読み返すということの価値

以前のブログを読み返していて、読書録で目が止まる。三年前の記録。(リンク)今の関心事にどんぴしゃり。書き残しておくこと。それを読み返すことの価値を実感。昔の自分、えらいぞ!

読書録「子どもの世界をどうみるか 行為とその意味」(津守 真

一歳半になる息子は、最近イヤイヤ期。でも、なんでもかんでも「イヤイヤ」と言っているわけじゃない。自分がやりたいこと、やろうとしていることが邪魔された時、大人の都合に従わせようとしている時、彼は「イヤだ。」と言う。

彼の行動が、何を表現しているのか?それを僕らがどうみとるか?よって、僕らの関わり方は変わってくる。この本は、「どうみとるか?」について、様々な実例を用いながら説明してくれた。

○行動の能動性・受動性。
○行為をみとれない状況の苦しさと付き合う私たちの立ち振る舞い
などなど、書き留めておきたい言葉がたくさんあった。

以下の引用は備忘録。児童心理学を研究したスタンレー・G・ホールについての引用文があった。
ホールは、児童心理学の視点から、デューイらとともに進歩主義教育運動を牽引したらしい。

砂あそびには、勤勉な努力、見通しをもった運営、道徳、地理、数学等のあらゆる教科の要素が含まれている。もしも、それらがバラバラに、学校の課業のように教えられたとしたら、結果は無駄が多く、混乱したものとなってしまうだろう。ここには、完全な精神の健康と統一がある。バラバラで魂を崩壊させるような学校のカリキュラムが与える以上の、多様な興味と活動を統合させる砂遊びは、教育として理想的である。教育においては、理想的なものほど実際的であり、実際的なものは理想的なものである。

(中略)そのほかにも、現代の乳幼児の成育環境の変化にふれ、基本的体験を奪われた子どもは、大きくなってから様々な不適応をおこすことも書かれている。
これについても、今の関心事。以前読んだ「自由を子どもに」から、乳幼児期の子どもについて、もっともっと学ぶ必要性を感じている。

読書録は、以前の記事で。【読書録】自由を子どもに

改めて、今の関心事

僕が主に関わっているのは、3〜8歳の子どもたち。泥遊びやおままごと、探検など、今まで学校で過ごしてきた1日とは全然違う毎日を過ごしている。そこで関わる大人(保育者という表現がいいのかな?)として、どのように関わるのか?については、常に考え、悩みながらいる自分。改めて上記の本を読んでみようと思う。

それと同時並行で、後期(8〜13歳)の学びにも関わりつつある。これから始めようとしているペットボトルロケットを飛ばす小さなプロジェクトでは、理科的な内容だけでなく、「かたち」や「はかる」などの算数的な内容、ものを加工する図工・技術的な内容とも関連させながら、活動を作っていく。

教育においては、理想的なものほど実際的であり、実際的なものは理想的なものである。

目指していこう。