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陰謀論ウィルス 第11話 正論という毒(連載小説)
-1-
「夏希」
震える体を深呼吸で落ち着かせると、寧々は夏希に呼びかけた。
『……』
「夏希……!」
『……寧々』
「これから会える?」
『え?』
「電話で話す内容じゃないと思う。何があったのか聞かせて」
『でも……』
「何? 何か気になることがあるなら言って」
『これ以上私に関わると、寧々にも良くないことが起こると思う……私、少しずつ自分の考えがおかしくなってるのが分かるの……それが怖くて、遙華に……だから会わないほうがいいと思う。電話しておいて、そんなのおかしいと思うけど……』
「私はあなたを見捨てたりしない、絶対に」
『寧々……』
「お願い、夏希。もし夏希自身が会いたくない、会わないほうがいいって思ってたとしても、私のために会ってほしい」
『でも……』
「お願い……!」
『……分かった。
ごめんね、寧々……』
寧々は電話を終えると、すぐに国崎に連絡した。
日程を変えてほしいという内容だったが、話を聞いた国崎は、自分も一緒に行くと言った。
「一緒に行っても、国崎さんにとって得るものはないと思いますよ。もし記事のネタにと考えてるなら……いえ、すみません、ただ、一応……」
『疑って当然です。その姿勢が大事だと思いますよ』
国崎は言った。
『ただ、もうそういうことは考えていません。お話を聞いた限り、深刻な状況とお察しします。お友達の状況を理解して、手助けをするのに、僕の知識も役立つと思う、それだけです。不要だと判断したら、黙っています』
「……分かりました。じゃあ、三国中駅(みくになかえき)まで来ていただけますか? 私もすぐに向かいます」
『承知しました。ではまた後で』
国崎の意図は気になったが、今ここで問答を続ける意味はないと判断した。それに、時間も惜しい。
寧々はすぐに家を出て、夏希の妹が入院したという病院の最寄り駅、三国中駅へ向かった。
それほど大きな駅ではなく、出口は西口と東口だけ。東口を出ると商店街があり、商店街を抜けると住宅街へ入っていく。西口は道路に面していて、5つの行き先に分かれたバスターミナルがある。ターミナルからは、商業ビルや飲食店が両サイドにある歩道、山の方に向う道、街の中心街へ向かう道と分かれていて、それなりに人が並んでいる。
電車を降りて改札が見えてくると、国崎はすでに来ていて、寧々を見て軽く手を上げた。
「早いですね」
驚いていると、国崎は真剣な顔のまま、
「電車だと夢丘さんより到着が後になりそうだったので、タクシーで来ました」
と言った。
さらに、
「そのタクシーに待ってもらってるので、そのまま病院に行きましょう」
と続けた。
「ありがとうございます、料金は後で……」
「いりませんよ。急ぎましょう」
国崎の後について、寧々はタクシーに乗り込むと、病院へ向かった。
夏希の妹が入院している三国中市民病院は、地域密着を押し出している民間病院で、口先だけでなく、地元民から愛されている。夏希の家族も度々世話になっており、インフルエンザのワクチンについても、襲撃事件以降も積極的に接種を呼びかけ、対応しており、不安があるなら聞きに来てもらえればすべての質問に答えるというスタンスを貫いている。
一般的な市民病院と、外観や内装は大差ないが、病院がもっている少し重い空気はなく、電球色のような暖かみを感じる。
病院の正面入口に着くと、寧々は運転手に礼を言って、降りると同時に夏希のスマホを鳴らした。
「今着いたよ。中に行ったほうがいい?」
『入口の横に、お見舞いに来た人用の待合室があるから、そこで』
思ったより落ち着いている声に、寧々は少し安堵した。いつも通りとはいかないものの、冷静さは保っているように感じる。
「分かった」
