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【エッセイ】いまこそ「女性の自己決定権」と「子どもの命や生存権」を考える: 人工妊娠中絶は「最後の砦」であって欲しいと願います

はじめに

6月24日に、米国連邦最高裁は人工妊娠中絶を「合衆国憲法で保障された権利」とする1973年の判決(Roe v. Wade case)を覆して、妊娠15週以降の中絶を禁止したミシシッピ州法を「合憲」と判断しました。
Roe v. Wade caseにおいて、人工妊娠中絶は「合衆国憲法修正第14条に基づくプライバシー権」の一環と位置づけられました。合衆国憲法修正第14条(14th Amendment)は第1節(Section 1)において、州政府に「法の適正手続き(due process)」の保障を要求しており、この条項は州の対人管轄を限界づけるものとされています。つまり、簡単に言えば州であっても、その権力の行使が「やり過ぎ」であってはいけない、というものです。
しかし、今回の判決では「憲法は人工妊娠中絶について何ら言及しておらず、また暗黙にも保護されていない」と多数意見で指摘するとともに、Roe v. Wade caseについても「根拠薄弱」と結論づけ、ミシシッピ州法の既定を「合憲」としました。
この判決によって、人工妊娠中絶の規制は各州の裁量に属する運びとなり、約半数の州が人工妊娠中絶を禁止したり、条件を厳しくしたりすると見られるようです。

この報道を見ながら、人工妊娠中絶が合衆国憲法修正第14条における「権利」と言えるかはさておき、生命倫理や政治哲学の観点から「人工妊娠中絶」について考えるほど、終わらない葛藤から抜け出せなくなっていまいました。以下に述べるように、法(学)的な観点はさておき、人工妊娠中絶の規制に賛同する(=人工妊娠中絶に反対する)プロライフ派も、人工妊娠中絶の規制に反対する(=人工妊娠中絶を推進する)プロチョイス派も、その主張はともに倫理的・道徳的には理解できてしまうのが本音です。

むしろ、どちらかの意見を「正しい」と安易に結論づけるのは不要な分断を深めるだけであり、両者の主張のうち、筋が通っているものについては検討を怠ってはならないように感じます。そこで、未だに自分のなかで完全に結論が出ていないものの、個人的なメモや備忘録も兼ねて、SNS上の議論も踏まえながら、本稿を公開いたします。

「男性との関係」においては人工妊娠中絶は「女性の権利」として認められるべきである

産まない男性は口を出すべきではないのか?

まず、本論に移る前に「産まない男性が口を出すべきではない」との主張について検討します。

私は心身ともに男性であり、あいにく妊娠・出産の能力を持ちません。すると、「どうせ産まないのだから口を出すな」と言われてしまうかも知れません。しかし、人工妊娠中絶について意見を述べる自由や権利は男性にもあると、明確に断言します。
第一に、これは生命倫理や道徳、哲学に関するテーマです。男性も生命を有する以上、人命をはじめ「生命」そのものの価値や意義にも関する議論に参加できるのは当然です。
第二に、かつては男性も出生の当事者たる「胎児」「新生児」でした。時間や制度、(母)親の意向といった変数が違ったら、人工妊娠中絶によって生まれてこなかったかもしれない存在です。男性とて「(元)当事者」としての性質を多少なりとも有するわけで、「妊娠や出産の機能」の有無にのみ着目して議論から排除するべきとは思えません。それに、「産まない・産めないのだから」と男性を議論から排除するなら、たとえば病気や障害で子どもを産めない女性も議論から排除されてしまいます。
第三に、人工妊娠中絶の是非は法令や制度の改廃に関わるものです。立法や行政に関する議論に、有権者や納税者たる市民が参加できるのは当然です。これに当事者や性別は関係ありません。さもなければ、たとえば「道路交通法の改正には運転免許がないと参加できない」とか「動物愛護法の議論にはペットを飼う人しか参加できない」となってしまいます。
よって、人工妊娠中絶の議論に男性の参加は妨げられないものとして、私も男性ながら人工妊娠中絶について考えていきたいと思います。

