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終着点の見えない好意

半年に一度訪れる、「自分の愛が誰かを傷つけていたらどうしよう」という恐怖から逃れられなくなる病を発症し、この数日間ひたすら苦しんでいた。あまり理解してもらえないのだが、私はときおり自分の好意を相手に向けることが極端に怖くなる。私の好きなことといったら、もっぱら商業BL小説。編集部がファンを可視化しやすいように、ぺぺっとファンレターを送りまくることをモットーにしているが、逆に言えばそのファンレターが作家さんへ届く必要はない(編集部がファンを認識できればファンレターとしての役目は終わる)。作家さんに自分のファンレターが何らかの影響を与えるくらいなら、いっそ届かないでほしいーーと発作のたびに思ってしまう。
たとえば、すでに続刊が出ないと出版社側では結論が出ている本に対して、私が「続編待ってます」と送ることで作家さんが(出せないんだよなあ…)と傷ついたら、とか。私が「先生の作品の××なところが好きです」と書いて、作家さんが(え、そこ? そこじゃないんだよなあ…まあでも好きだと言ってくれるなら…)と原稿中に読者(私)の存在が脳にちらついてしまったら、とか。
すべて考えすぎなのはわかっているし、普段はそこまで気にしていないが、半年に一度のタイミングでどうしようもなく「うわーーーもういやだ作家さんへ好きだなんて絶対に言わない!」と泣き喚いちゃいそうになることがある。往々にして、仕事が燃えまくっていて心身に余裕がないときだ。まあつまりぜーんぶ私のメンタルの問題。

加えて私は愛を呪いだと思っているので、自分の好意が相手を縛りつけることになったら、と考えるとそれも怖いのだ。「○○先生の作風めっちゃ好き、ずっとこういう話を書いてほしい」という応援は、「変わらないでいてほしい」という身勝手な欲望の裏返しだ。『こういう姿であってほしい』って、生身の人間に対して向けていい感情なの……? 本人が変化を望むならそれをファンとして受け入れるべき、だけれど自分がそれを呑み込めるかわからないし、そのときファンをやめないでいる保証もないし、もう何もかも不安だ。こじらせまくっている。

過激すぎる考え方だというのは私もよくわかっている。その上で話を続ける。

そんなこんなで何かに好意を伝えることを躊躇い、いつか私は発せなくなった好きという言葉に溺れて死ぬんだ、まあでもそれは一種の幸福の形なのかな…と病みまくっていた本日(くどいようだが、仕事が燃えまくって勝手に病んでいるだけだ)、弟に遊ぼ〜と誘われた。

弟は趣味がスノーボードとサーフィン、職場の飲み会には絶対に参加するといういわゆるウェイ系だ。対して私は年中商業BL小説を中心に小説を読み、趣味はひとりで行く映画鑑賞、社会人になってよかったことは運動会がないことと豪語するタイプなので基本的に相入れない。もしクラスメートだとしたら絶対に接点のないふたりだ。一緒にいても会話は弾まないのだが、ふしぎと仲がよく、三週間ぶりの対面となった。県外に離れて暮らす姉弟という関係にしてみれば、まあまあの頻度で会っていると思う。

弟とカフェで落ち合う。最近どうよと聞かれ、あなたのおねーちゃんは愛をこじらせていますと言えるはずもなく、「まあまあ」とサラリーマン無難な返答ランキング一位の返事を口から出すしかない。その後ランチをして、ショッピングモールを冷やかした。スポーツ用品店のサーフィン用具売り場で、あれこれワックス(サーフボードと足が滑らないようにするらしい)を吟味する弟に、「冬なのにサーフィンするの?」と聞いて(こいつ何を言ってるんだ…)という目を向けられる。冬でもウェットスーツを着込んで海に入るらしい。そもそも私は海と太陽が苦手なので、物好きやな、という感想しか浮かばない。

サーフィン用具、スノーボード用具、キャンプ用具。自分がまず見ようと思わないものたちの売り場をあちこち連れまわされたのが気分転換になったらしく、そろそろメンタルを立て直すか、という気持ちになった。帰ったらファンレターを書くか原稿をしようとむくむく前向きになり、そのための栄養を摂取するべく、弟に「ケーキ食べに行くか、奢るし」と誘った。しかし弟は、「はあ? そんなんシスコンすぎてむり」と一刀両断。は? シスコンすぎてむり? あんたは十分にシスコンですが?? なんだか瀟洒な店でカレーを食べていたランチタイム時、私が誕プレにあげた服を着た弟が、「この服めっちゃ評判いいんよ〜」とうれしそうに話してくれたのを録画しておけばよかった。おねーちゃんと誕プレを贈り合い、誕生日当日には日付が変わったタイミングでメッセージを送り、日常的にもラインでやりとりし、まあまあ頻繁にふたりで遊ぶ私たちの関係が、シスコンブラコンではないなんて……は? そもそも私たちは、大学生時代同じアルバイト先で働いていたことすらある。100人に聞けば98人にはシスコンブラコンだと言われるだろう。

