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40. 今日死んでもいい

 2009年7月22日、この日、私は奄美大島の2週間の皆既日食フェスティバルのチルアウト‧ヒーリングエリアを仕切っていて、皆既日食の現象が起きる日でもあり、私のファーストアルバムの発売日でもあった。

 何年前からかその日に向けてオーガナイザーチームは準備をしていたので、スウェーデン人のシスター的なDJでセラピストな友人と、前年の2008年のブームフェスティバルで出会ったポルトガル人のインストラクターらを中心に、トゥルムからや、数名の日本人トラベラーなヒーラーやセラピスト、インストラクター、他にディクシャギバーのタオさんなどとコンタクトを取っていた。それらの人々は私を含め、ほぼボランティアで皆既日食を見たいが故の参加だった。

 ヒーリングエリアの重要性というのは、まだまだ日本のフェスティバルのシーンでは認識が浅く、一人分の予算も賄えないような限りなく少額の予算を提示され、私はとても腹立たしく思っていた。「この条件では出来ない」と断ったのだが再三による説得で、この界隈で他に適任者がいないのは見えていたのもあり、渋々やることにしたのだった。やるからには形にしたいが故のかなり強行のオーガナイズだった。

 ”ヒーリングエリア”のサイト全体は、キャンドルアーティストのジュンくんが希望通りにドームやらシェード、DJブースなどをサクサクとセンス良く設置してくれて、彼はそのまますぐに別の現場へと行ってしまった。流石だった。

 ダンスメディテーションを皮切りにして私のアシスタントをしてくれるようになった友人のマネージメント力と、ボランティアの人々のお陰でワークショップなどのプログラムを回し、ヒーラーやセラピストの人達の個人セッションもありで、なんとかそれらしい形になった。

  中心になってくれたポルトガル人のインストラクターは、前年のブームフェスティバルの初日早朝のヒーリングエリアで挨拶され、少しラブストーリーが展開した人だった。彼はとても物腰が柔らかく、ソフトとワイルドが混在したイケメンで、お茶目でユーモアのセンスよく、講師としてかなり優秀で、今では'タイべディック'という独自のメソッドを創り上げ、その人柄から男女問わず、日本含め世界中で大人気のインストラクターとなっている。学ぶべきところが多い人でもあるし、今でも私のメンタル緊急レスキューになってくれている大事な人だ。私の父の介護期間に実家に訪ねてくれて、父に施術もしてくれた。

 私は当時、周りが彼のことを私のボーイフレンドと呼ぶことに抵抗し、せっかく日本にまで来てくれた彼との進展に素直になれなかった。出会った頃、彼には3年付き合っていたガールフレンドがいて、それが私の気持ちを複雑にしてしまったのだ。お互いに強く惹きつけ合ったのは確かだったが、国を跨いでいること、タイミングのズレ、ついぞ自分の気持ちを素直に表現しきれないまま、その恋物語は終わった。だが出会ってからずっと、いつも何の前触れもなく、国を超えて偶然にバッタリと再会するその二人の関係に特別な繋がりを感じている。

 さて、この日食は今世紀最長だとされて注目を集めていたが、最長の食が見える場所’グレーテストポイント’は、ほぼほぼ海上か、フェス開催が難しい離島故に、そこから少し外れた奄美大島が選ばれた。外れているにせよ、6分のうちの2~3分は見ることが出来るからだった。この時期いつもは晴天で、朝も9時を過ぎれば何も出来ないほど灼熱に包まれる島が、この日に限って朝から曇り空で、いつもは野外パーティーなどにも行かないような面子が続々と当日にも到着し、みんな不安そうに空を見上げていた。

 何はともあれ、全ては決まっていたと思えば仕方がない。薄雲が空全体を覆う中、ビーチの方に来場者のほとんどがずらりと集まった。やがて辺りが暗くなり、その間中、人々は歓声を上げ続けた。薄雲の中で、太陽の光がうっすら消えていくのがなんとなく分かる。辺りは暗いグレーな海の世界が広がった。ビーチを見渡し、空を見上げを繰り返し、ぽうっとまた太陽が顔を出したであろうことが分かった。

 ポルトガル人の彼を含めた初めて日食を体験する人々や、友人達には、皆既日食をその目で見せてあげたかった。だけどそれは何度も見ている自分が物足りないと思っていたことで「あれだけでも十分に凄さを感じられた」という人もいたし、「絶対リベンジで見てやる」という知り合いもいて、他の機会にそれを見にいくモチベーションにもなり、彼はそこで奥さんになる人に出会えたから、長い目で見ればそれはそれで良かったのかもしれない。

 10日後のフェスティバルの最終日。皆既日食の時だけあいにくだった天気から、また晴天の続く島での時間。ヒーリングエリアのプログラムも終えて、自分のプレイにも満足し、ビーチ沿いのステージで、残っていたパーティー強者達が存分に気の済むまで踊っていた。みんなの笑顔と光が、私の中に入ってきて、まるで何かでハイになっているような気分で楽園にいるかのようだった。

 このフェスティバルを一緒に作り上げた初めて会った若手の子達や古くからシーンにいる仲間達、参加者として来ているダンサー達、全ての人達が愛おしかった。

 来る前にオーガナイズ本部への予算の不満を覚えていた自分や、日食時に曇りだったことの残念さなどは、この時点で完全になくなっていて、このフェスに関われたことや、この場にいることを幸せに思い、人生で初めて「今日死んでもいい」とまで思えるのだった。満足感でいっぱいだったという事だ。

 自然と音楽は、言葉なくとも私達に悟らせる。自然の中にいると普段の現代社会での自分達の生き方の”間違い”に気づく。自分の意識がどういうレベルであろうとそこから”高み”に行けるよう、その時々の自分にピッタリの”気づき”を与えられる。私にとっての野外フェスティバルやパーティーは、まさに人生の縮図であり、”師”だと言える。

 自分が何か”大いなるもの”の計画の一部であることに意識的であれば、満足感を得て幸せだ。そこから外れたエゴの状態であるとイライラしたり孤立する。正にこのフェスティバルでは、私は、自分は”何者かである”というエゴの状態から始まり、自分は大いなるものが動かす大きな世界の”一つの駒”である、ということを体験していたのだ。

 その日、そのオーガナイザー主要メンバーの一人の結婚式が執り行われた。みんなの満面な笑顔、カラフルでハッピーの極みな式だった。

 その後2009年末ブラジルのニューイヤーフェスティバル’ユニバッソパラレロ’から1ヶ月後のオーストラリアのフェスティバル’レインボーサーペント’という南半球強行スケジュール。イビサではミュージックスクールをコーディネートし、その2010年の夏、エジプトのピラミッドへの旅で『一人旅はもうたくさんだ!』と思うに至り、初秋に帰国しそのまま半年ほど日本での活動を続けた。

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