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34. トルコからイスラエルへ

 3月、皆既日食フェスティバルのあるトルコには片道チケットで行って、その後は流れで気ままに旅をすることにしていた。

 会場近くになる’アンタルヤ’に1週間ほど早く到着すると、オーストラリアで出会った輩達に次々と出会し、日本人も多く、オーガナイザー達とも顔を合わせることが出来た。この頃は、コンピュータを何台も置いてるインターネットが出来る場所に出向いて、メールしたりブログを通じて連絡や報告をしていたと思う。なので、ほぼほぼ行き当たりばったりか、偶然の一致”シンクロニシティ”に頼っていた。

 シンクロニシティは、”本来の自分でいる”ことで起きる。本来の自分でありさえすれば、自分がいるべき場所に、いるべきタイミングにいて、会うべき人間に会えるようになる。

 ”本来の自分でいる”とは、自分を知ること、自分の感情を知り、自分の感覚に気づき、居心地の良い感情に従い、自分の在り方を知っていること、自分のあるべき姿を知っていること。健在意識に上がってきていない潜在意識下の自分を含めた何もかもを見つめて知ること。そこに近づくには、基本”瞑想”すること。生活全てにおいても”瞑想”であることだ。”今ここ”に集中する。瞑想は、思い込みや常識からの囚われをなくし、恐れから来る思考を取り払い、自分に対する気づきを得て、自分という存在が”愛”そのものであることに気づくためのツールだ。私にとって皆既日食を拝むことは瞑想に通ずるものがあり、自分の魂の成長や生き方の”修正点”を白日の元に晒される感がある。

 フェスティバル会場には、スタートの数日ほど早く赴くことになり、友人達数人と一緒にキャンプを設置しパーティーを作っている人々と交流を持ったり手伝ったりした。元祖”ヒッピーの聖地”インドのゴアからと、カリフォルニアからはビジョナリーアーティスト達含むクリエイティブな面々も到着し、彼らとも直ぐに仲良くなった。

 いよいよフェスティバルが一般に開場されたその日の夕刻、オープニングセレモニーが催されるはずだった。開始時間が近づき、私達がセレモニーが行われるメインステージに向かって出発しようとした時、突然、雷が鳴り響き、豪雨と共に氷までが降り始めた。テントから出られなくなってしまった私達は「なんてセレモニーだ!」と冗談を言いながら、そのまま小一時間ほど雷と雨が止むのを待った。

 セレモニーが終わる予定の時間に豪雨が止み、私達はドロドロになった会場内を通り、メインフロアに向かった。大きな虹が出て、自然がまるでオープニングセレモニーを催してくれたかのような感じだった。ところがメインフロアに到着して唖然とした。ステージが見事に崩壊している。その影響でメインで行われるはずのプログラムがサブステージに移行。私のプレイ時間は日食当日の夜に変更となった。

 日食当日の朝、チルアウトエリアへ足を伸ばしてブースをチェックしに行くと、日本人のファイヤーダンサーに出会った。彼女は「今夜ダンスできる場所を探している」というので「だったら私がプレイしてる時間に来てくれたらいいよ」ということで話が決まった。

 メインフロアがまだ使えないことで、ほとんどの人はダンスしながらサブフロアで日食が起きるのを待っていた。メインがなくなったお陰で全員が一箇所に集まり、しかもサブフロアからの方が日食を見るにはちょうど良い方角だった。なのだが、その時間が近づいてきた時、私は群衆からどんどん離れ、サブフロア目掛けて続々と集まってくるみんなと逆方向に流れていった。大勢と一緒ではなく、一人で瞑想しながら拝んでみたかったのだった。ちょうど太陽に斜め真っ直ぐにごく細い薄雲がかかっていてやけにクールな印象の日食だった。サブフロアの方角から小高い山を越えて歓声が聞こえた。

 見終わって、またサブフロアに戻ると、オーストラリアで出会った友人達に加えて、新たに友人となった世界各地から来ている多くのトラベラー達、サンフランシスコとロサンゼルスの友人、日本からの友人達含め知っている面々もたくさんいて全員がまるで大きな家族のように感じられた。近しい友人達と言葉を交わすでなく目配せでハグをし合い、なんとも言えないコネクションと安心感を感じた。実際、これまでのいずれの地で起きた皆既日食であろうと、それを共に体験した友人達には特別な思い入れがあるし、”エクリプスチェイサー”と呼ばれる、私のように日食を追いかけている面々も多くいる。

