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1. 東京アンダーグラウンドミュージックシーン

 私にはやりたいことや夢が子供の頃からなかった。全くなかったかと言えば、それは違って、幼少期、宝塚の火の鳥のステージを見ていたく感動し「宝ジェンヌになりたい!」と語ったのだが、母親から駄目だしをされ「無理だからやめなさい」とやんわり諭され、つい最近になるまで、すっかり忘れてしまっていたという方が正しい。昭和の時代の親にしてみたら、7歳やそこらの娘のやりたいことなんて、現実離れしていて本気でその言葉を捉えなかったと思うし、自分のケースから省みると、親の言うことは絶対で、好きなことを好きだと認識する力もいつの間にか、なくしてしまったのかもしれない。

 ”好きなことがわからない”というのは、”子供の好き”を尊重してくれる親に育てられていない限り、多くの人が経験していることだろう。私に限っていえば、父親と母親の希望する娘像にどこか反抗しつつも、従うことによって、そして世間や社会の価値観と相まって、自分の価値観が何か別のものにすり替わってしまったように思う。親の前では優等生を演じ、親が納得しそうな理由を作って信じさせ、影ではバンドや夜遊びに夢中になり、その果てに20代ではしばらく無職なまま、夜な夜なナイトクラビングに興じていた。

 今では当たり前になったハウスやテクノと言った類の”4つ打ち”のダンスミュージックが世界中を網羅し始めた頃、80年代中期のクラブ創成期だったこととバブル全盛期だったことも手伝って、東京では週末だけでなく平日から夜を徹して踊る場所には事欠かなかった。当時のクラブというのは看板も出さないし、情報も口コミのみ、一見さんお断り的で、知ってる者だけが行ける特別な場所で、平日であっても’ヒップ’な遊び人達が集っていて、それはそれはエキサイティングな場所だった。週末ともなれば、アフターアワーズのパーティーも乱立し、普段はどこで何をやってるかわからないような輩が溢れていた。そして誰もが名前も肩書きも何をしてるか何も気にしなかったし、その人の存在感だけが重視されていた。

 東京の広尾に一人で住んでいた私は、当時の”クラブメッカ”西麻布‧六本木へ電話で呼び出されれば、朝の4:00でも速攻で出かけて行った。そんなこんなでクラブから帰ってきて朝かお昼頃にベットに入り、夕方か夜に起き出して、またクラブに行くというルーティーンが何年か続いた。この頃の私はやりたいこともなく破壊的で、実際、何度か死にかけた。若くしてドラッグで死ぬのがカッコいいとさえ思っていた。
 
 80年代終わりから90年代に入ると、今度は大型のハコが出来て、主なクラブやパーティーではいつしか顔パスだったし、クラビングを通して、アーティスト、芸能人、著名音楽家、名前を聞けば世界中の誰もが知ってるミュージシャンなどとも接触がある様になって行った。そういう時代だった。

 だんだんと夜遊び仲間やDJの友人達なども増え、クラブが終わってからも、DJ宅に集っては新譜などを聴かせてもらったり、さらにまだ音楽にどっぷりハマるという生活を続けていた。そして、それは延々と続いて行くかの様にさえ思われるのだった。

 だが、間も無くするとバブル経済がはじけて、夜の街から人々が減りだし、ポップアップのパーティーも減りだした。しかし、クラブもDJもカウンターカルチャーとして育ち始めている感があったし、何より私は、大音量の音楽にハマって大勢の中で踊ることに夢中で、実はその中に”意義”を見出だし始めていた。

 先の大型のハコにて、今のスピリチャルな世界でいうところの”ワンネス”を経験したからだ。言うなれば”神秘体験”だ。それはそれは感動的だった。クラウドと音楽が一体になり、自分が全体で、全体が自分。自分が動く方向に合わせて一つの生き物の様に化したダンスフロアがそちらに動き、全体のダンスが動く方向に個である自分も動いていくかのような、、、。一人一人それぞれが音楽と完全に一体化していて、一つのハーモニーとして存在している様だった。

「お前は、まだ本当の意味で音楽を聴けてない」

とあるDJが私に言ったことがようやく理解できた瞬間だった。私達を一つにしてしまう音楽の不思議な力を実体験したのだった。

 そして、こんな経験をさせてしまう音楽とDJというものに改めて特別なものを感じた。

『音楽と共に生きよう』

 何の生きる目標もなかった私だが、その衝撃的な体験により、30歳目前にして、ダンスフロアでそれを決めた。94年。直ぐに歌をやることにした。学校での活動であったにしろ15歳でヴォーカルとしてバンドに誘われて、所属するバンドは変わりながらも22歳ごろまで、そうしてきたからと言うのもあった。練習は全くしなかったけれど、自分で言い出してピアノ教室にも3歳から通わせてもらっていた。私の中でただの夜の遊びが”ライフワーク”に変わった。
 
 振り返ってみれば、幼少期から母がいつも聞いてたクラシック、オペラ、観劇に連れて行かれたバレエ、ミュージカル、クラシックコンサート、父とのドライブでもシャンソンやタンゴが流れ、8歳年上の義理兄の膨大な音楽コレクション、主にロックと初期のエレクトロニックミュージックを聞かされて育ち、音楽は当たり前のように生活の中にあった。 

 私のジェネレーションで、こういう音楽環境で育ったのは、当時としては多分珍しい事だったと思う。同年代の子達は、特に小学生だった頃、日本のテレビの中のアイドルや歌手の話題しかなかったし、実際、テレビの歌番組の話に加われない”変わり者”、加えて嫉妬の対象としてイジメにもあった。

 話を戻すが、好きなことを好きだとして認識するまでに、私は相当の時間を費やしたことになる。知らぬ間に親や世間から植え付けられた「好きなことを仕事にして食べていけるのはごく一部の天才だけ」という固定観念から解放されたのだと思う。親に対して、そして自分に対してつけていた”仮面”、好きなことを仕事にする恐れや責任。それは、夜を徹して大音量の中で踊ること、暗い中ひたすら一人で寡黙に踊ることで、知らずに”ダンスセラピー”のような効果をもたらし、本来の自分がむき出されたのかもしれなかった。
 
 何かに突き動かされたかのごとく、私のライフスタイルは一変した。夜型から朝型へ。お酒やタバコを辞め、ジム通いで身体を鍛え、クラブへは週末だけ顔を出し、ヴォーカルスクールに通いだした。「健康でなくてはやりたいことは成し得ない」というのが動機だ。急激な生活の変化によるナチュラルハイを体験し、それからというもの、常にヘルシーなライフスタイルを追求するようになっていった。


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