女好き*2 志賀親度(しが ちかのり)
志賀 親度(しが ちかのり)は、生誕1535年。没年1585年。志賀親守(しがちかもり)の子。
志賀家は大友三家の一角である。のちに北志賀家と南志賀家に分かれ、それぞれ隆盛した。
1550年、二回崩れの変。
父と共に大友義鎮(おおとも よししげ)の家督相続に尽力。
その功績で大友義鎮、養女(奈多婦人の娘)を妻に迎えている。
その後、父から若くして家督を譲られ、永禄年間から元亀年間において加判衆を務めた。
1577年、宗麟(そうりん)の後を継いだ義統(よしむね)と不仲になって対立し、父と共に殺されそうになったが、宗麟の仲介で免れた。
1586年 島津氏が侵攻(豊薩合戦)
義統に殺されそうになったことに恨みを持つ親度は南志賀(志賀鑑隆(しがあきたか)・鎮隆(しげたか)親子)と共に島津軍に味方する。
北志賀家の惣領である自分の養子 親次(ちかつぐ)はただ一人、大友氏に忠誠を尽くし、岡城を守り抜く活躍をみせ。このため翌年、秀吉の九州平定が為されると共に南志賀家は滅ぼされ、親度もまた義統によって自害させられた。
なお、義統と不仲になった理由については、主君・義統の愛妾であった「一の対」という女性を奪い取り、囲っていたことが露見し、蟄居させられたため、これを長年恨みに思っていたと『上井覚兼日記』に記されている。また、熱心な仏教徒であり、反キリスト教の人物であったため、子・親次の受洗にも猛反対したもされ、これも義統や大友家へ対しての反逆心の理由となったとされる。
15年以上加判衆をつとめた部下なのに当主の妾の取り合いで対立するダメ家臣ぶりをして、罷免され。島津侵攻の際には養子の息子にがっつり活躍されて手柄もあげられなかった悲しい武将です。父、志賀親守譲りの女好きが自領を滅ぼした原因でしょう。養子の親次とも仲が悪かったのでしょうね。親次は熱心なキリスト教信者ですしね。大友家のダメ家臣の見本みたいな人物です。もちろん信長の野望でも能力低め。
志賀親度でした。