小さな「意味」が力になる【ショートストーリー】
-1- 耐える日々
(もうこんな時間か……)
伸びをしたときに目に入った時計は、21時45分を指していた。俺はノートパソコンのモニターに視線を戻して、キーボードに手を置いたが、数分待っても動こうとしない手をダラリとさせて、天井を見上げた。
明日、上司の笹丘から「茂上、しっかりしてくれよ」と言われるだろうが、いつものこと。努力はしているつもりだが、やればやるほど仕事は増える。いや、増やされる。
笹丘が異動になる見込みは今のところないが、結局仕事は、耐えるもの。そんなもの……
「まずい、そろそろ帰らないと……」
21時59分、俺は急ぎパソコンを切って、所定のロッカーに入れると、会社を出た。
家に着く頃には、23時を過ぎていて、いつものように売れ残りのコンビニ弁当を温め、タブレットでアニメを見ながら食べる。一話が終わる頃に食べ終わり、二話目をボーっと見て、三話目のオープニング曲が始まるあたりで止めて、シャワーを浴びる。ベッドに入る頃には深夜1時を過ぎていて、寝りにつけるのは2時ぐらい。翌日は7時に起きて、9時に出勤。
毎日こんな生活を続けていれば、体はたるみ、昼間は眠気に襲われる。
「茂上」
「……」
「茂上」
「あ、はい、なんでしょう」
「なんだよ、随分と眠そうだな」
「いえ、大丈夫です……」
「ふ~ん……」
「あの、何か……」
「俺は1時間後に、課長ミーティングに出なきゃならない。だからそれまでに、先月のうちのグループの実績、来月に向けての課題、それをまとめて資料にしてくれ。課題については俺のほうでいくつか上げてある。それをうまいこと使え」
「え、あと一時間って……他の人に頼めないんですか? 今、手一杯で……」
「他の人も手一杯なんだよ。それとな、俺はおまえにやってほしいんだよ、茂上」
笹丘はポンポンと肩を叩くと、「よろしくな」と言って自分のデスクに戻っていった。
"他の人"は、欠伸をしたり、同僚とのチャットに夢中だったりだが、そんなことは関係なかった。これが日常、これが普通……転職すればいいと思ったことは何度もある。でも同時に思う。転職しても、今よりマシになるとは限らない。どんなに頑張ったところで、報われるものでもない。
意志力の強い一部の人間は、理不尽に耐えに抜いて道を切り開けるだろうけど、大半の人間はただ苦しいことに耐えて、週末のひとときで心を癒し、また苦しみに耐える……苦しみに抗っても、苦しみが増すだけ。それは俺自身、体感として知っている。
あとはあんなふうに……と、俺はグループリーダーの笹丘を見た。
あんなふうに、"うまくやる"ことで、組織の中でいいポジションを確保することが、苦しみを緩和することになる。たとえそれが、見せかけであっても。
「ん? なんだ茂上、何か用か?」
「あ、いえ……」
モニターの影で力の入った右手を緩めて、俺は仕事に集中した。
耐える以外、俺には……
スーッと、目の前が暗くなって、右肩に強い衝撃があって、次に頭がぶつかった。
世界が回っている……? ずっと遠くで、名前を呼ぶ声が聞こえる。
なにが、どうなって……
-2- なんのために
「今はしっかり体を休めてください。明日、精密検査をしましょう」
丸メガネを掛けた男性医師は、事務的に言った。
隣には、看護師の女性が無言で立っている。
目が覚めたときは病院のベッドにいて、記憶の終わりから三時間ほど経過していた。
どうやら、仕事中に突然倒れて、救急車で運ばれたらしい。
「俺、なんで倒れたんですかね……」
「検査してみないとなんとも言えないところですが、疲労とストレスが原因だと考えられます」
男性医師は、チラリとドアの向こうに視線を向けた。
「自覚症状はありますか?」
「……ええ、まあ」
「そうですか。まあ、とにかく目が覚めて良かったです。細かいことは、明日の検査のときに話しましょう」
