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宇多田ヒカルと浜崎あゆみ

昔、23年も前のことだが「歌姫対決」というのがあった。

もう今となってはどっちが勝ったとかどうでも良いと思えるし、風の噂では二人は仲が良いと言うかお互いリスペクトしあっているようなので、ああ、そんなプロモーションに世間が乗せられていたのだなあと思うくらいのことであるが、当時はちょっとした関心事であった。

というのも、当時は圧倒的に「浜崎あゆみ」派だったのだ(今も違うわけではないが、当時のようにJPOPを聞かなくなった)。

当時の扱いとしては「天才少女 宇多田ヒカル」対「女子高生のカリスマ 浜崎あゆみ」というのが世間的に認知されていたラベリングであっただろうが、当時でも浜崎あゆみの中高年のファンが確実にいて、そういうファンたちの認識でかなり一致していたのは「この娘は自分の血を流して詩を書いている」「この歌には自分の中の真実(主観の真実)が歌われている」といった感想で、ちょっとした驚きとともに受け止められていた。そんなことが商業ベースどころか何百万枚というメガヒットの背後にあるなんてことが、いい年をした大人たちには信じられないことだったのだ。

当時のインタビューや黒柳徹子の番組でも本人が語っていたと記憶しているが、浜崎あゆみは歌詞を自分で書くように言われたときに、伝えるべき何か、自分の中の真実を探していき「プロデューサーへの手紙を書こう、思いを伝えよう」と思い立ったという。

いろいろと加工されて表現されても、そういった「自分の中の真実」は、伝わるものなのだろう。どこかからの借り物ではなくて、その思いは確実に自分の中にあるものなのだから。

ある意味、自分の内なる「感情」を原材料に、他人に届けられるように飾り付けたり柔らかくしたりしたものが、音楽を始めとした芸術作品であり、なかには衝撃的であったりショックを与えたりする作品も、古今東西の芸術にはたくさんある(個人的に思い浮かぶクラシック音楽では、モーツアルトの交響曲第25番ト短調やブラームスのピアノ協奏曲第1番ニ短調があり、いずれも作曲者の内面に吹き荒れる嵐を音楽に置き換えたと感じる)。

もちろんこれは音楽に限った話ではなく、文学も映画も、コミックもアニメーションも、そして絵画も彫刻も、私たちを違った場所へ、知らなかった感情へと連れて行ってくれる。私たちはそういった作品に触れることで「感情の旅」をしているのだ。自分の体験しなかった感情も、そういった作品によって体験することで、私たちの内面は計り知れないほど豊かになる。

その旅の印象を決定づけるものは、美しさや心地よさばかりではなく、その感情の「リアルさ」ということもかなり大きい。絵空事ではない、浅い空想ではないと誰もが感じる、自分自身がそういった経験がないのに胸を打たれる、琴線に触れる、こういったことはなぜ起きるのか?

多くのクリエイター達が、その秘密に向き合い格闘した結果「自分自身が経験したこと、自分の中の真実を、形を変えて表すしかない」という結論に到達している。宮崎駿も庵野秀明もそうだったのだろう。真実に迫れば迫るほどに、作品の細部にはリアリティが宿り、人々の深いところまで届かせる原動力となる。しかしそれには大きな代償を伴う。

浜崎あゆみもそうやって歩きだした。当時の中高年ファンは、あまりにも「血を流して」紡ぎ出される作品に「そんなに自分自身を傷つけるような作り方をして大丈夫なのか?」と心配している者もいたのだ。自分も最初に3rdアルバム「Duty」を聞いた時「え?これって自分に対するレクイエム?」と驚愕した(今にして思えばアルバムタイトルを「Duty(義務)」って付ける時点でマーケティングをぶっちぎる意志を感じざるを得ない)。

絶望三部作と呼ばれるvogue, far away, SEASONSという、連続リリースされた3曲のシングルもDutyに収められているが、何も知らない人が聞いても「滅びゆく自分を歌った終焉の美」を感じるのではないかというくらい、諦念に満ちている。絶頂期と思われていたその真っ只中にもかかわらず!その3曲のPVが収められたDVDジャケットで、本人が喪服を着ている、ということもファンの間でさまざまな憶測を呼んだ。それまでの自分のお葬式をしているのだ、もうすぐ引退する、恋に破れた、、などなど。

その当時出会った「大人のファン」の一人であるカルバドス氏が書いたWebコンテンツ「浜崎あゆみよ 風になれ!」にも、当時の大人のファンたちが抱いた「危機感」が記録されている。氏の影響でこういった深い解釈を知ることができ、ケン・ウィルバーを知って数年間どっぷりハマり、そこからスピリチュアルという世界に足を踏みこむことになるが、きっかけはこのアルバムだったと思う。

世間一般には、「マーケティングで造られた歌姫」と認識され、全身ヒョウ柄を着たアルバムジャケットばかりが注目されている裏では、こんなムーブメントが起きていたのだ。それは彼女の「血を流した」作品に込められた、切実な「真実の声」が少なくない数の大人たちに届いていたことを意味している。


Dutyの衝撃から20年、当時の出来事を小説にした「M 愛すべき人がいて」というセミフィクションとでも言うべき本が2019年に出版され、ドラマにもなったそうだが、一読して全く驚かなかった。その当時の彼女の感情は、すべて歌として表現されていたことばかりだったのだ。20年後の答え合わせとでも言うべきか?

最近の浜崎あゆみの音楽を聞いていないので、彼女がどこへ着地したのかはわからないのだが、宇多田ヒカルのデビュー・アルバムからのカヴァーMovin' on Without Youはエンジョイした。「歌姫対決」なんて吹っ飛ばす、デビュー当時からその内面にこんなにも共感していたのか!と思えたのは爽快だった。

宇多田ヒカルがエヴァにハマったり人間活動に勤しんだりという情報に接して、この歌姫も「天才少女」なんていう押し付けられた看板を降ろして、「人間らしさ」を取り戻したような印象を持っている。

もうひとりの歌姫浜崎あゆみも、大人たちが心配しなくても、血の流し過ぎを懸念されないほどには「自分自身を歌い続ける」ことのバランスを見出したのだろうか?あの頃心配していた大人たちは、今では彼女の歌を安心して聞いているのだろうか?20数年という月日で変わったものの意味を考えてみたくなり、一区切りをこの文章として残すことにした。


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