「男性からの独立」の文脈において、人工妊娠中絶は「女性の自己決定権」に含まれる

このような「男性が口を出すべきではない」との主張の背景には、人工妊娠中絶を「女性の自己決定権」として位置づける発想があるでしょう。確かに私も「個人の自由」を尊重する立場として、「自己決定権」は非常に重要だと考えます。「女性の身体」は当然に女性のものであり、間違っても男性のものではありません。さもなければ、私の身体も、何らかの理由で誰かに奪われかねません。
ただし、先述の通り、第一義的に女性の身体に関するものであっても、生命倫理や法令・制度の議論であれば参加資格に性別は関係ないし、産まれてくるのが男の子かもしれませんから、男性の参加は妨げられません。

母体の救命・保護のための人工妊娠中絶は認めるべき

よって、まず女性の身体を守るための人工妊娠中絶は広く認められるべきと言えるでしょう。
実際に、母体保護法で禁止されている妊娠22周目以降の人工妊娠中絶(後期中絶)も、母体の救命のためなら例外的に認められています。また、全米で最も厳しい中絶禁止法を定めるアラバマ州でも、母体の保護を例外としています。

つまり、たとえ人工妊娠中絶が後述の通り広義の「子殺し」だとしても、母体の救命や保護のためならやむを得ない、という原則は一般的に広く通用するでしょう。もし、このような明文規定が国や地域によって存在せずとも、刑事責任を追求されるとは考えにくいし、それでも責任を追及されるなら、その体制は断固として非難されるべきものです。

性犯罪やDVによる妊娠も人工妊娠中絶を容認するべき

また、強制性交(レイプ)ほか性犯罪やDVによる妊娠についても、やはり「自己決定権」の観点から人工妊娠中絶を認めるべきと言えそうです。性犯罪やDVによる妊娠は既に「性交」の段階から女性が自己決定権を侵害されており、中絶の禁止によって保護される(=中絶によって侵害される)「子どもの生存権」との比較衡量において、これを上回る法益がある、と言えそうです。

以下のようなケースにおいてすら人工妊娠中絶を認めない議論は、特に強制性交の被害者が若く母体を危険に晒す観点も相まって、個人的に「論外」だと感じます。

言うまでもなく女性は「男性から独立した存在」であり、その自由や尊厳が不当に蹂躙された性犯罪やDVによる妊娠は中絶もやむを得ない、と考えられます。
ただし、そもそも性犯罪やDVによって妊娠(の末に、やむなく人工妊娠中絶)してしまうリスクを下げるために、アフターピルを入手しやすくするとか、性犯罪やDVに伴う緊急避妊措置や各種検査の費用を公費で負担するといった制度も必要です。また、妊娠の可能性に関わらず、そもそも性犯罪やDVを徹底して防止すべきなのは言うまでもありません。

「子どもの命や生存権」との兼ね合いにおいて、必ずしも「(母)親の自己決定権」を優先するべきか?

しかし、やはり人工妊娠中絶は「生まれてくるはずだった命を奪う行為」でもあります。この世に生を受けなかったとしても、その命は尊いと、誰の目にも明らかであり、すると、どうやって「子どもの命や生存権」と折り合いを付けるのかを議論する必要があります。

どうしても人工妊娠中絶は広義の「子殺し」になってしまうからこそ、真摯かつ誠実に議論するべき

たとえば日本の刑法は「人の始期」について「一部露出説」を採用しています。つまり、胎児の身体が一部でも母体から露出した時点で、その子どもは刑法上「人」として扱われ、その命を奪う行為は「殺人」に該当します。言い換えると、それ以前に命が奪われたとしても、それは「堕胎」です。ちなみに、日本の民法では「全部露出説」が通説です。しかし、生まれる直前の胎児と、生まれた直後の新生児に、倫理的な差があると言えるのでしょうか?
※なお、たとえばドイツの刑法では「出産開始説」を採用しています。でも、こちらも、出産開始の直前と直後で、その子どもの生命の価値に大差があると言えるのか、という疑問は残ります。

この「人の始期」は古典的な問いであり、究極的には「堕胎と殺人は倫理的に不可分」と言えそうです。
そこで、人工妊娠中絶については「親に子どもを殺す権利はあるのか?」という議論に真っ正面から向き合う必要があります。むしろ、先述のような「男性が口を出すべきではない」と議論への参加資格にすり替えて、この本質的な問いに答えないのは「逃避」に過ぎず、単に「不誠実」なだけです。むしろ、人工妊娠中絶が広義の「子殺し」だからこそ、きちんと真摯かつ誠実な議論が必要なはずです。

経済的理由は「子殺し」に足りる理由と言えるのか?