 ひとしきりダンスして、チルアウトエリアに出向き、プレイし始めた。ゆっくり目のダウンビートで30分ほど経過した時、例の日本人ファイヤーダンサーがグループでやってきた。それに合わせ、私は少しアップビート目に曲調を変えた。20分ほど彼らが踊るとフロアはヒート気味になってきて、みんなダンスし始めてしまい、そのままダウンテンポに戻すわけにもいかず、ダンスビートに移行するしかなくなった。

 結局、2時間のセットのはずが次のDJが現れず、4時間フロアを導いた。そのままダンスミュージックをプレイし続け、フロアは激しく踊るダンサー達で満杯だった。次のシフトで現れたDJはその光景に面食らいつつ、クラウドに向かって「ごめん!全然違うのプレイするから!」と大声で注意を促して、私からのプレイを引き継いだ。美しいアンビエントミュージックが流れる中、濃密な1日を過ごした私は、心地よい疲れを感じながらキャンプに戻って眠りについた。

 翌日オーガナイザーから、チルアウトエリアをダンスフロアに変えてしまった”お咎め”の代わりに、フロアにいた往年の有名DJが大絶賛していたことを聞かされた。このことがあって、そのイスラエル人のメインオーガナイザー達は私をイスラエルに来るように誘うのだった。その他のトラベラー達に誘われたエジプト、フランスなど、行ける先の選択は、ありがたいことにいくつかあったが、フェスティバルが終わる頃、私はイスラエルに行ってみることにした。

 空港に到着した矢先から、あまりいい印象は持たなかった。入国スタンプを拒んだ事で、入国審査官は根掘り葉掘り、しつこいほどに聞いて来る。それを拒んだのは、イスラエル入国のスタンプがあることで、他のイスラム教の国々エジプトやモロッコなどに入れなくなると聞いていたからだ。一緒にフライトしたイスラエル人の友人達が、彼らと一緒だと伝えてくれなかったら、もっと時間がかかったようだった。

 街中ではテロ防止のために、ショッピングモールやカフェなどに入る前に荷物チェックをされる。普通のバスに乗るにも、空港並みの検査。最初、テロ防止だということを知らずに「何でいちいち荷物チェックをされなくちゃいけないの?」と気分を害していたのだが「爆弾テロがいつあるかわからないから」という理由を聞いて、それに対して腹を立てていた自分と、何も知らずに来たことを恥じた。

 『自爆テロなどが日常のどこかにあるかもしれない危険に晒されている国があるんだ、、、?』それは平和な日本で育った私にはショックだった。自分には関係ない遠い何処か別世界の話だったのだ。

 イスラエルの首都’テル‧アビブ’は、さほどの大都市でもなく街がビーチに面していて、そこがミーティングポイントになっていた。トルコのフェスに来ていたという別のパーティーオーガナイザーが声をかけて来て、1ヶ月後の彼のパーティーでDJをして欲しいというオファーをもらったり、私のプレイがフェスティバルでのハイライトだったと、DJ志望の若いパーティーピープル達と知り合ったりもした。ちょっと郊外に出れば砂漠で、そういう場所で週末ごとに開かれる野外パーティーに出向き、友人繋がりでブティックとカフェが立ち並ぶ、当時若者に人気だった’シェンキンストリート’沿いに泊めてもらっていた。

 3週間ほど経った頃、街全体の雰囲気、銃を持ち歩いている兵士を普通に見かけたり、パーティーピープルと一般の人たちの意識の差に、何となく私はこの国を早々に出たくなり、先に誘ってくれたオーガナイザーに「私は1ヶ月先までここにいずに、シナイ半島を通ってカイロへ行って、ヨーロッパにでも行くことにする。だからせっかく誘ってもらったけどプレイできない」と伝えたその翌日の事。シナイ半島の’ダハブ’というダイビングスポットで有名な観光地で爆弾テロがあり、なんと予定したシナイ半島には行けなくなってしまったのである。というわけで、そのオーガナイザーの繋がりで1ヶ月滞在させてくれるという別の友人宅に向かうことになった。

 テル‧アビブから北の方へ車で40キロほど向かったビーチ沿いらしい。向かう途中、ベルギーのアーティストが半年ほどかけて、ビックリするほど細かいオブジェを作り込んだ人気のチルアウトクラブへ寄って、先方へ着いたのは夜中も3時を過ぎた頃だった。周りの景色はよくわからず、自己紹介もそこそこにして家主が用意してくれていた寝床で眠りについた。

 その翌日、お昼も近くなって目を覚まし、昨夜クラブ内で着ていた白いドレスを、タバコの煙の匂いが染み付いてしまっていたので、手洗いして干す場所を探して外に出た。家主が隣の家の住人と話していて、誘われて隣の家のその彼のお茶に同席した。

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