能力の欠如や劣位として捉える『障害』絡みの視点とは、異なる見方や発想をもたらしてくれるということです。
『ニューロマイノリティ』は、『ニューロマジョリティ』と同じように多様性を生きていて、偶然の結果として少数派に属してしまっただけだと考えることで、彼らを助けるためのさまざまな方策に関して、想像力が湧いてくるはずです。(p3-4)

 そのような考え方を基盤に、発達障害児のための保育や教育を多面的に考えてもらうため、書籍名が『ニューロマイノリティ~発達障害の子どもたちを内側から理解する』となったという。

 他方で、ニューロダイバシティの考え方は、本書の第9章で、汐見稔幸が指摘する「二分法的な理解の反省」(p247)をもとに、「汎・発達特性」の考え方(p83)から、発達障害者にとどまらず、すべての人には何らかの発達特性があるという考え方に基盤をおき、これまでのように、「定型発達とそうでないものとの間に線を引いて、その間にグラデーションを描く」のではなく、「あえて線を引かず、あくまでも連続的なものとして扱い、その中にグラデーションをとらえる」方向性をとる。
 このように考えると、いままで「普通」から除外され、括られていた「発達障害者、発達障害児に対する見方、考え方、捉え方が大きく変わってくる。

例えば、自閉スペクトラムの世界はどう見えるのか?

 ニューロダイバシティの考え方をもとにすると、自閉スペクトラムに対するいわゆる社会一般的な理解、例えば、「対人関係の構築と維持が下手である」とか「コミュニケーションの取り方に難がある」などは、彼ら、彼女らの特性ではなくなるはずである。なぜならば、それまでの「普通」という考え方をいったん脇において、よくよく考えてみると、世間的に言われる「コミュニケーション能力」や「共感能力」は、決して個人の内側に存在するものではなく、人と人との間に存在し、あやふやでふわふわしたものであり、定義づけるのが難しいものであることに気づくからである。そのため、仮に多数派が入れ替わるだけでどんな人でも簡単に、それまで「障害者」として定義づけられていた人たちと入れ替わる可能性があるということになる。
 他方で、障害者や障害児が抱える困難性は、今の社会や環境との相互作用の結果生まれる「生きにくさ」や「困難」であり、社会がそうした「生きにくさ」や「困難」を生み出していること、そして、その社会とは、物理的な環境だけでなく、私たちの「普通」の捉え方、概念自体をも含めての者であることが分かる。
 このように、ニューロダイバシティの考え方、捉え方は、自閉スペクトラムの特性を優劣の視点抜きにフラットにとらえることで、今までの捉え方、受け止め方、考え方を相対化してみる。それによって、一度立ち位置を変えながら、彼らの内側から社会を見つめなおし、それにもとづいて彼らに対する理解や社会の構造や受け止め方などを再考しなおしていくか?という視点を提起している。
 本書の中で、次のような実験結果が示されていた。自閉スペクトラム者のみ」「非自閉スペクトラム者のみ」「半数ずつのミックスグループ」の3つのグループをつくって、いわゆる伝言ゲームをした結果、コミュニケーションの問題が発生したのはミックスグループだけだったという。また、各グループのラポール(信頼や親密さ)形成を尋ねると、それもミックスグループのみで低かった(信頼関係を構築できなかった)。 こうした研究結果とニューロダイバシティの考え方にもとづくならば、自閉スペクトラムを持つ人達の持つ世界への理解は、これまでと違う方向に広がり、深まっていくはずである。

発達障害をどのように定義づけ、見ていくのか?