先ほど母体の救命・保護や、性犯罪・DVといった事例については既に検討を済ませました。次に、既に母体保護法で認められている「経済的理由」について、正当性を改めて検討する必要があるように思えます。なお、あくまで性犯罪やDVとは関係ない「合意のある性交」による妊娠を想定しています。

たとえば親のリストラのような理由で、子どもが産まれてから家計が急変して困窮する場合も考えられます。すると、もし経済的理由によって胎児から命を奪う行為が正当化されるとしたら、新生児や幼児の「間引き」「口減らし」、貧困による一家(無理)心中すら許容されかねません。
よって、「経済的理由」で命を奪う行為は可能な限り避けるべき、と言えそうです。

そこで、コンドームや(アフター)ピルへのアクセスを容易にするとか、性教育を拡充するといった「望まない妊娠」を避ける施策こそ優先されるべきに思えます。
また、実の親が育てられないなら、人工妊娠中絶で命を奪うのではなく、(特別)養子縁組や里親といった制度で「誰かが代わりに育てる」選択肢もより一般的になるべきと感じます。もちろん、これらの「代わりに育てる」人たちを行政が支援する施策や、「行き場のない子ども」と「育てられない」を適切にマッチングする仕組みも必要です。
さらに、昨今の物価上昇や所得低下に伴う経済的困窮によって出産や子育てのハードルが上がっているのは間違いありませんから、出産・子育ての支援策も併せて充実させなければなりません。そもそも出産・子育てに経済的な負担が大きい構造を変革する必要があるはずです。

障害の有無による人工妊娠中絶を認めるべきか?

昨今は出生前診断によって、ダウン症のような先天的な染色体異常は出産に先立って高い確率で分かるようになりました。新型出生前診断(NIPT)の精度は「99%」とされています。
確かに、産まれてくる子どもに障害があるなら、諸々の準備もあるでしょうから、早めに知っておきたいのも確かでしょう。どうしても障害児の子育ては健常児よりも高いハードルがあるし、また障害者は健常者に比べて社会に様々な困難があるのも、また悲しい現実です。

しかし、NIPTで「陽性」と判定されたケースの約9割が「経済的理由」という名目で中絶を選択している「選択的人工妊娠中絶」の実態についても目を向けなければなりません。察するに余りある重い葛藤や逡巡を経た決断は尊重しなければならない一方で、障害の有無を理由にした人工妊娠中絶には実質的に「命の選別」としての倫理的な議論が残ります。「障害のある胎児の人工妊娠中絶」が当たり前の選択肢になってしまったら、ますます障害児・障害者が生きづらい社会になってしまうのも、また確かです。
そうは言っても、やはり先述の通り、障害児の子育てや障害者の人生に付きまとう現実的な困難や、それが必ずしも法令や制度でカバーしきれるとは限らない事情に鑑みると、やむなく人工妊娠中絶に至った選択は、決して強く批判されるべきものではないと、予め申し添えます。

ただし、NIPTの精度は100%ではないし、NIPTでは分からない障害もあります。また、病気や事件・事故によって、後天的に障害を負うケースもあります。「胎児に障害があったら人工妊娠中絶しても良い」の延長線上には「障害児・障害者なら殺しても良い」との主張すら位置しているのも、また確かです。
それは相模原障害者施設殺傷事件の犯人の動機や、その背景にある優生思想と、本質的に異なると言えるのでしょうか。私も難病患者として「純然たる健常者」ではない(=究極的には私も「殺される立場」だ)からこそ、このように「健常者しか許されない」かのような発想には強い抵抗があります。

そこで、「子どもに障害があっても無理なく育てられる社会」「障害があっても幸せに生きられる社会」の整備こそ先決であり、障害の有無を理由にした人工妊娠中絶が一般的な選択肢であって欲しくない、と思います。
否定されるべきは「子どもに障害があると、本人や親が苦労させられる社会」であって、あくまでも「産まれてくる・産まれてきた命」ではないはず。綺麗事かもしれませんが、「どうせ産まれても幸せになれない」と他人の人生における幸福の有無を決めつけた議論をするべきではないと感じます。
それでも、たとえば子どもが「親を親と認識できるかも分からない」という現実は法令や制度によってカバーできるものではなく、中絶や、もしくは産まれても延命しない選択に至るのも、悲しいかな理解できる(正直、自分が同じ立場だったら、同じ判断をしているかもしれない)し、とても当事者の方々の決断は強い言葉で非難できるものではないと感じます。


虐待・育児放棄のリスクは人工妊娠中絶を認める理由になるのか?