料金を払って降りてきた国崎に状況を話し、二人は正面入口から中に入って、すぐ右側にある待合室に移動して、窓側と壁側、交互に5つ並んでいる白い丸テーブルの一番奥まで歩いて、座った。
「夏希には、国崎さんが一緒に来ることを話してません。まずはその説明が必要になるので……」
「分かりました。私が夢丘さんに協力を申し出た理由とも関わるので、合わせてお話します」
どういうことなのかと、先に聞きたい衝動に駆られたが、寧々は黙っていた。その後すぐに夏希が待合室に入ってきて、国崎を見て立ち止まった。
「誰ですか……?」
「夏希、こちらは国崎さん。朝丸新聞の記者をしてる人よ」
「え……? なんで、そんな人が一緒にいるの? 寧々、私そういうのを望んでるわけじゃ……」
「分かってる、落ち着いて夏希」
寧々は、立ち上がって夏希の目を見た。
「あなたを傷つけるようなこと、私はしない。でも、助けるためならなんだってする」
そばまで歩いて、顔を強張らせている夏希の手に触れた後、そっと後頭部に手を回した。左手は手を握ったまま、右手でそっと髪を撫でた。
「まず、国崎さんが一緒に来た理由を、彼自身に話してもらう。その話を聞いて、もし夏希が嫌だと思ったら、国崎さんには部屋を出てもらって、私だけで話を聞く」
寧々が言うと、国崎はハッキリと頷いた。
「……分かった、寧々がそう言うなら」
「ありがとう」
夏希の顔は、まだ少し強張っていたが、背を向けることなく、寧々の隣に座った。
「突然のことで、申し訳ありません。ご家族のことで、僕の知識が力になればと思い、同行させていただきました。記者としての仕事とは無関係です。そもそも僕は、出世コースからも外れて、今は強制的に休暇を取らされている身ですし、近々退職の手続きもするつもりです」
予想していなかった言葉に、夏希よりも寧々が目を丸くした。
「退職、ですか? でも、私に協力してくれるというお話は……」
「もちろん、新聞社にいる間に、使えるものはすべて使います。でも中にいたらできないこともある。それに、僕が夢丘さんに全面的に協力すること……共に陰謀論と戦うことを、会社は認めません。まあ会社ですから、組織としての姿勢は理解できないでもないです。でも、僕は納得できない」
国崎は、テーブルの上に乗せた手に力を込めた。
「6年前のワクチンの記事についても、今の姿勢についても、僕が考えるジャーナリズムとは相容れません。だから退職する、それだけです。家族の理解は得ています。というか、家族に言われて、退職を決めたようなものです」
寧々は、国崎から状況が変わったと聞いたとき、社内の風向きが変わったのかと思っていた。国崎に協力を依頼したときの言葉からは、会社を辞めるという選択肢だけはないと感じられた。その理由が家族にあると言われれば、とても責める気になれず、家族を犠牲にしてまで協力してくれとは、言えなかった。
「だから、僕は朝丸とはなんの利害関係もありません。今も所属はしていますが、朝丸のために動くことはない。夢丘さんと一緒に、今日本を覆っている黒い空気を祓うと決めたのです。だから手島さん、まずはあなたの現状を助けるために、協力させてください」
国崎は、立ち上がって真っ直ぐに夏希の目を見てから、頭を下げた。
「そんな……あの、頭を上げてください。そんなふうにしてもらうようなことじゃないし……」
「すみません、ただ、ハッキリと話しておかないといけないことだったので」
「夏希」
寧々は夏希を見た。
「どうする? やっぱり私と二人で話したいなら、それでもいい。何も悪いなんて思うことないから、正直に、思うことを言って」
寧々が言うと、夏希は時間にして1分ほど、黙ったまま、上を向いたり、左右に顔を向けたりして、両手重ねて力を込めると、口を開いた。