 ニューロダイバシティの考え方を基盤にした場合、発達障害状態か否かは、本書で指摘されているように、次のように捉え直されるべきだろう。

「暑がり・寒がりといった感覚特性や継次処理・同時処理脳といった認知特性も含めた、障害の有無にかかわらず誰もがもつ脳の多様性を『発達凸凹』と定義する。そして、『発達凸凹』と『環境』とが、ミスマットを起こした際の『相互作用』が発達障害であるあると考えています。つまり、たとえ発達凸凹が大きくとも環境がマッチしているなら発達障害状態ではなく、発達凸凹が小さくとも環境がマッチしていなければ発達障害状態である。発達凸凹の大きさで発達障害か否かを分けるのではなく、マッチしているか否かで分けるということです。(p57)

 つまり、発達障害状態の要因は、その人の内側だけにあるのではなく、発達特性と社会的要因が合わさることにより、発達障害状態が生まれるということである。
 この社会的要因は、物理的・文化的な環境だけでなく、時には、養育者、支援者、雇用者の価値観の押し付けも強烈な発達障害の発現の要因となる。この点に、支援者、教員は気を付けなけれならない。良かれと思って言っている事、やっていることが、実は「普通」に縛られ、紐づけられたものであり、そのようにしてなされた支援は「ありのままの自分」を認めてもらえないものであり、その結果、「できること」と「できないこと」の差の大きい発達特性のある人にはとって、その支援、アドバイス自体が大きなストレスとなり、その結果として脳に大きなダメージを受けることで、発達障害が発現する要因の1つになっているという事実を知らなければならない。他方で、この脳への大きなダメージがうつ病や適応障害などの二次障害までも引き起こす可能性がある。
 このように、ニューロダイバシティの考え方をもとにしていくことは、社会的要因をどうとらえ組み替えていくか、発達障害者、発達障害児をどのように捉え理解していくのかということに対して、大きな転換を要求している。

内側から見ることの難しさと注意点に関して

 上記の転換により、いままで「マイノリティ」とされてきた者たちを、その内側から理解することが次に重要になってくる。しかし、その時に気を付けなければならないのは、本書で汐見が「内側から人を理解するということ」で指摘している「理解する側の禁欲」が必要という視点である。汐見は次のように指摘している。

「他者の心、気持ち、内面をできるだけその人自身の心の世界に寄り添って理解するには、理解する側の一種の禁欲が要求される。自分の経験や学びで得た知識を使って、その論理や知識の枠に入るようにすることで他者を理解したつもりになってはいけない」(p245)

 汐見は、上述した「二分法的な理解や解釈へ陥ること」に対する危険性を踏まえて、そのように指摘している。では、そのような危険性を排するための「理解する側の禁欲」のためには、何が必要で重要となってくるだろうか。そのことについては、第9章で詳しく述べられているので、そちらを参照されてほしい。
 最後に、「発達障害の子どもたちを内側から理解する」ことの重要性に関して、「ニューロマイノリティとは何か」として、本書の「はじめに」で述べられている重要な部分を書き出しておく。ニューロダイバシティ、ニューロマイノリティの考え方、概念をもとに、私たちのこれまでの考え方、捉え方を転換し、その内側から見て、理解しようと努力することで、次のような世界が広がっていくことを期待して。

このように、内側から見ることで、変身していきつつ体験される環境の風景が見えてきて、そこにはさまざまな喜び、悲しみ、苦しみが付随していることも見えてくるわけです。そうして内側から見たあとで、今度は外側からどう見られているかを内側から感じなおしてみると、湯呑に対する一般的な価値づけが、うれしくもあるけど、つらくもあることがはっきりしてきます。もっとよく見てほしい、自分の存在を大切にしてほしいという思いが湧いてくるのです。外側からの視線には痛みを感じさせるものがあるけれど、優しさを感じさせるものもある。それらの視線の語りかけに応えようとしていくと、自分の体についた傷は歴史を物語ること、一般的に評価される湯呑としての特徴も唯一性と固有性を備えたものだとわかってきます。(p2)

内側から見ることで、外側からの見方も更新することができる。・・・。佐伯さんは、この湯呑のライフヒストリーを子どもたちに向き合う大人たちの『そうであってほしい態度』の暗喩として提示しています。(p1)







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