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22. インド

 2004年初夏、私は東京にいて、バンドやDJ、ラジオの選曲、執筆など、1年の半分はいないにしろ、まだ日本での仕事をしていた。弟の結婚式もあった。その東京から、急遽オーストラリア人の女友達アリスとインドに行くことになった。

 彼女はファイアーダンサーで、レギュラー的に私のギグでもダンサーとしてパーフォーマンスしてくれていた。一つ年上の頼れる存在だった。日本語もほぼ完璧に会話出来て、彼女はインドへは頻繁に出向いているので、彼女と行くならば、かなり楽しめそうだった。

 加えて、サンフランシスコで、デイビッドに連れられて、DJでもありヨガのインストラクターでもある彼の友人のクラスを一緒に受けた事で、帰国してからも、個人レッスンを受けたり、原宿でヨガスクールを始めたカナダ人の友人のクラスを受けたりし始めたので、インド旅行では自分なりにヨガをもっと習得しようという気持ちも強かった。移動することが頻繁になってジム通いが難しくなり、代わりに毎日身体を動かせる何かが私には必要だった。ヨガを覚えてしまえば、スペースがあれば何処ででもできるし、一生やっていける気がしたのだ。実際、今もヨガは続けてきている。

 デイビットとも途中で落ち合って、二人でラダックとヒマラヤへ行こうという計画を立てていた。同時にこの頃の私は、自分のことにフォーカスすることで、デイビットのことは割り切って考え始めていた様に思う。彼との連絡は、その頃リリースされたスカイプではなくて国際電話かメールだったし、たまにしか出来ない国際電話で明るい彼の声を聞けば、そんなに他の女性の事で頭を悩ませることもなく済んだ。

  17年ぶりのインドは、私の人間的な成長を見せてくれた様に思う。もう以前の様に、価値観の違いや汚さやカオティックな様相にひるむ事なく、構えていられる自分がいた。空港からの道筋で見る光景に『ああ、そうだった。、、、インドだわ』と笑みさえ浮かんでくる。バイクや車がごちゃ混ぜ、インドの場合それに加えてリクシャーやら牛までが何の秩序もなく所狭しと道路を走っているし、クラクションがひっきりなしに鳴り響き、大きなエンジン音やら人の声なども混ざり、それはそれはやかましい。首都のデリーだと人も溢れかえっているし、1メートルも歩けば、次から次へと物乞いか痴漢か詐欺か勧誘か何かに遭遇すると言っても過言じゃない。あの頃から、また20年近くも経って、インドの経済成長もすごいから、今はどうなのか細かくは分からないけれど『それでもインドはインドなんだろう』とも思う。

 初めてインドに来た80年代は、まず宿の様子に愕然とした。ガイドブックに書いてあった”中級のホテル”は、先進国しか知らなかった私達の感覚では、どう見ても”一つ星”以下で、ラフに建てられているのもあるだろうが、汚らしい感じが否めないベッドやシャワーやトイレではくつろぐ事など出来ず、それでも夜中に着いて疲れていたのもあり、恐る恐るベッドに洋服のまま横になり仮眠して、翌朝、速攻、予算外も甚だしいヒルトンホテルに駆け込んだ思い出がある。あの当時の小娘だった時から比べれば、他の東南アジアを旅したりキャンプしたりで、許容範囲も広がり『あの宿は確かにインドの中級だったかもしれない』とさえ思える。

 今回は、一人でまずインドの首都デリーに到着し、彼女がよく使う宿を指定されチェックインし、そこで後から来た彼女と落合い、デリーを早々に後にして、彼女のお薦めの’プシュカール’という村へ夜行バスで向かった。

 プシュカールは湖のほとりの村だ。ここでも、彼女の贔屓にしている村の中心から離れた宿に直行した。インドには’サドゥー’と呼ばれる修行僧が沢山いて、放浪しながら苦行や修行をしている。不謹慎なことを言うが、見た目は”おしゃれな浮浪者”という感じだ。苦行を課してカルマを打ち破る、瞑想をする、死者を葬る専門など、いろんなサドゥー達がいる。彼らは修行僧になった時点で、物質、世俗を放棄しているので、もちろん家も持たないし、執着もしないことになっている。人から何か欲しいと言われれば、差し出さなければいけない。ただ、サドゥーに対して物を欲しいという人はかなり稀だと思うし、普通は人々がサドゥーに何かを施す。だが、かのシャンティクランティは彼らの持つバッグをねだり、サドゥーの方は、かなりしぶりながらもくれたという彼女らしい笑える逸話がある。

 彼らは、通称”ババ”と呼ばれ、一般の人々からは、尊敬を示されているのだが、中には”ツーリストババ”と言われるサドゥーの格好だけをして、生計を立てている人もいるので気をつけた方がいいと教わったけれど、実際はそういうババ達とも接触があった。英語が出来るからという理由と、一緒にいると”詐欺”やら”物乞い”を避けていられるので、中々、重宝したからだった。

