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壁越しの恋 第1幕 あるコメント(連載小説)

第一幕 あるコメント

-1-

「來未、聞いてる?」

君沢來未(きみさわ くみ)は、名前を呼ばれて方杖から顔を離した。

「あ、うん、聞いてたよ」

笑顔を作ったものの、野村楓(のむら かえで)は頬を膨らませている。

「彼氏の態度が変わってきたんでしょ? 言葉は今までどおりだけど、込められてるものが違うみたいな」

來未が言うと、楓だけでなく、隣に座っている安永慶子(やすなが けいこ)も目を大きくした。

「來未って、やっぱりすごいね」

慶子が両手を合わせる。

「不安なら、本人に聞くよりも、行動とか、一緒にいるときのさりげない仕草とか、そういうところを観察してみるといいかも。直接聞いてもごまかされるだけだろうし、あんまり追求すると、おまえは俺を信用してないのかって言われる可能性があるし、もし、楓が想像していることが現実なら、口実を与えることになっちゃうと思うし」

「わぁ……そうか、そうだよね……分かった、そうしてみる」

「うん」

「それにしても」

慶子は言った。

「こんなおしゃれなカフェで、こんなにおいしいスイーツが目の前にあるのに、來未はいつもどおり冷静だね」

「そうかな(笑) でもちゃんと楽しんでるよ。このケーキも美味しいし」

來未は、デザートスタンドに綺麗に並べられた、一口サイズのショートケーキにフォークを刺して、口に運んだ。
駅前の商業ビルの屋上に設置されたカフェ、スイーツダイヤは、一年前に開店してから、ずっと客足が絶えず、時間帯にもよるが、確実に入りたいなら予約が必要で、今も周囲の丸テーブルには、來未たちと同じような女子たちやカップルが、笑顔とケーキを並べている。

「甘いものは好きだもんね、來未」

楓が言った。

「うん。バナナケーキとかも好き。あ、でもこのメロンケーキ美味しい」

「そうやって食べてる姿もかわいいのに、想い人がいないって、もったいない」

「大西さんとはもう、ないんだよね?」

慶子が言うと、來未は顔を上げた。

「絶対ない」

「そっか~。じゃあ來未の恋バナ聞くことはもうないのかなぁ」

「大西さんのときも、恋バナって感じじゃなかったような……」

「あ、そうかも……」

「二人とも、ごめん」

來未は、メロンケーキを食べ終えると、立ち上がった。

「1時間後に、クライアントと約束があるの。だから、またね」

「あ、もうそんな時間か。
うん、気をつけてね。私たちも、これ食べたら出る」

「がんばってね、來未」

楓と慶子に手を振ると、來未はビルを出て、左腕にはめた、茶色いベルトの時計を見た。

(うん、大丈夫、まだ余裕ある)

一階に降りるエレベーターに行列ができていたときは、少し焦りを感じたが、遅刻するほどの遅れはなく、來未はタクシーを呼んで、乗り込んだ。

仕事を終えて家に帰ったのは、19時少し前だった。

「ただいま」

返事を期待しているわけではないが、なんとなく言ってしまう。と、靴を脱いだ瞬間に、スマホが鳴った。

「……はぁ」

ため息が漏れる。
そのまま廊下を歩いてリビングを抜け、仕事部屋に入ってバッグを所定の位置に置く。

「はぁ、どうしよう……」

もう一度スマホを見てから、チャットを一つ打って、机に投げ出すように置いて、椅子にもたれた。

仕事用にしている部屋は、ドアを開けると向かい側が窓になっていて、小さなベランダには、家庭用菜園のプランターが置かれて、小さなトマトをぶら下げている。

窓の横には、アンティーク調の両引き出しの机があり、上にはノートパソコンとB6サイズのノートとペンが置かれている。壁際には本棚があり、心理学に関するもの、トラウマからの乗り越え方、犯罪心理学が分かる本といったものから、ミステリー小説、数枚のDVDと、本の形をした小物入れや、火を使わないキャンドルが隙間を埋めている。

仕事をするのに、自分の心が安定するのに必要なものだけが置かれているはずの部屋で、來未は立ち上がって、落ち着きなく部屋の中を歩き回った。

「わぁ!」

思わず声が出て、顔が熱くなった。
机に置いたスマホが、誰かからのメッセージを届けたらしい。遠目に見て、カーテンの隙間から外の暗闇を確認してから、机まで歩いてスマホを取った。

