現代の神話としての"Unlimited Blade Works"
現代日本を代表するアニメの中に、聖杯を巡る闘いをテーマにしたのもがあると知ったのは数年前の事だが、オリジナルとなったPCゲームは 2004年に発表されたものだという(ヴィジュアルノベルとも呼ばれる。今ではPSVitaやiOSでもプレイ可能)。
ここに現れる聖杯とは言わば「呪われた聖杯」であり、人間の業や、あらゆる汚れや呪いを引き受けた「黒い聖杯」とでも言うべきものではあるが、それを巡る主人公をはじめとした登場人物達の内面の葛藤のストーリーは、聖杯伝説から派生というよりも転生した物語として充分に評価に値する。
同じ登場人物を背景とした3つの異なるシナリオを持つ「fate stay night」シリーズのうち、ここでは第2シナリオである「unlimited blade works」を取り上げる。この第2シナリオは2014-2015年にTVアニメ化され、海外のファンからも高い評価を得ている。
このシナリオ=ストーリーの最大のエポックは、主人公の願望と理想を叶えた筈の未来の自分自身が、「その甘ったるい理想は間違っている!」と主張して過去の自分自身を殺しにくる、と言うものだ。膨大な過ちを生んだ自分自身を根源から消し去るために!?!
これは、分かりやすく他人という形をとって敵としての自分が現れるが、その本質は自分の内面の敵、自分自身に打ち勝つという話なのだと捉えてみた。
理想の自分になれるかどうかは、今の自分には到底わからない。その理想を叶えたはずの自分自身から突きつけられる自己の矛盾は、相手が自分自身であるからこそ、何の言いわけもごまかしも通用しない。
だからこそ、その理想の行き着く先を示されても尚、なんの根拠もない自分自身の思いを信じられるのか、との極限を突きつけられる。自身には何もホンモノはなく、その未来には自分の思い描いているような理想が何も約束されていないと知らされても尚、自分を信じてその道を歩み続けることができるのか?と。
これは「何も確かなものが無い」という言葉で表される現代に生きる我々自身にも、他人事では無い問題として切実に響く。モノでは満足できなくなった我々が体験を求めようとするのは、我々自身の人生に意味を見いだしたいとの潜在的な願望が、自分を突き動かしているからこそ。モノを所有することで意味を獲得することはできない。意味を求めてさまよう我々は、確かなものを求めて「モノから体験へ」と目標を変えつつあるのだ。
しかし、最終的にはその「確かなもの」は、自己の内面に見出すしか無い。
これは聖杯を求めて騎士たちが探求の道を歩む聖杯伝説と、同一の骨格を持つ物語なのだ(敗北⇒聖杯の探求=内面の探求⇒回復)。
主人公が未来の自分と闘い抜く上で追い詰められることで、内面的にも技量的にも急成長してたどり着いた結論は、その根本となる想い・願望には偽りはなく、それを美しいと感じた自分自身の感情は紛れもなく本物だ、ということ。その想いが本物ならば、たとえ自分自身が偽物であっても構わない、との確信に至る。
その覚悟さえあれば、例え失敗を繰り返し傷だらけになろうとも、自分の人生に意味は見出せる。その究極の呪術を起動するフォーミュラにおいて「ならば我が人生に意味は要らず」と唱えたからといって、それは人生における意味を放棄したことにはならない。人生の意味を追い求めない、人生の意味に執着しない姿勢こそが結果的に意味を生む、という一見逆説的に聞こえる態度や生き様・心の有りようは、「ヴァガバッド・ギーター」などの聖典でも述べられている「インディファレンツァ(執着しない心の有りよう)」に通じるものだ。
この確信に至ることで、主人公の迷いは払拭され、ついには未来の自分、理想を追い求め絶望に至った未来の自分自身ですら、主人公の確信を認めざるを得なくなる。過去の自分が持っていた想いを忘れてしまっていたことを思い出し、それを認めてしまうことで、ついには主人公に敗北する。そしてラストシーンでは「答えを得た」「自分は間違ってなどいなかった」と悟って消えていく。
実際のストーリーはさらにドラマティックな展開を含んでクライマックスに至るのだが、ラストに至る上で、この「二人の自分自身の対峙」はとてつもなく重要な意味を持つ。
宮﨑駿は「現代において男子の成長物語は作れない」と語ったそうであるが、「unlimited blade works」は、自分自身を越えていくという内面の成長を、さまざまなイベントに翻弄されながらも素朴に自分自身を失わない主人公の少年の成長物語として、そして現代の聖杯伝説としての役割を存分に果たしている、絶望と希望の物語であると評価したい。
(さらにオタクな話題へ)