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家康の孫 松平 忠直 (まつだいら ただなお)の墓

生誕が1595年(文禄4年)結城秀康(ゆうき ひでやす)の長男として誕生。母は側室の中川氏。1603年(慶長8年)、江戸参勤のおりに叔父である将軍徳川秀忠(とくがわひでただ)に謁見。秀忠は大いに気に入り、三河守と呼んで自らの脇に置いたという。1607年(慶長12年)慶長12年、結城秀康が死に越前75万石を相続。1611年(慶長16年)に秀忠の娘・勝姫を正室に迎える。元服の際に将軍秀忠から諱を受け、忠直と名乗る。

1612年(慶長17年)、重臣たちの確執が高じて武力鎮圧の大騒動となり、越前家中の者よりこれを直訴に及ぶに至る。祖父徳川家康・秀忠の両御所による直裁によって重臣の多くが配流となる一方、同じく重臣の本田富正(ほんだ とみまさ)は逆に越前家の国政を補佐することを命じられた。さらに富正の一族・本田成重(ほんだ なりしげ)を越前家に付属させた。これを越前騒動という。
松平忠直は当時、結城秀康の長男として継いだばかり、立場上が微妙な位置にいたようです。結城秀康は徳川家康の次男であり、豊臣家の人質にも出されていました。そのため家臣にも豊臣派、徳川派の派閥があり、佐渡金山という金蔵も領内に持つ松平忠直に対して若いうちに重臣の一掃。徳川派に向けさせる狙いがあったといわれています。

1614年(慶長19年)大阪冬の陣では、用兵の失敗を祖父・家康から責められる。夏の陣では真田信繁(真田幸村)とされる首級を確保し、大阪城攻め入るなどの戦功を挙げた。しかし、戦後の論功行賞に不満を抱き、次第に幕府への不満を募らせる。
この時、松平忠直、現代だと19才くらいの若者です。しかも冬の陣、夏の陣共にあの真田幸村と対戦。冬の陣でボコボコにやられたために逆に夏の陣の活躍があるように思えます。ただ徳川一族では一番の軍功をあげたのに祖父の家康は茶器一つ与えただけ。ケチで有名な家康らしい逸話です。19才の若者に茶器あげるぐらいじゃ感謝しないでしょうね。ただ、徳川一族として最大の領土を持っていた忠直に加増する気など家康の頭にはなかったのかもしれません。

1621年(元和7年)江戸参勤交代を拒否。
病のため参勤交代できません。といって、その後回復したために出立したが途中で引き返している。幕府の秀忠から病状を尋ねる使者が派遣されている。
1622年には正室の勝姫の殺害を企てたとされ、また、軍勢を差し向けて家臣を討つなどの乱行が目立つようになった。
あくまで自分の見解ですが、1621年あたりから松平忠直のまわりがきな臭くなったようです。豊臣家が滅び徳川家にとって、敵がいなくなったの敵は、身内になるわけです。将軍、秀忠は軍功をあげて将軍になったわけではありません。ですから兄の子どもで真田幸村を破った松平忠直に警戒、謀殺の目が向けられて、それを忠直が察知しなかったとは言いがたい。このあたりが乱行としてあげられているように思われます。

1623年(元和9年)、将軍、秀忠は忠直に隠居を命じた。
隠居に応じない場合は軍勢を以て成敗すると脅し、秋田の佐竹家や加賀の前田家には出陣の用意を要請している。
 忠直は生母の説得もあって隠居に応じ、隠居後は出家して一伯と名乗った。竹中重義が藩主を務める豊後、府内藩(現在の大分県大分市)へ配流の上、謹慎となった。府内藩では領内の5,000石を与えられ、初め海沿いの萩原に住まい、3年後に内陸の津守に移った。津守に移ったのは、海に近い萩原では海路での逃走の恐れがあったためと言われる。竹中重義が別件で誅罰されると、代わって府内藩主となった日根野吉明の預かりとなったという。

1650年(慶安3年)に死去。56歳。お墓は大分県王子市の浄土寺にある。
愛人蘭の墓と共に祀られているそうです。一度見学に行ってみたいと思います。

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ひでさん
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