この「どうせ産まれても幸せになれない」との決めつけは「望まない妊娠」に関する議論でも見掛けます。

「不幸になる可能性が高いなら人工妊娠中絶しても良い」との主張には違和感を拭えません。かつ、「幸福になれるケース」と「不幸になってしまうケース」を、いったい誰がどういった基準で決めるのでしょうか。あまりにもナンセンスな議論に思えます。

それに、「虐待・育児放棄されるかもしれない」「どうせ幸せになれない」子どもを中絶するのが本人のためになるなら、母親に首を絞められながら育ち、高校2年生のとき面と向かって「生まなきゃ良かった」と言われた私は倫理的に「生まれるべきじゃなかった」命だとでも仰るのでしょうか?

これも否定されるべきは「虐待・育児放棄や、その主体たる親」であって、あくまでも「子どもの命」ではないはず。綺麗事かもしれませんが、「どうせ幸せになれない」と決めつけるべきではないと感じます。

「子どもの命や生存権」は誰のもの?

人工妊娠中絶の是非を巡る議論は結局のところ、「子どもの命や生存権」は誰のものなのか、という疑問と不可分に思えます。本来なら子どもの命や生存権は「子ども本人のもの」でしょう。でも、未成年者、特に出生前後の胎児や新生児は意思の表明すらできませんから、当然ながら自らの判断で権利を行使できません。

子どもは親の「所有物」ではない

もちろん、多くの場合は「親権」を有する親が法定代理人として、子どもの権利を行使するでしょう。しかし、人工妊娠中絶の判断は「(母)親の自己決定権と子どもの生存権」が対立する構造にあります。誤解を恐れずに言えば、子どもが何も言えない(もし万が一にも言えたとして法的な効力を有さない)のを良いことに、(母)親の都合で子どもの命や生存権を奪える構図が存在している、とも指摘できます。

だからこそ、この「子どもの命や生存権」を保護する観点から、人工妊娠中絶には慎重な意見を抱いてしまいます。「(母)親は自分の都合で子どもを殺せる」としたら、私は母親に絞殺されていたかもしれないのです。

また、「親権」の性質についても確認しておかなければなりません。親権は「所有権」や「支配権」ではありませんから、たとえば消費財や消耗品のように、子どもを簡単に処分や放棄できるわけではありません。

しかし、人工妊娠中絶の制度は必然的に「親に子どもの生殺与奪の権を握らせる」ものであり、やはり抵抗感を拭いきれません。もし親に「生殺与奪の権利」を認めるなら、親権の性質が「所有権」「支配権」に変化してしまうだけでなく、虐待・DVや育児放棄にすら介入できない構造になってしまいます。また、いわゆる「毒親」も批判できなくなってしまいます。

よって、「子どもの命や生存権」の観点からは人工妊娠中絶に慎重にならざるを得ないように思えます。

人工妊娠中絶に男性パートナーの同意は「不要」と断言できるのか?

母体保護法による人工妊娠中絶のうち、「身体的・経済的理由」による人工妊娠中絶には男性配偶者の同意が必要とされています。そこで、国際連合人権理事会の女性差別撤廃委員会は日本政府に、この男性配偶者の同意要件の撤廃を勧告しています。

確かに、女性の身体は当然に女性に帰属しますから、「男性からの独立」の文脈において男性配偶者の同意要件はジェンダー平等に反する、と言えそうです。また、既に母体保護法で男性配偶者の同意が不要とされている「暴行や脅迫によるレイプによって妊娠した場合」は言うまでもなく性交の段階で女性の自己決定権が著しく侵害されていますから、男性の同意を要件にする必要がないと断言できます。