『だいぶしつこいね。一応警察に相談しておいたほうがいいと思うけど、まだその人がって言える証拠もないんだよね? 少しの間、家に泊まってもいいよ?』

メッセージを見て、來未はホッとして椅子に腰を下ろした。
送り主は親友の来栖藍梨(くるす あいり)で、來未が送ったメッセージに対する返信だった。

大丈夫、ありがとう、また相談させて、といった内容で返信して、スマホを机に戻した。

「……!」

途端、再びスマホが鳴って、來未は「もう!」と唸った。

「今度はなんのお店? 森下さん」

語尾強くスマホを見ると、”TATUYA ONISHI”という名前が見えて、來未はため息をついた。

「今度は辰也なのね……」

世間話に近いようなチャットだったが、來未は糖分を欲してキッチンまで歩き、棚からココアを出した。粉をスプーンで掬って、ココア用にしている350mlのマグカップに並々と注ぎ、さらに砂糖を二杯掬ってかき混ぜ、一口飲んだ。

「はぁ……ふうぅ……」

体に流れ込んでいくのを感じていると、体が火照っていくと同時に、メラメラとした感情は冷えていく。もう一口を飲んでから、カップを持って仕事部屋に戻った。裏返しにしたスマホは本棚の空きスペースに置いて、部屋の明かりを消した。暗闇に反応してキャンドルが光だし、椅子にもたれてココアを半分ほど体に入れると、体の強張りも消えた。

「新しいの出てる……!」

ノートパソコンでブラウザを立ち上げ、プライベート用のメールをチェックすると、記事更新の通知がきていた。

映画考察ライブラリ。

前のめりになって記事を読み進める。
更新されたばかりの記事は、『ラストナイト・イン・ソーホー』というサイコロジカルホラーのもので、読み終えると動画配信サービスのサイトを開いて、マイリストに加えた上で、鑑賞する日をカレンダーに入れた。

「元永さんと映画の話できたら、楽しいだろうな……」

椅子に座ったまま、膝を抱えてモニターを見ていると、想像が広がった。
映画考察ライブラリは、元永秀一という人物が運営しているサイトで、様々な映画の考察を中心に、時折映画の元になった事件についての考察を書かれていて、來未は元永の視点、考え方が好きだった。

どんなに疲れているときも、嫌なことがあった日も、一度読んだ記事であっても読み返すと、不思議と心にあるざわつきは静かになった。

(どんな顔してるんだろう。どんな声で話すのかな)

Webサイトには写真はなく、Webデザインの仕事をしながら記事を書いているということ、もしこの映画、この事件について書いてほしいなどの依頼、問い合わせがあればこちらまで、という問い合わせフォームがあり、何度か送ってみようと思ったが、いつもタイトルを考えているうちに「やっぱり……」となって、結局一度も連絡したことはなかった。

「そろそろシャワー浴びなきゃ……」

モニターの右下を見て呟いたとき、背後でスマホが鳴った。

『忙しいでしょうか。結構人気の店のようで、先日はたまたま入れましたが、予約したほうが確実だと思います。都合のいい日時を教えて下さい。合わせます』

「……」

チャットは、來未にとってはクライアントの一人である、森下太一(もりした たいち)からだった。
先程のメッセージを確認したものの、返信しなかったせいだろうか。一方的で急かすようなテキストに、來未はスマホを持つ手に力が入った。

「なんで分かってくれないの……」

ため息と一緒に言葉が漏れる。
冷め始めたココアを飲むと、肩の力は抜けたが、心臓は血液の循環を早めて、状況に備えさせようとしてくる。
來未は立ち上がると、忍び足で窓に近づき、カーテンを少しだけ開けて外を見た。

「……」

誰もいない。
見えるのは、街頭に照らされた夜道と、眠りについた家と、起きている家のコントラストだけ。

鍵を確認してから、カーテンを閉める。
五階だから心配はないだろうが、犯罪者は「大丈夫だろう」という思考の隙間を突いてくるという、元永の記事がいつも頭にあって、鍵は念入りに確認していた。

机に戻るとスマホを取って、警察に相談とスケジュールを追加すると、部屋を出た。

-2-

天利秀一(あまり しゅういち)は、ほんのり赤くなった顔で、猫の動画を見ていた。モニターに映し出される猫たちの行動一つひとつが、頬を緩めさせる。
1DKの部屋は、七畳の洋室が寝室と作業部屋を兼ねて、同じく七畳あるダイニングは、一人では広く、スペースも余るため、以前集めていた映画のDVDや、音楽のCDと本が入った本棚が置かれ、テーブルと同居している。

記事を一つ書き終えると、少しだけ、350mlのビール2本、あるいは焼酎のロックを二杯ぐらいの酒が飲みたくなって、仕事終わりの晩酌をしない代わりに、一週間に一度か二度、ほんのり酔うのが日常になっていた。