仕方ない、絶対にシスコンだとは思うが、本人が違うというならその意思を尊重するしかない。シスコンやんけとからかいたくなる衝動を必死にとどめる。シスコンだと自覚した弟が遊んでくれなくなったらおねーちゃんは寂しい。
弟には永遠に、おねーちゃん大好きな素直でやさしく明るい弟でいてほしいのだーーって危ない危ない、また自分の理想を他人に当てはめて都合のいいように扱おうとしてたよ。これが自分の好意ゆえでもあまりよろしくない。神様はどうやら、愛や好意をいい塩梅に調節して出力する機能を、私に付け忘れたらしい。困ったものだ。

到底衝動買いはできないであろう値段の服を試着する弟を見守りながら、どうしたもんかな、と考える。絶対的に正しい形で他人への愛や好意を示したい。リカバリーが効きにくいと言われる日本社会(クソデカ主語)で、私は臆病になっているのかもしれない。間違いたくない。これは純度100%の好意なんですよ、と主張したい。弟の試着に付き合うのも飽きてぼーっとショッピングモールの地図を眺めていると、『献血センター』と書かれていることに気づいた。

献血!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

雷を受けたような衝撃だった。献血。世界への好意の示し方として、これほど具合のいい行為があろうか。
断られるだろうと思いつつ、弟に「献血行こう」と声をかけると、奴はあっさり着いて来た。いや、献血は来るんかい! ケーキがNGで献血はOKの基準がわからない。

献血ルームに入って、ふたりとも初めての献血だと伝えると、あれこれ丁寧に説明してもらった。「おふたりで勇気を出して来ていただけたんですか」と感激をたっぷり含んだ口調で言われ、いや愛をこじらせているだけですとも言えず、ハハと笑う。あちらで水分をとってください、こちらで血圧をはかってくださいと、世界へ向ける正しい好意としての行為のための指示をされるのは妙に心地いい。その間じゅう、私と弟は「お連れさまと席が離れてもいいですか」「お連れさまと終了時間がずれそうですが大丈夫ですか」と気遣っていただき、そのたびに「大丈夫です」と答えた。姉弟で初めての献血に来るというのはなかなかないだろうから、カップルと思われているんやろうな、と思った。というか苗字が一緒なので、夫婦と思われている可能性すらある。「姉弟です」と主張するタイミングを逃したまま、私たちはかなり離れたベッドに座らされた。

成分献血は40分ほどかかるらしい。うとうとしたりフォロワーの推しであるSnowManの動画を見たりしながら、献血が私の自己承認欲求を圧倒的に正しく満たす快感に浸っていた。間違いなく誰かのためになり、好意のベクトルとして間違っておらず、しかも看護師さんたちに「来てくださってありがとうございます〜!」とやたらちやほやちやほやされる。歯医者みたいに自動で動くベッドに横たわったまま、追加でドリンクいかがですか、とも声をかけてもらえる。お姫様になった気分だ。なんて居心地のいい空間だろう。スマホの電池がやばかったので、充電までしてもらった。漫画喫茶で時間をつぶすくらいなら献血に来よう、とそのときに思った。

献血が終わると、私よりずっと早く終了していたらしい(成分献血と通常の献血では終了時間に大差あるのだ)弟はすでに帰ったあとだった。そうそう、この距離感よ。カップルや友人だったら待合室で待っていてくれたのだろうが、姉弟という関係なのでかなり仲が良くとも別れ際はあっさりしている。まあいつでも会えるだろうという甘えの上で成り立っている関係だ。それでもラインに「気をつけて帰れよ」と連絡が入っていたので、自分で言うのもなんだが、私たちは本当に良好な関係を築けているなと感動した。

待合室で街を見下ろしてコーヒーを飲みながら、原稿をするか、とすっきりとした気持ちで思った。愛をこじらせていたので原稿どころではなく、読書もろくにできず、それどころかすでに書き上げていた年賀状を衝動的に破り捨てないように必死になる数日間だった。私の好意はいつも歪な形だけど、自分自身がこじらせまくっているやべー人間だという自覚は幸いあるし、何とかコントロールして生きていくしかない。ときどきこうして献血に来て、世界の役に立っていることで自己肯定感を育むか、とラブラッドに登録した。エイズ検査のための献血はできませんと注意書きがあったが、幸い自己承認欲求のための献血はできませんとはどこにも書いていない。

とてもいい一日だった。有意義とはこのことを言うのだ。外に連れ出してくれてありがとう、弟よ。
晴々とした気分で、帰り道に小説ディアプラスを購入した。三次選考通過だった。心が死んだ。振り出しに戻る。

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