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「ゆきてかへらぬ」の広瀬すずは壮絶に美しかった
まず言うのがそれ?と自分でも思うが、ポンポさんが言うように、「映画は女優を美しく撮れていればOK!」なので、それはこの映画でも見事に達成されていた!それがどこかは、これから見る人々それぞれに委ねたい。
自分語りから始めると、中原中也は学生時代にハマった詩人で、学会で山口市に出かけた折に中原中也記念館を訪れたこともある。きっかけは大学時代にNHKテレビで中也の詩を紹介している番組を見たことだが、「骨」の一節である「これが僕の骨…」という有名な一文にガーンと頭を殴られたように身震いした。その後、既に使わなくなっていた高校時代の国語の教科書に青春時代を瑞々しく歌った「吹く風を心の友と」をみつけて感動し、「当時の自分はこれをスルーしていたのか!」と、高校時代に感性をシャットダウンしていた、むしろそのことに衝撃を受けた。
小林秀雄は何度も「モオツァルト」を繰り返し読んだし、引用されている譜例の曲はすべて聴き込んで大切な作品となっているが、結局この小文で彼が本当に伝えたかったのは何であるか、何度読んでもよくわからない。自分たちの世代は大学入試に小林秀雄の文章の読解がよく出題されていた時代なので、ある同級生は「あいつにはとんでもなく恨みが溜まっておる!」と、酒を飲むと吐露していた(笑)。どの本に収められていたのかは忘れたが、「中原中也との思い出」は昔読んだ記憶がある。
長谷川泰子に関しては二人と関係があった女優であったということしか知らなかった。1993年まで存命だったとは、今回Wikipediaの記述で初めて知った。映画のタイトル「ゆきてかへらぬ」は中也の詩でもあるが、1974年、村上護の泰子に対する聞き書きによる『ゆきてかへらぬ—中原中也との愛』のタイトルにも使われている。
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――京都――
僕は此の世の果てにゐた。陽は温暖に降り洒ぎ、風は花々揺つてゐた。
木橋の、埃りは終日、沈黙し、ポストは終日赫々と、風車を付けた乳母車、いつも街上に停つてゐた。
棲む人達は子供等は、街上に見えず、僕に一人の縁者なく、風信機の上の空の色、時々見るのが仕事であつた。
さりとて退屈してもゐず、空気の中には蜜があり、物体ではないその蜜は、常住食すに適してゐた。
煙草くらゐは喫つてもみたが、それとて匂ひを好んだばかり。おまけに僕としたことが、戸外でしか吹かさなかつた。
さてわが親しき所有品は、タオル一本。枕は持つてゐたとはいへ、布団ときたらば影だになく、歯刷子くらゐは持つてもゐたが、たつた一冊ある本は、中に何も書いてはなく、時々手にとりその目方、たのしむだけのものだつた。
女たちは、げに慕はしいのではあつたが、一度とて、会ひに行かうと思はなかつた。夢みるだけで沢山だつた。
名状しがたい何物かゞ、たえず僕をば促進し、目的もない僕ながら、希望は胸に高鳴つてゐた。
* * *
林の中には、世にも不思議な公園があつて、不気味な程にもにこやかな、女や子供、男達散歩してゐて、僕に分らぬ言語を話し、僕に分らぬ感情を、表情してゐた。
さてその空には銀色に、蜘蛛の巣が光り輝いてゐた。
この映画の冒頭は、空気感という意味において、確かにこの詩の映像化でもあると言える。
ストーリーとしては、「奇妙な三角関係」と後世に伝わっている3人の出会いと別れが、独特の陰影を背景に美しく描かれた映画。映画で描かれているエピソードのいくつかは有名らしく、Wikipediaの長谷川や小林の記述にはそれらがそのまま出てくる。
1924年〈大正13年〉4月、中筋道今出川下ル京都椿寺の隣りで中原と同棲生活[8][23][24]。中原は中学生なのに泰子に「(宮川町に)女郎を買いに行って来るよ」と言うような男だった[18]。(中略)
少し役の付いた女優から「あんた、文士の二号さんなんだってね」と言われ、大喧嘩になりマキノ映画をクビになる[18]。
詩人中原中也とは、帝大時代1925年(大正14年)4月に富永太郎を介して知り合った[21]。同年11月富永は早逝。初期の小林の文章には、支那事変(日中戦争)の始まった1937年(昭和12年)春、若き小林と中原が鎌倉妙本寺の境内に並んで腰掛けている時、無言のまま無数の落ちていく海棠の花びらを異常な集中力で追ううちに急に厭(いや)な気持ちになり、我慢が出来なくなって来た小林を黙って見ていた中原が突然「もういいよ、帰ろうよ」と言い、小林がその振る舞いに対して中原の「相変らずの千里眼」と評したという回顧がある[22]。中原はその年の10月に病没、小林は一週間病院に詰めた。
3人の関係の印象だが、破天荒な天才詩人中也と、ファム・ファタール泰子の二人を愛した常識人秀雄が、自ら泰子を奪った挙げ句、泰子は神経を病み、結果的に秀雄自身も限界まで追い詰められ逃亡。そういう意味では中也と泰子は似た者同士だが、決して安定した関係を築けなくて、秀雄という理解ある第三者を必要としたのだろうなと感じた。
その後も中也は泰子を構ったが、泰子は二人からの自立を決意、やがて中也は早逝、泰子は自分の中也への想いに慟哭する。
この3人の誰か、役者の誰かに興味がなかったら、まるでかったるくて見てられない映画かもしれないが、この3人に興味ある人には見ごたえがある映画だと思う。公開2日めのレイトショーで観客は自分の他に二人だけだったので反響が気になるところである。