「何かあれば、ナースコールで知らせてくださいね」
医師と看護師が出ていくと、入れ替わりで笹丘と取り巻きが入ってきた。
「重病人みたいになってるな」
笹丘は言った。
「……」
「早めに復帰してくれよ? 上に説明も必要だし、仕事もあるし」
取り巻きたちは頷くばかりで、何も言わない。
「……復帰時期については、検査結果次第かと思います」
「そんなことは分かってる。でもがんばれって言ってんだ。分かれよ」
「……あの、笹丘さん」
「なんだ?」
「救急車を呼んでくれたのは……」
「ああ、隣のグループの寺内だよ。おまえが倒れたら、血相変えて走ってきて、すぐに救急車を呼んでた」
「なんで、寺内さんが……」
「さあな。いい人を演出したかったんじゃないか? あっちのグループは、お客と同僚への思いやりを大切に、とか言ってるからな」
「……」
「じゃあな。俺達は忙しいから、会社に戻る」
笹丘と取り巻きが出ていくと、部屋は静かになった。
いったい何をしに来たのかと思ったが、すぐに理解した。状況次第では、笹丘は責任を問われる。だから確認しにきたのだろう。結果、"ただの"疲労だと分かり、悪態をついて出ていった。
(なんで、寺内さんが……)
寺内美登里(てらうち みどり)は、隣のグループの社員で、2、3回話したことがある。大人しく、優しい印象だったこと以外、あまり覚えていない。連絡先も知らないから、お礼を言うには退院してから会社で直接しかない。
(なんだか申し訳ないな……)
罪悪感が広がっていったが、翌日の検査結果を聞いたときには、すべてが真っ白になった。
「糖尿病、ですか……?」
医師の話によると、疲労とストレスによる心の状態も問題だが、すぐにでも生活習慣の改善を始めないと糖尿病になる可能性があるという。確かにここしばらく、喉が渇きやすかったり、疲れやすい気はしていた。疲れのほうは、仕事のしすぎで、休息を取れば直ると思っていたが、よくよく考えてみると、休日も疲れてほとんど家から出ることなく、だからといって疲れが抜けているわけではなかった。なのに、それが普通になっていて、体の異常だと思わなくなっていたことに、背筋が寒くなった。
「いきなりは難しいでしょうけど、食事は野菜やフルーツを中心にして、週に四日は運動、せめて一日30分のウォーキングはするべきでしょう」
病室に戻って横になると、枕に顔をつけて窓の外を見た。
空は青く、鳥がじゃれ合うように追いかけっこをして、飛んだり、木の枝に止まったりしている。入口側のベッドには、見舞いが来ているのか、楽しそうな話し声が聞こえてくる。
「……」
いったい、俺の人生はなんなんだろうか。疲労とストレスで倒れるまで働いて、心配されることもなく、唯一の楽しみともいっていい、好きなものを食べることすら叶わなくなってしまった。いや、別に食べても法に違反するわけではないし、自分が体を壊すだけ。壊れて、そのあとどうなっても、それならそれで……
「あの……」
「……?」
目を閉じかけたとき、足元のほうから声が聞こえた。
「え? 寺内さん……?」
救急車を呼んでくれたという、寺内が、足元のあたりに立っている。
眼鏡をかけて、前髪ぱっつんの長い黒髪、黒いロングのタイトスカートにベージュのパーカーを着ていて、会社で見るスーツスタイルとは印象が違う。
「あの、大丈夫ですか……?」
「え、あ、えっと……うん、大丈夫……いや、大丈夫じゃないかな、いやまあとりあえずは……」
「……」
「あ、あの、よければこっち、椅子あるから……」
窓際に置かれた丸椅子を指差すと、寺内さんは失礼しますと、小鳥が囁くような声で言って、座った。
「えっと、どうして、ここに……もしかして、お見舞い? いや、そんなわけないか……」
見舞い以外なにがあるんだと、脳内で自分にツッコミが入ると、