しかし、「親の都合と子どもの権利」の対立を考えたとき、人工妊娠中絶において「子どもの生殺与奪の権を握る」のが母親だけで良いのか、という議論も頷けます。先述の通り、中絶の理由や経緯のなかには倫理的・道徳的な議論の余地が大きいものもあり、男性も父親として子どもの生命や権利に責任を有するのに、その命や生存権を巡る判断に関与できない構図が果たして本当に「フェア」と言えるのでしょうか。また、倫理的・道徳的な葛藤を女性にのみ担わせるのは『産ませる』男性の責任を透明化・希薄化させるも同然であるとも指摘できます。
むしろ、人工妊娠中絶の判断に男性も関与させることで、その「産ませる性」としての立場と、(父)親たるの責任を自覚させるべきに思えます。特に、昨今は離婚後の共同親権が議論され、たとえ離婚しても夫婦が共同で子どもに関する権利と責任を負う体制が支持されつつある経緯に鑑みると、人工妊娠中絶による生殺与奪の権も、可能な限りは夫婦やカップルにおいて当事者間が協議と合意に至るのが望ましいように感じます。

もちろん、たとえば何らかの理由で男性配偶者と連絡が取れない場合も考えられますから、すべてのケースにおいて男性配偶者の同意を要件としてしまうべきではないでしょう。しかし「女性が男性配偶者の意向を完全に無視して人工妊娠中絶を決断できる」弊害は指摘されなければならないし、人工妊娠中絶の判断が重いからこそ、その弊害には真っ正面から向き合う必要があるように思えます。

とにかく人工妊娠中絶は「最後の砦」であって欲しいと感じます

いずれにせよ、人工妊娠中絶において女性の自己決定権は尊重されるべきだとしても、人工妊娠中絶は「胎児の命を奪う」行為に変わりなく、「子どもの命や生存権」との衝突は常に意識されなければなりません。
だからこそ、「中絶せずに済む社会」でなければならないし、そのためには先述の通り、出産や子育ての支援策や(特別)養子縁組・里親といった制度の充実が必要だし、また望まない妊娠を避けるためのコンドームや(アフター)ピルへのアクセス容易化、性教育の強化や性暴力・DVの防止といった施策も講じなければなりません。

もちろん、それでも「止むに止まれず人工妊娠中絶を選ばざるを得ない」ケースはあるでしょう。あくまで人工妊娠中絶はそういうケースのための「最後の砦」であるべきで、積極的な選択肢であって欲しくない、と感じます。さもなければ妊娠・出産のみならず、人命すらも容易に軽んじられる社会になりかねません。

親の「性交した責任」への私見

いままで「毒親」に苦しめられ、自殺未遂すら図った立場として、「きちんと産んで幸せにできないなら、最初から性交するな」と思います。つまり、「子どもが頼んでもいないのに妊娠したなら、きちんと子どもの生命・身体や権利・尊厳を最大限尊重するのが『性交した責任』だ」ということです。

子どもは「生まれてきた責任」がないにも関わらず、「生きる」ことを陰に陽に求められ続けます。生殖というのは必然的に不条理で、親は同意なく子どもを産むのです。よって、親は子どもに対して無限の責任を負っていると考えるべきであり、その責任を負えないのなら、最初から「命を授からなければ良い」のです。勝手に子供を作っておいて、あとから「やっぱり命を奪う」と梯子を外すのは子どもからしたら極めて理不尽かつ身勝手です。
親(たち)は性犯罪やDVを除けば「性交しない」「避妊する」判断をできる立場にあるし、「性交した」「避妊しなかった」決定に伴う責任も親(たち)にあります。それが嫌なら、最初から性交しなければ良いのです。

言い換えると、性犯罪やDVによる妊娠は母親たる女性に「性交しない」「避妊する」選択肢が十分と言えませんから、当然に「避妊せずに性交した責任」は見出せません。よって、妊娠や出産に伴う生死のリスクを女性に負わせるのは酷であり、もちろん人工妊娠中絶は女性にとって当然の選択肢であるべきでしょう。言うまでもなく、性犯罪やDVの責任は法的にも道義的にも、被害者ではなく加害者にあります。

また、「完璧な避妊」はあり得ませんから、コンドームや(アフター)ピルといった適切な手段での避妊の失敗による妊娠も、その予見可能性に鑑みれば親たる男女の過失責任は必ずしも大きくないと言えそうです。よって、「望まない妊娠」への救済として、(特別)養子縁組・里親といった「他の誰かに育てて貰う」選択肢もあるべきです。また、そもそも「望まない妊娠」を避けられるよう(=適切な手段で避妊できるよう)な手段にアクセスしやすくするとか、性教育を充実させるといった取り組みも、社会として必要です。