本業のWebデザインの傍ら、元永秀一のペンネームで始めた映画考察サイト、映画考察ライブラリは、最初は完全に趣味だった。ただ自分が見た映画の感想を書いて、共感してくれる人や違う意見の人がいれば、コメントでやり取りできればいい……それぐらいのノリで始めて、今でも趣味ではあるが、七年近く続けているうちに、見てくれる人も増えて、力の入れようは仕事と変わらない、いや、仕事以上になっているといってよかった。

(次はアングストあたりにしてみようか。でもちょっと生々しすぎるか。いや、でもリアル事件の記事も書いてるし……)

酒も入っているせいか、集中力を失った思考は、あちこちに飛び回り、次の記事のこと、モニターの中で動き回る猫のこと、明日のこと、仕事のことなど、いくつもの“絵”を、トランプを配るように脳内に広げていく。

そんなとき、主張が強く残るのは、いつもネガティブな“絵”だった。
Webデザインの仕事は、それなりに楽しいが、先行きに不安も感じていた。おそらくなくなることはないだろうが、仕事のやり方は変わる……変えざるを得なくなり、今のままでは職を失うかもしれないという不安にまで膨らむのがワンセットで、じゃあどうするのかというところで、いつも立ち止まってしまう。

(考えたところで、何ができるんだって話か……自分一人ならどうとでもなるよな)

作業部屋のゲーミングチェアに首をもたれて、天井の隅に視線を向ける。

(一人、か)

チラリと、スマホに目をやる。

『付き合ったら変わるのかなって思ってたけど、結局秀一って、何考えてるのか分からない。その理由も話してもくれないし、自分のこと以外、興味ないんだね。私がいなくても、寂しいとかないんでしょ?』

スマホから目を離しても、脳内のスクリーンには言葉が残り、目をきつく閉じても消えてはくれない。結果だけ見れば、彼女の言う通りだろう。でも踏み込んだところで、うまくいくとは限らない。誰かを好きになって、のめり込むほど、傷も深くなる。だったら……

首を横に振って立ち上がり、少しボーっとしたまま歯を磨くと、パソコンを落としてベッドに入った。明日は週に一度の出勤の日。会社に行く意味は感じないが、そこに歯向かうほどの理由もない。
目を閉じると、酔いも手伝って、すぐに思考は止まった。

-3-

「お気持ちは分かりますが、家の近くに来てるのを見たとか、ポストに何か入ってたとか、そういったことはないんですよね?」

翌日。
一通り仕事を終えた午後3時過ぎ。
自宅から半キロほどのところにある交番に行くと、警官は事務的に言った。

「そうですけど、しつこく誘ってきますし、夜歩いていると、視線を感じるんです。駅とか、ある程度人がいるところは問題ないんですけど、自宅近くとか、住宅街の人があまりいないところだと」

來未が言うと、警官はちょっと面倒くさそうに、

「気の所為ということも考えられます。実際あるんですよ、あなたのように、しつこく誘われてて、断っても諦めるふうじゃなかったり、断ったことで急に態度変えてくる相手だったとすると、不安から、そういうふうに感じてしまう、神経が過敏になってしまうと言いますか」

と言った。

「分かりました、もういいです」

來未は交番を出ると、両拳に力を入れて、奥歯を食いしばった。
予想通りの反応ではある。警官の態度も、今の状況からすればおかしくはない。動けるだけの材料もない状況で、下手をすれば誤認逮捕のようなことになって、常に不幸や権力の
ミスを探しているメディアにとって、格好のネタになる。それは分かるが、過剰に騒いでいるわけではなかった。少なくとも、來未にとっては。

俯き、歩幅狭く歩いていると、スマホが鳴った。

「はい、もしもし」

『あ、君沢さん、こんにちは』

「近田課長、どうされましたか?」

『突然すみません、今、お電話大丈夫ですか?』

「ええ」

來未は答えながら、一瞬周囲を見て、道の端に寄った。住宅街で、今の時間はあまり人はいないが、車は一定間隔で走り去っていく。

『森下のことです』

「あ……」

「森下が、君沢さんに食事に行こうなどと、執拗に連絡をしていると、うちの社員から聞きまして……とはいえ、私も証拠を見たわけではありません。話を上げてきた社員は数人いますが、全員、森下とはその……あまりうまくやれていないし……ああ、いや、問題のほとんどは森下のほうにあるわけですが……それで、君沢さんに本当のところをお聞きできればと、突然のお電話となりまして」