「他人任せでごめん……私は、国崎さんのことをほとんど知らない。今の話を聞いて、悪い人じゃないんだろうなって思ったけど、寧々を苦しめたのも新聞社だし……だから、寧々が国崎さんを信用できると思うなら、一緒に話を聞いてほしい」
夏希に言われて、寧々は反射的に国崎を見た。国崎も、ゆっくりと寧々に顔を向けたが、そこには、疑いや媚のようなものは一切なく、覚悟だけが見えた。
「夏希の言う通り、私は新聞社が……ううん、メディアが嫌い。人の傷を平気で抉りに来て、間違っていても訂正しないことも珍しくないし、本当に、人のことなんてなんとも思ってない、ろくでなしだと思う。私も、国崎さんのことを全面的に信用できるのかって言われると、ためらいなく頷くのは無理だけど……けど、信用していいと思う」
夏希の目を見て言ってから、寧々は国崎を見た。
「ごめんなさい、国崎さん。さっきの話に嘘があると思ってるわけじゃないんです。協力してくれることもありがたいですし、助かります。でも、すぐには……」
「それでいいんですよ」
国崎はサラリと言った。
「僕がさっき話したことに、偽りはありません。だからと言って、いきなり信用できるわけじゃない。信用は後から付いてくるものです。協力してやっていく中で、出てくるものですよ。今は、一緒にやってもいいと思える、それぐらいで十分です」
メディアに所属する人間は、すべてろくでもないものだと思っていた。国崎に協力を依頼したときでさえ、状況を打破するために利用すると考えていた自分がいた。そこに罪悪感はなかった。一年前から今まで、散々嫌な思いをさせられた相手に、そんなものを感じる必要はないと思っていた。今でも、その気持ちに変わりはない。ただ、国崎のことは、一人の人間として見るべきだと、寧々は感じた。
「ありがとうございます、国崎さん。
夏希、何があったか、話してくれる?」
寧々が言うと、夏希は頷いた。
テーブルの上で組まれた手が、少し震えている。
「前に話したとおり、遙華とお母さんは、いわゆる陰謀論に染まってしまってて……何度も話して、最初は二人の言うことを否定したの。それはおかしい、間違ってる、だってこういう証拠があるって。でも駄目だった。遙華もお母さんも、間違ってるのは私のほうで、本当のことが見えてないんだって、そればっかりで。
だから今度は、二人の話をちゃんと聞くようにしたの。そうすれば私の話も聞いてもらえると思って。たぶん、そのやり方は間違ってはいないと思う。寧々に送った江國さんのブログにも、そう書いてあったから。まずは相手の信じていることを聞いて、それから質問する……」
「うまくいかなかったの?」
「ある程度は、うまくいったよ。私が聞く姿勢を見せたことで、二人の口調は穏やかになったし、私が質問しても、否定する前に聞いてくれるようになった。でもね、やっぱり駄目だった。ううん、ちょっと違うかな、駄目なのは、私のほうだったかもしれない」
「夏希の聞き方が駄目だったってこと? それとも質問のほう?」
「ううん、そうじゃなくて、たとえば私が、ワクチンは完全に安全とは言えないけど、効果のほうが大きくて、接種したから死ぬようなことはないっていう話もたくさんある。なのに危険だから打たないほうがいいって考えるのはなんでなのって聞くと、私が示す証拠は無視して、危険だから危険、誰々さんがこう言ってるからって、そればっかりで、話が進まないの。
二人がワクチンは危険だと判断してる、根拠になってる主張は、私も確認した。でも、正直言って正気とは思えないことを言ってて、そんなことあるわけないでしょって言いたくなる気持ちを必死に抑えないといけないぐらいで……」
「つまり、ワクチンは完璧ではないけど安全っていう証拠は聞いてもらえなくて、妹とお母さんが信じてる根拠だけが正しいって前提でしか、話をしてくれないってことね」
「うん、そう。
それでも、二人の言ってることを否定したら、また最初に戻ってしまうのは分かってたから、我慢強く話してたつもりなんだけど……」