さらに、障害は障害児・障害者本人の「自己責任」ではないものの、しかし同時に「親の責任」でもありません。だから、出生前診断の結果に応じた人工妊娠中絶も、決して国家や社会に推奨・強制されてはならないものの、しかし当事者(たち)が十分に話し合ったものであれば尊重されるべき、と言えそうです。ただし、「青い芝の会」に代表される障害者(団体)の闘争や主張の文脈は広く知られるべきで、これらを踏まえた上での判断であって欲しい、とも感じます。

ただし、経済的理由や虐待・育児放棄のリスクは子どもからしたら「親の勝手な都合」と言えるかもしれません。たとえばリストラのように予見可能性や回避可能性のないものならともかく、当初からお金がないのに性交した・避妊しなかった故に授かった命を奪われた(出生前の人工妊娠中絶にせよ、出生後の殺人にせよ)なら、子どもからしたら理不尽で「たまったものではない」でしょう。子どもが幸せに生きるのに必要なリソース(所得・資産や、親たちの能力その他)がなく、親としての「性交した」「避妊しなかった」責任を果たせないなら最初から性交しなければ良いのです。
しかし、先述の通り、予見や回避のできない事情もあり得るし、また社会の維持を考えれば「出産や子育てに多大なお金を要するべきではない」とも言えます。そこで、出産・子育ての支援を充実させ、そもそも出産・子育てに経済的な負担が大きい構造を変える必要性は依然として指摘できます。また、現実的には先ほどの「誰かが代わりに育てる」選択肢も並行して存在しなければなりません。

つまり、人工妊娠中絶は「(男性から独立した)女性の権利」として認められるべきながら、(母)親の「勝手な都合」による「子どもの命や生存権の否定」を認めるものとして解釈されてはならない、と言えそうです。母体の救命・保護や性犯罪やDVによる妊娠といった「止むに止まれぬ」ケースならともかく、子どもの同意なく性交して命を授かっておいて、「お金がないのに性交した」とか「やっぱり気が変わった」からと命が奪われるのは、やはり倫理的・道徳的に正当化できません。

なお、付言すると、個人的には「中絶規制に反対している(=中絶を推進している)男性」の一部がグロテスクにすら感じます。つまり、性交して「妊娠させる」側の男性が積極的に中絶を推進する構図には「もし子どもができても殺してしまえば良い」という「子どもの命や生存権を軽視した」主張すら見出せるわけで、ある意味での「責任逃れ」にも思えるのです。誤解を恐れずに言えば、「真剣な性交渉」と「責任ある養育」という意味においては保守的な出生観も筋が通っている、という評価はできます。
※ただし、だからこそ避妊は身近でなければなりません。

おわりに

いざというときの選択肢として、人工妊娠中絶を残すことには賛成です。でも、やはり自分自身の経験からも、「親に子どもの生殺与奪の権を与える」構図に強い抵抗感や警戒心は抱かざるを得ません。子どもは親の所有物ではないし、子どもにも「命や生存権」があるはず。その価値は決して軽くない。
また、胎児(特に妊娠初期)の意識や知能のレベルは低いとして胎児や新生児の成長段階に応じて中絶可能なラインを定めると、「意識や知能の成長レベルに応じて人権が変化する」となってしまいます。これでは人権の概念、たとえば知的障害児・障害者の権利が揺らぎかねません。

子どもの「命や生存権」は女性の自己決定権に劣後しないはず。障害児・障害者の「命や生存権」も然り。さもなければ、いまここに私は生きていないかもしれませんでした。
だから、人工妊娠中絶があくまで「最後の砦」であって欲しいという願いは揺らがなさそうです。

最後になってしまいましたが、母体への負担や、やむなく命を奪われてしまう子どもの尊厳を考えても、人工妊娠中絶の手法については掻爬法ではなく吸引法への切り替えが進むべきだし、また中絶薬の認可も検討されるべき、と感じます。

本稿では議論しきれていないケースもおそらくは存在するはずで、「親の自己決定権と子どもの命・生存権の対立」という構図に落とし込めない場合もあり得るでしょう。それでも、「子どもの命や生存権が最大限尊重されて欲しい」と願うのは女性の権利(特に自己決定権)を蔑ろにするものではないと、ご理解いただきたいと思います。むしろ、妊娠に先立った「性交」への自己決定権を尊重するからこそ、その「性交」に伴う男女の責任として「子どもの命や生存権」の尊重を強調しているのです。


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堀口 英利 | Horiguchi Hidetoshi
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