 アリスの案内のもと、宿から寺院の方に行くと、3人のサドゥー達がいた。私にとっては初接近だ。友人のフォトグラファーが撮った写真でサドゥー達を見たのが初めてだったのだが、写真からだけでも十分に気迫のようなものが滲み出ていた。自然に出来上がったファッションではない本物のドレッドヘア、数珠のようなものを人によってはジャラジャラと首からネックレスのようにかけていたり、灰を身体に塗っていたりとか、強烈な見た目だ。

 生で見ると、その持ってるエナジーや目が、とにかく格好いい。そりゃそうである。俗世を離れ、修行することにコミットしている身なのだから中途半端じゃない。ビッパサナ瞑想とかへ出向いて、1週間、瞑想三昧して帰ってくるだけでも、極端な話、1時間瞑想するだけでも、目の光り方が変わるわけだから、生涯をかけて修行してる人々の目が野生の動物のような、切れた光り方をするのは当然といえば当然だろう。

 3人のサドゥー達は優しく私達に話しかけてくれ、そのうちの一人が持っていたバナナを私にくれた。「ババが物をくれるというのは、すごく光栄なことだよ」と、それに驚きながらアリスが教えてくれた。何にもわからず、気軽にもらってしまったけれど、それを聞いてちょっと嬉しくなって、この旅が楽しくなるような気がした。

 アリスは、ババの説明からジプシーの子達や詐欺師のやり口や手口を、私に事細かく教えてくれた。これはやっちゃダメ、これは注意してなど、後々それが少し行き過ぎなくらいになって来て、もう少し自由に旅させて欲しい気持ちになるほどだった。だが何はともあれ、彼女のお陰で面倒なことに巻き込まれることもなく、スムーズにやれているのだから”良し”としていた。

 プシュカールは、ラジャスターンというインドで一番大きい州の中にあって、湖を取囲んだ村だ。その湖は聖なる水として崇められていて、ヒンズー教の聖地とされている。聖地なので、村全体が”ベジタリアン食”しかない。当時、ベジタリアンだった私には最高だった。宿から中心地に行くまでに湖を渡る橋があり、そこを渡るときは、間接的ではあるにしても”聖なる水の上”を歩くわけなので、靴は毎回脱いで渡ることを教えられた。そしてここでは、毎日たくさんの人が水浴をして祈っていた。

 私は、シャーマンから渡されていた粒状のハーキマーダイアモンドの一粒と母の遺灰の少しを、このホーリーな水に流した。これまで行く先々に持ち歩いていて、赴いた大自然の見晴らしの良い場所に置いて来る様になっていた。さながら、自分のエネルギーのトレースだ。

 ザンビアのカリバ湖、アウトバック砂漠、クラウズレスト山頂、ハーフドーム頂上、富士山山頂、セドナ、モニュメントバレー、ブラックロック砂漠、デスバレー、グランドキャニオン、バリの寺院、これは、その後もずっと続いて、スウェーデン、デンマーク、オランダ、ベルギー、ドイツ、フランス、ポルトガル、スイスーアルプス、イタリア、ギリシャ、マケドニア、ハンガリー、ブルガリア、トルコ、イスラエル、シナイ山、エジプトーピラミッド、モロッコー砂漠、ロシアーアルタイ、アマゾン、ブラジル、ペルーマチュピチュ、そしてタイランドなど、すべての国ではないにしろ、現在では一応すべての大陸に撒ききった。

『世界が平和であるように』思いを込めて。母の現実的ではない願いを叶えるこの私なりの供養は、こうして”別の行”に変わり今も続く。

 インドというのは、その人のそのままの内面や思いが鏡のように現実に現れる。本来どの世界、どこにいてもそうなのであるが、それがもっと”如実な感じ”がする不思議な国だ。インスタントカルマとでも言おうか。やったこと、思ったこと、すぐに返って来る。目の前の事象がスムーズなのか、面倒なのか、にこやかにいられるか、イライラするか、などで、自分の魂の成長レベルが計れてしまう感もある。インドは「呼ばれないと行けない」と言われるけれど、これは実際、本当にそういう気がしている。

 インドって国は汚いのに美しい。日本の感覚からすれば、何から何まで、人々も秩序がない感じで、不衛生、古さ、聖なる水だって濁っていて、そういう一つ一つが汚いと思うのに、ホーリーで美しい。この上なく美しい。

 プシュカール滞在最後の夜、アリスが湖に向かってファイヤーダンスを踊った。火を操る彼女をインド人は特別な人として崇めてくれるのだそうだ。「ファイヤーのババ」火を操りながら踊るその姿は、一瞬の迷いも許されない研ぎ澄まされた瞑想そのもので、聖なる湖に捧げる祈りのようにも見えた。

 プシュカールを後にして、’バシスト’という北のヒマラヤへ続くラダックへの入り口まで移動したところで、私は身体を壊してしまった。熱と吐き気にうなされて、1週間、寝込んでとてつもなく痩せてしまい、デイビッドも来ることが出来なくなり、この旅に強制終了をかけられたようなそんな気がし、このインド旅行を1ヶ月で終えて、直接アメリカに飛ぶことにした。今行けば、バーニングマンに間に合うからでもあった。

  バシストからデリーに向かうバスの中、後ろには大きなダブルレインボーが出ていた。


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