夏希は言葉を止めて、痛めつけられたように、顔を歪めた。
「一昨日の夜、私はまた、二人と話してたの。でも何も変わらなくて……私がどんなに話を聞いても、遙華もお母さんも、自分たちの信じてることを主張するだけで、暗記しちゃうぐらい同じことばかりで……私のほうに限界がきちゃって、いい加減にして、そんなの嘘に決まってるでしょ、そんな狂ってるとしか思えないことを信じるから人間関係も悪くなるのよ、馬鹿じゃないのって、まくし立ててしまって……言った後にマズイと思ったんだけど、もう私も、限界で……」
「夏希の気持ち、分かるよ……私も、一年前の事件はやらせだったとか、生き残った被害者は役者だったとかって聞いたとき、頭の中で、酷く残酷なことを思い浮かべたから。これが自分の中から出てきたことなのかって、ショックを受けるぐらい……夏希が怒ったのも当然だと思う」
「ありがとう、寧々……でもね、やっぱり私は、そんなこと言うべきじゃなかった。知らない人に対してなら、しかたないって思えたかもしれない。でも遙華とお母さんは……家族なの……私の家族……なのに、あんたたちは頭がおかしい、だから友達もいなければ仕事もうまくいかないんだって、言葉にしてしまった……」
「そんなふうには言ってないんでしょ? そんなハッキリとは」
「うん。でもそう言ってるのと同じことを、私は二人に投げつけた。相手がキャッチすることなんて考えない、怒りに任せて、傷つけることしかできない言葉を、妹と、お母さんに、投げつけたの……」
「夏希……」
「二人は黙ってしまって、何も言い返してこなかった。私は謝りもせずに席を立って、自分の部屋に戻った。なんであんなことって、少しは思ったけど、怒りのほうが強くて、少しは自分を省みてほしいって思った。だからフォローなんていらないって。
でも翌朝、救急車の音で目が覚めて……まだ朝の5時を少し過ぎたぐらいだった。下でバタバタ音がしたから、リビングに言ったらお母さんがいて、夏希が手首を切って、意識不明だって言われて……」
「それで、自分のせいだって思ってしまったのね……」
「私が部屋に戻ったあと、遙華はすごくショックを受けて、寒いって体を震わせながら、自分の部屋にこもってしまって、お母さんの呼びかけにも答えなかったって……あの子、昔から私によく懐いてたから、今みたいなことになっても、最後には分かってくれる、見捨てられないって思ってたんだと思う。でも私が、もうウンザリって、あなたはおかしいって言ってしまったから……私があの子を、絶望させたから……」
「夏希、そんなに自分を責めないで……」
「どうしよう……遙華に、もしものことがあったら……」
「夏希……」
震える手をそっと握ると、夏希は寧々の手を、強く握り返した。俯いたまま、それ以上言葉を発することもできず、後悔に飲まれていく。自分があのとき、あんなことを言わなければ、あんなことをしなければと、自分を責め続ける。寧々は、かつての自分を思い出して、唇が震えた。
「これもまた、陰謀論の闇ですね」
国崎が呟いた。
「手島さんの妹は、何かしらの理由があって陰謀論の世界に入ってしまった。そのコミュニティの中では、仲間と思ってもらえるかもしれません。でも、実生活で得られるものは何もありません。得られるものはなくても、そこに傾倒せざるを得ない。残るも地獄、戻るも地獄……それが陰謀論の世界に足を踏み入れるということなんだと思います」
国崎の言葉に、寧々は突然に理解した。
夏希の妹は、陰謀論を信じて利益を得ているわけではない。それどころか、家族との関係も悪くなり、仕事にも支障が出ている。陰謀論を撒き散らして利益を得ている輩がいる一方で、それを信じてしまう人は、利益など何もない。コミュニティの中にいれば、孤独を感じなくて済むかもしれないが、逆に言えば、孤独にならないためには、そこに居続けるしかない。陰謀論に傾倒してしまう人もまた、被害者だという江國のブログにあったことは、完全に納得できることではないものの、否定できるものでもない。
