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30. 二度目のイビサ

 イビサ滞在は1週間の予定だった。イビサには夜遅くに着いて、ホテルにチェックインした後、すぐにサニーと待ち合わせしていたゲイ‧ストリートに向かう途中の有名なバー’ドーム’に赴いた。

 テラス席に足を踏み入れた途端、ド派手な赤のロングドレスを着たそこのママに抱擁とキスで迎え入れられた。サニーから話に聞いていたイビサナイトライフ界隈の有名人’アナマリア’だとすぐに分かった。ちょうどサニーは手洗いに行っていたらしく、私を見つけて「HIDEYO!」と、こちらに駆け寄り抱きしめて来た。二人に囲まれながら『イビサに歓迎されている』そんな気がした。

 サニーはロンドンに移住する以前、表参道にあった’ラスチカス‧東京サロン’という東京のトレンド発信地的な場所で何年も働いていた。90年代半ば、私が足げに通っていた芝浦の大箱クラブ‧ゴールドで知り合ったのだが、いつも独自のファッションに身を包み、もう一人ベゴニアというスペイン人ヘアーデザイナーがそこにサロンを出していて、未来チックなエクステンションを自分にも顧客達にも施して、二人がコンビでいると今なら確実にインフルエンサーと言われていただろうくらいに目立っていた。

 サニーは、私が99年にやっていたアンビエントバーも手伝ってくれていたので、私があまり英語ができない当初から今に至るまで、ずっと仲の良い友人だった。ロンドン拠点の世界的に有名なDJと付き合いだして移住し、その彼がイビサの有名老舗クラブ’パチャ’でプレイするということで、一緒にイビサに同行していたのだ。

 翌日、私はレンタカーをしてサニーを乗せ、とりあえず右も左もわからぬままビーチに向かった。慣れない左ハンドルマニュアル車、信号のない交差点’ラウンドバート’をなんとかくぐり抜け「とりあえず走ればどこかのビーチに着くんじゃない?」と車を走らせた。ナビもまだ普及していない頃で、レンタカー屋でもらった地図を頼りにしようにも現在地を確認することも出来ないまま、とうとう何処かのビーチに偶然たどり着いた。

 東京やロンドンなどの都会やパーティーでしか一緒に過ごしたことのなかった私達は、二人で「まさか一緒にイビサのビーチにいるなんてね!こんなこと、またあるかないかだ」と大笑いして、その時間を楽しんだ。

 後々、あの時行ったビーチは、島の東側最北の’カラ‧サン‧ビッセンテ’だったと、辿った道とビーチの風景の記憶から割り出したのだが、住んでからは遠過ぎてほぼ行くことがなかったビーチだった。最近になってその海面下の美しさや崖上から見下ろした時の海の蒼さを知ってたまに行くお気に入りのビーチに昇格した。

 イビサは島なので、ビーチ沿いを周遊出来る道に囲まれていそうだけれども、全くそうではない。断崖絶壁も多く、砂浜のビーチというのは実は限られている。砂浜の美しいちょっと長い距離のあるビーチというのは、そこを中心として街が建ち並んでしまっていたり、観光客が多く寝そべっていたりするので、ほぼ行くことはない。

 ローカルの人々が行くのは、車を降りてちょっと歩いたり、崖を降りて行くような場所で、比較的小さめの砂浜があり、そこを岩場が取り囲んでいて、必ずと言っていいほど、漁師が小さなボートを入れておくボート小屋がいくつか並んでいるようなビーチだ。

 その景色が、私は本当に好きだ。海の深いコバルトブルーと少し明るく黄身帯びたベージュ系の色目の岩や白っぽいクリスタルを含んだ岩、場所によってはかなり強いオレンジ色な土壌、素朴な漁師のボート小屋のコンビネーションがこの上なくロマンチックで私を捕らえて離さない。西洋かぶれと言われればそれまでだけど、なんだかんだ、私は地中海沿岸の国々の風景がこの上なく好きだ。多分だけれど、前世でアフリカ大陸側も含め、ここら辺の国々に何度も転生してる気がしている。

 レニー宅の敷地内には、元ガールフレンドのエバが別棟の家を建てて住んでいた。二人でレーベルを立ち上げて、ある程度成功させた後に、この広大な敷地の家を二人で購入したのだ。当時ですら「今だったら、とてもじゃないけど買えないから、あの時買っておいて良かった」的なイビサの不動産事情。あれから20年経って、過去の5年ほどで更に極端に値上がりしたイビサの不動産と家賃。10年前から比べれば、家賃は2倍ほどになっているので、昔からいた人達がどんどん島を立ち退いていくか、逆に富を築いているかのどちらかで、加えてお金を比較的持った人々が続々と移住してきて数十億もするようなヴィラが増えている。

 さて、契約書も楽曲も届かないので、私は滞在を延長することにした。前回来た時にはいなかったエバが、ものすごく面倒をよく見てくれるようになった。当時で彼女は20年近くイビザに住んでいたので、島中のことを良く知っていたし、音楽業界の知り合いも多い。いろんなところに連れて行ってくれて沢山の人々に紹介された。島中のビーチやらレストランに連れて行ってくれて、ラジオ局でも番組を持っていて出演させてくれたりもした。今ではインターネットで世界に配信されている’イビザソニカラジオ’と’イビサグローバルラジオ’、その両方どちらかでいつも彼女はパーソナリティーを務めていたので、新曲が出ると必ずプロモーションしてくれていた。

 彼女が色々連れ回してくれたお陰で、1ヶ月ほどで既に住んでいるかのごとく島の生活に馴染んだし、海の美しさ、島の美しさに魅了されていった。海に浮かんでいると涙が出て浄化されている気がしたし、島にいるだけで癒される感じがした。

 やっと「弁護士が契約書を作ってくれないので自分たちで作った」ということで、ペニーたちから契約書の文面が送られてきた。今でこそ少しはマシになったけれども、この頃、英語が片言で、こういった文章を読むにも英語の本を読むにも、まだまだ辞書を片手に一向に読み進めない状態だった私は、音楽業界の事に詳しいディストリビューターもやっているエバに見せてアドバイスを仰いだ。

 「こんな契約書にサインしたら、あなたにはお金は入ってこない」レニーも「こんなアメリカの古い時代のような契約書は見たこともない」ということで、二人ともサインすることに大反対だった。

 長い話を短く要約すると、この事でペニーたちと何度ものメールのやり取りで亀裂が入り、アルバムは”お蔵入り”することとなってしまった。ベイビーを堕ろしてしまったばかりか、初のアルバムや映像作品までもリリースをダメにしてしまったことで、私は悔しさや悲しさで、人生のどん底に突き落とされたような気持ちだった。

 そんな私にレニーはこう声をかけたのだった。「君自身のアルバムを作れ。他のミュージシャンたちとコラボして歌え。僕だっているんだから」

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