丁寧過ぎるほど気を使う近田に、來未は口元を緩めた。
近田篤(ちかだ あつし)は、來未が企業内カウンセラーとして契約している、工作機械を作っている中小企業、株式会社友平機械の課長で、窓口にもなっている。年齢は50歳、高校生の息子と娘が一人ずつ、部下からも信頼されている生真面目な男で、來未としても話しやすい相手だった。

「本当です。以前の森下さんのような、乱暴な口調ではないですが、正直、しつこいです。お断りはしてるんですが、中々分かってくれないみたいで」

「申し訳ございません。
君沢さんのカウンセリングのおかげで、社内での態度はかなり改善されまして、他の社員とぶつかることも、ほとんどなくなったんですが、そのような形でご迷惑をおかけしていたとは……私から、森下に言います」

「近田課長にそう言っていただけると、私としても安心できます。お手数ですが、よろしくお願いします」

「いえいえ、ご迷惑をおかけしてるのはこちらですから。
それでは、失礼いたします」

通話を終えると、來未は少し、体が軽くなった気がした。意図した形とは違うものの、いい方向に進んだといえる。

外に出たついでに、ココア二袋の他、食材の買い物を済ませ、家に帰ってきた頃には、日は沈みかけており、ダイニングの椅子に座って、窓の方に視線を移した。

遮光カーテンの隙間から、オレンジ色の光が一筋、ダイニングの床に差している。カーテンを全開にすれば、綺麗な夕日が見られるだろうと思ったが、体は椅子から動こうとせず、藍梨に、警察の件も含めて状況をチャットすると、そのままテーブルに突っ伏した。

相手の気持ちを考えない想いは、恋愛感情なのだろうかと、ふと思った。冷たいダイニングテーブルに、頬が触れているからかもしれない。來未に執拗にアプローチしてくる森下太一という男は、仕事を通してやり取りをしただけで、メッセージアプリのIDも、アフターフォローのためのもので、プライベートなやり取りをするためではなかった。

最初に食事の誘いを受けたときも断ったし、自分の仕事の範囲以外のものは返信しないという対応をして、対面で話したときに、プライベートなやり取りは困ると伝えたにも関わらず、約四ヶ月に渡るアプローチは、今も続いている。おそらく森下は、自分の感情は恋愛感情だと思っているのだろうが、來未からすれば感情の押しつけに過ぎず、嫌悪感を通り越して恐怖が強くなっていた。

(今日はもういいよね……)

いつもなら、明日以降の仕事の準備をするところだが、仕事部屋でパソコンと向き合う気になれず、リビングに置いてある映画鑑賞用のパソコンの電源を入れた。カレンダーの予定よりも早く、映画考察ライブラリで紹介されていた「ラストナイト・イン・ソーホー」を鑑賞しているうちに、日は完全に落ちて、映画が終わると、空腹が胃を鳴らした。

食事を終えても、藍梨と話しても、体はどこか緊張を残していて、シャワーを浴びても表情は暗いまま、濡れた髪のまま、パソコンの前に座って映画考察ライブラリを開いた。
記事は更新されていなかったが、いくつかコメントが書かれていて、

『殺人を肯定するような考察ですね。恐ろしいです』

というコメントが目についた。

「殺人の肯定なんてしてないでしょ。サンディの状況を考えれば、そこに至る感情は理解できるって書いてるじゃん。何言ってんのこの人」

思わず口から出た言葉に、來未は素早く数回、瞬きをした。
ついさっきまで緊張していた体から、力が抜けている。不思議だった。記事ではなく、コメントを見ただけなのに、感情が一瞬で変わった。酷いコメントに反応したというより、こんな変なものを読まされる元永のことを思うと、自然と怒りが湧いたのだと感じた。

(こういうの見たらやっぱり、嫌な気持ちになるのかな)

頭の中に言葉が浮かんだとき、右手はタッチパッドに移動し、カーソルは「Contact」と書かれたリンクの上に移動した。

「……」

クリックして、問い合わせと書かれたページを見つめる。

「何を書こうとしてるのかな、私……」

タイトルを五回書き直し、取り憑かれたように本文を書くと、送信ボタンを押した。送信確認画面が出て、もう一度送信ボタンを押す。

「……」

海を深くまでも潜って、ようやく海上に顔を出したような感覚。
送った……送ってしまった。
もう中止にはできない。ブラウザをバックさせても遅い。
心臓が動きを早めている。
顔が火照って、さっきまでと違う緊張が覆っているが、体は軽くなった気がした。

(返信、くれるのかな……)

考えていると怖くなってきて、パソコンを閉じて寝室に向かった。
返信がこなくてもしかたない。
大丈夫……

來未はそう言い聞かせると、もう一度家中の戸締まりを確認してから、部屋の電気を消した。


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