「遙華は、私と一緒にいたかっただけなのかもしれない……」
夏希が、思い出したように言った。
「私が実家を出るときも、遙華はすごく寂しそうだった。たまに帰ると、すごく嬉しそうにして、一緒にご飯を食べに行ったり、買い物行こうって誘ってきて、彼氏かよって思うぐらい……仕事が忙しくなって、あんまり実家に帰らなくなってから、よくチャットがきたり、ときには電話で話したいって言われたり。
話しても、特別な何か、悩みとかがあるわけじゃないの。他愛もない話。仕事でこういうことがあったとか、近所に新しい店ができたとか。最初は普通にやり取りしてたけど、忙しいときは返信が雑になったり、返さなかったりして、そのうち、連絡も少なくなって……」
「陰謀論に傾倒してしまう人は、心に傷を負っていることが少なくありません」
国崎が言った。
「他にも、たとえば職場で蔑ろにされたと感じたり、家族や友人、恋人との関係がうまくいっていなかったり、病気になったことで、生活が大きく変わってしまったり。そういったことがキッカケで、心が不安定になり、陰謀論に傾倒していく」
「やっぱり、私のせい……」
夏希の顔が涙で歪むと、寧々は首を横に振った。
「夏希が責任を感じてしまう気持ちは、私にも分かる……でもね、人はずっと、誰かに寄りかかって生きていくわけにはいかない。自分の足で立って、歩いていかなきゃいけないでしょ? たまには人に寄り掛かることもあるけど、自分の人生は、自分にしかどうこうできない。だから妹さんも、夏希に頼るばかりじゃなく、自分の足でしっかり立てるようにならないといけないと思う。簡単じゃないけど……」
「でも、もしこのまま目を覚まさなかったら……」
「声をかけてあげたら?」
「え、声?」
「うん、そう。妹さんのそばに行って、手を握って、話しかけるの。何でもいいから。謝りたいでも、また話そうでも、一緒に頑張ろうでも、何でもいいから」
「戻ってきて、って……」
「そう」
夏希は、涙で濡れた頬を袖で拭くと、立ち上がった。
「行ってくる。病室は306号室だから、部屋の外で待っててくれると嬉しい……」
「分かった。すぐに行くよ」
「ありがとう、寧々。国崎さんも」
国崎が頷くと、夏希は小走りで病院の中に戻っていった。
「ありがとうございます、国崎さん」
寧々は頭を下げた。
「少しでも、役に立てたなら良かったです」
「あなたの言葉と、夏希に起こってしまったことで、陰謀論を信じてしまう人も被害者なんだって、少し理解できた気がします。だからって、すべてを許せるわけじゃないけど……」
「すべてを許す必要はないと思いますよ。病院襲撃も、夢丘さんが巻き込まれた悲劇も、彼らも被害者なんだって理屈で許されることではないですから」
「……」
「行きましょうか」
国崎は立ち上がった。
「手島さんの妹さんが目を覚ましても、それで解決ってわけじゃないですから。まだ、手島さんにはフォローが必要です」
「そうですね」
寧々も立ち上がり、二人は306号室へ急いだ。
-2-
夏希は、エレベーターをチラリと見てから、看護師たちに怒られない程度に、全力で走りたい気持ちを抑えて階段を駆け上がった。
306号室のドアを開けると、医者と看護師、その隣に、美津子が立っているのが見えた。
心臓がドクンと、強く鳴った気がした。
少し息が乱れているから、心臓の動きは早い。
その中にあって、規則正しい鼓動を止めるように鳴った音を合図に、体中に黒い煙が広がっていくような気がした。
「遙華……!」
夏希は病室に飛び込み、美津子の隣に立った。
「お姉ちゃん……」
「遙華……!」
意識不明だった遙華が、夏希の顔を見て、一瞬ほっとしたあと、顔を逸らした。
