Spiritualを精神的と訳して良いのか?
自動翻訳はじめ、様々な文献でもspiritualという言葉を「精神的」と訳しているのを見ると違和感を覚える。辞書には、
とあるわけだが、そもそも「精神」と「魂」「霊」って同じ何物かを指す概念でありましょうか?つまるところ、心、精神、ハート、マインド、魂、霊などなど、これらの(目に見えない、非物質的な)概念に広く受け入れられている共通の定義がないのが混乱の元なのだが。
例えば、「精神病」という時、英語ではmental illnessと呼ぶように、これはマインド mind(心、精神)の病気と捉えるのが一般的で、これを「霊的な病」「魂の病」と捉える人はほぼいないだろう。
緩和ケア業界ではspiritual painをどう訳すかと言う問題で「霊的痛み」などの訳語が試みられたが、結局スピリチュアルペインそのままで落ち着いたとの話も聞く。緩和ケア業界の文献ではこのようなまとめを見つけた。
私見だが、欧米のスピリチュアルな世界では、spiritをmindよりも深いレベルの意識と捉えるようで、意識の階層構造が前提として共有されているように思われる。
この「?」を日本語でなんと呼ぶか?霊的?魂的?その人のバックグラウンドに従っていろいろ意見はあるだろうし、文脈に依るわけだが、少なくとも「精神的」ではないだろう。
同様に、spiritualityを精神性と訳してしまうことにも同様の誤謬があるように思われる。スピリチュアリティとは、より深い意識のレベルから見た世界と自身との関係に取り組むという、実践的かつ哲学的な概念ではないだろうか?それを「霊性」「霊的探求」と呼ぶことで果たしてその理解は共有されるであろうか?
以下に、欧米でのspirit、spiritualityの位置づけとしての階層的捉え方の例をいくつか挙げてみたい。
まずはWHOの1948年の健康の定義:
ここではmentalが精神的と訳されている。ちなみに98年版ではここにspiritualという表現が追加される提案があったが、結局は採択されなかったそうである。
一方、WHOによる緩和ケアの定義にはspiritualが取り入れられている。
これらの表現では階層構造とまでは言えないが、いずれにせよ人間を多面的に捉える必要性を表している。
次はケン・ウィルバーのインテグラル理論などを学んでいたときに出会った瞑想だが、以下のような内容であった(正確な順番はこの通りではなかったかもしれない):
確かヴェーダーンタ哲学の「指摘の教え」として、魂(鑑照者)とアートマンが同一であるというような話だったと思うのだが、不思議と今検索しても何も出てこない。
しかし、これは見事に意識の階層構造を遡っていく(深化していく)瞑想だと思う。お好きな音楽とともにぜひ体験してみてほしい。
*アートマンについてはWikipediaを引用しておく。
もうひとつはシャーマ・ヴィオラの創作したオラクルカード「ブラール・タレイ」のシンクロニシティの配置でのカードの意味を下図に示す。
1から5へと深くなっていくという順番ではないものの、フィジカル、エモーショナル、メンタル、スピリチュアルな自己を区別して同じ自分の複数の異なるレベルからのメッセージが発せられることを教えてくれる。
これらの意識の階層構造は、意識の進化と切り離せない関係にあるようだ。意識の進化に伴って、更に深いレベルの意識を認識、発見、到達できるようになるという仮説である。これらは全人類が一斉に同時に進化するわけではないので、平均的な意識レベルと、特異な・突出した一部の人々の到達したであろう意識レベルが区別される。突出した人々の痕跡は、哲学や宗教それも秘教・密教・神秘主義と呼ばれるものの中に見いだせる。
いわゆる秘教や密教、神秘主義に共通の視点があるとするならば、それはこの魂の深部へのアプローチにおいて、所謂二元性を超える(非二元へと到達する)ことをゴールにしたという点であろう。これは単なる知識の伝達では済まないため、そのための瞑想法、訓練法が各種伝統に伝わっているが、おそらく世俗的な宗教とは隔絶した、ごく一部の探求者求道者にしか明かされない教えとなっていたのであろう。
現代のスピリチュアル・ムーブメントを考えると、実践を伴うかどうかは様々であり、知識だけは誰でも探せば手に入るようにはなった。そういう視点で言えば、現代のスピリチュアル・ムーブメントは一般市民が主役となった(歴史上初めての?)スピリットに関する探求運動と言える。なので、スピリチュアル・ムーブメントに参加している一般市民は、その活動が実践を伴うのかどうかによって、その探求が単なる知識にとどまるのかどうかが変わってくるわけだ。
それら意識の発達レベルについて、膨大な哲学および宗教、心理学、社会学の文献研究および探索を行ったケン・ウィルバーによる意識のレベル分類は以下のように表される。
これまでのシンプルな分類に比べるとかなり複雑ではあるが、1がフィジカル、2がエモーショナル、3,4,5がメンタル、6が心と魂の境界、7,8,9、10がスピリット・スピリチュアルに相当すると思われる。もちろんこの分類はそれぞれの流派によって委細は異なるものを大きく捉え直したものなので、ここではそれぞれの細部には立ち入らない。
ウィルバーの視点で重要なのは、生物の発生における「個体発生は系統発生を繰り返す」という仮説を、心や精神の発達にも応用していることだ。これは遍く了解されているわけではないが、とても説得力がある主張だと感じる。なので、子供の心理や意識の発達の研究は、人類全体の意識の発達の初期段階を知る貴重な証拠になりうるわけだし、人類全体の意識の発達の未来は、古今東西の哲学や宗教・秘教の中に先人たちの探求の成果として残されていることになり、そのほぼすべてが、我々の心の奥底に「永遠の存在がいる」という秘密にたどり着いている(これらを総称して「永遠の哲学」と呼ばれることがある)。その多くは、その奥底へと至る実践的アプローチとして「フィジカル、エモーショナル、メンタルをどのように超えていくか」を我々に伝えている。
それにしても、古今東西の哲学者・宗教家や心理学者たちが、究極的には同じような見解に到達していたのはなかなかに心躍るものがある。非二元について、ウィルバーは「片手の拍手の音とはなんぞや」と言う禅の公案をとりあげ、このように述べている。
これはまさしく、梵我一如、ブラフマンとアートマンは同一であるという概念と表裏一体の究極の真理と言えるのではないか?
ダマヌールの哲学ではこれらはまた別の側面から捉えられるが、それはまたの機会に解説したい。
というわけでまとめると、
1.spiritualを精神的と訳すのは多くの場合誤りである。
2.これは欧米に限らず古代インド哲学や仏教でも意識の階層構造を認識しており、その最深部をspirit、魂、霊と表したことに由来すると思われる。
3.その最深部へと至るためのアプローチは古代から幾多の流派や宗派があり、それぞれに分類も名前も異なるが、共通するのは「フィジカル、エモーショナル、メンタルを超える(更に深い)」領域へと至ることである。
4.現代ではそれらはスピリチュアル・ムーブメントとして一般化され、スピリチュアリティの探求は出家者や求道者だけのものではなくなった。
5.それらの歴史的・宗教的文脈に影響されないよう、spiritual, spiritualityはそのままスピリチュアル、スピリチュアリティとすることが望ましいと考える。