「お姉ちゃんとは話したくない……」
「遙華……」
夏希は、振り返りかけた足に力を入れて、遙華を見た。
「ごめんね、遙華……私……」
「なんにも聞きたくない。もうなんにも……」
「遙華……」
「夏希、あなたは外にいなさい」
「お母さん……」
遙華は背中を向けてしまい、美津子はこれまで見たことがないほど険しい顔で、夏希の腕を掴んで部屋の外に追いやった。
「ごめん……ごめんね、遙華……」
部屋のドアが閉められ、ドアの前で俯いていると、後ろから呼ぶ声がした。
「夏希……」
振り返ると、寧々と国崎がいた。
「駄目だったよ……もう、顔を見たくないって言われちゃった……」
少し笑ってみせたつもりだったが、震える声を抑えることはできなかった。そのまま、すがるように寧々の首元に顔を埋めると、体の震えも抑えることができなくなった。
「目は覚ましたの。でももう、駄目なの……」
「夏希、焦らないで。意識が戻ったなら、まずは良かった。そうでしょ?」
「うん……良かった。もう、駄目なんじゃないかって思って、でも良かった……」
病室の前にある椅子に座り、寧々のぬくもりを感じているうちに、ようやく震えが収まり、夏希は顔を上げた。
「ごめん、寧々……」
目を赤くしたまま言うと、寧々は首を横に振った。
「夏希は、私が一番辛かったとき、いつも近くにして、何度も支えてくれた。これぐらいじゃ恩を返したことにならない。だから、何も気にすることないよ」
「私はそれより前に、寧々に支えてもらったよ、何度も」
「え? そんなことあった?」
「一緒に仕事してるとき、営業の仕事がうまくできなくて、部署異動になって、寧々をサポートする立場になったとき、落ち込んでた私に、寧々は頼ってくれた。私に、ここにいてもいいんだって思わせてくれた。その後も何度も助けてくれた。寧々がいなかったら、今の私はいないの。だから、私のほうこそ、まだ恩を返せてない。今だって……」
夏希の言葉を遮るように、306号室のドアが開いた。
医者と看護師が部屋を出ていき、美津子も出てきて、夏希の前に立った。
「お母さん……」
「遙華は大丈夫よ。命に関わるようなことはない」
「遙華と話しをさせて……!」
夏希が言うと、美津子は俯いた。
「あなたとは、話したくないって言ってる。
私も、もう一度話してみたら? お母さんも一緒に聞くからって言ったんだけど、絶対に嫌だって……」
「絶対に、嫌だ……遙華が、そう言ったの……?」
夏希が聞くと、美津子は静かに頷いた。
「遙華は、まだ数日入院になるみたい。お父さんも来てるから、これからお父さんと二人で、お医者さんと話してくる。あなたは遙華が家に戻る前に、自分の家に帰って、夏希……」
「お母さん……」
「……」
美津子は、顔を上げて夏希を見たあと、目を伏せて、廊下を歩いていった。
「なんだろう、これ……なんなんだろう……なんで、こんなことに……」
視界が暗くなって、足の力が抜けた瞬間、体が止まった。ゆっくりと顔を上げると、寧々と国崎が、それぞれ腕を支えて、椅子に座らせてくれた。
「ごめんなさい、私……」
「少し、時間が必要かもしれませんね……」
国崎は言った。
「今、強引に話しをしようとしても、逆効果だと思います。言い訳をしにきたと思われる可能性があるし、また否定されるという恐怖もあるかもしれません。だから、少し時間を置いたほうがいい……」
「時間が経てば、また話せるようになるんでしょうか……」
夏希は俯いた。
「あんな酷いこと言ったら、やっぱり、もう……」
「分かりません。でも少なくとも今は……
夢丘さん?」
寧々は、夏希の髪をそっと撫でて、「大丈夫よ、夏希」と言ってから、立ち上がった。
「寧々……?」
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