「お見舞いです。もしかして、来ないほうが良かったですかね、彼女さんに見られたらとか……」
と言って、寺内は顔を逸らした。
「いや、彼女とかいないから……
あ、救急車呼んでくれたんだってね、ありがとう。良かった、お礼が言えて……退院するまで言えないかと思ってたから……」
「仕事、無理し過ぎなんじゃないですか……?」
「うん、そうかも……こないだ上司と、うちのグループの数人が来て、大丈夫かって聞かれたけど、まあ形だけで、復帰したらまた、同じことになると思う。頑張っても意味ないかなって思ったりもするけど、まあ、他にやることもないし……体のこと考えたら転職とかしたほうがいいのかもしれないけど、さっき、医者にこのままじゃ糖尿病になるって言われちゃって、もうどうでも良くなってきちゃって……」
「……」
「あ、ごめん、なんか、つまんない話しちゃって……カッコ悪いよね」
俺は顔を引き攣らせながら俯いたが、寺内さんはピクリとも笑わずに、
「もっと、自分のこと大事にしてあげてもいいと思います」
と言った。
「え? あ、ありがとう……」
「今日はこの後予定があるので、明日また、来てもいいですか?」
「え? あ、うん、もちろん……」
「じゃあ、また明日」
寺内さんが部屋から出ていくと、俺は再び、窓の外に目を向けた。
どうして、という疑問が浮かんで、ありえない妄想や勘違いを是正する想像が浮かんでは消えた。
翌日、寺内さんは本当にやってきて、バッグから一冊の本を取り出した。
「私には、茂上さんの仕事をどうこうすることはできないですけど、本はたくさん読むので、よければ、これ……」
「貸してくれるの……?」
「はい。それ、私の人生を変えてくれた本なんです。きっと、役に立つと思います」
寺内さんは、俺の目を見ながら言った。
「ありがとう……読んでみる」
「はい。あの、ゆっくりでいいですから」
「あ、うん、ありがとう……」
「じゃあ、私はこれで」
逃げるように帰っていく寺内さんを見送った後、俺はベッドに横になって本を広げた。
「脳を活性化する一番の方法は運動すること……」
運動が脳機能を高めることを、科学的な証拠をもとに解説した本で、難しいことを書いているはずだが、エピソードを交えながらの読みやすい構成になっていて、食事の改善方法についても触れられている。
昨日、糖尿病のことを聞いて、ただ励ますのではなく、実際に状態を変えることができるツールを提供してくれたことに、俺は一人で、目頭を熱くした。
(退院までに読み終えて、退院したらさっそく実践しよう)
それからの四日間。俺はひたすら本を読み、一部暗記するほど読み込んで、退院してからさっそく運動を始めた。
最初の三日間は良かった。でも四日目になると、仕事の忙しさからサボりだし、二日空き、三日空き、空いた分を取り戻そうと、ランニングの時間を増やしたりしたが、自分が決めたメニューにもかかわらず、最後まで走りきれずに立ち止まってしまい、二週間も経った頃には、スニーカーも履かなくなった。
-3- 意味
「寺内さん、本、ありがとう」
三週間近く経って、俺は寺内さんに本を返した。
「ごめんね、長く借りちゃって……」
「あ、いえ……どうでした?」
「うん、すごく良いこと書いてあって、勉強になったよ。書いてあったこと、試してみたんだけど、俺には無理だったみたい。しんどくてさ、続けられなくて……昔から意志の力弱いんだよね、俺。ほんと、ダメな人間だと思う……あ、本はすごく良かったよ。ダメなのは俺で……」
「……余計なこと、しちゃいましたかね」
「え……?」
本を受け取った寺内さんは、残念そうではなく、悲しそうな顔をした。
気の所為だったかもしれない。でも俺には、そう見えた。
「寺内さんが悪いんじゃないよ。余計なことなんて、そんなわけない」
そう言ってから、ほとんど無意識に、
「ごめん、返すって言っておいてあれなんだけど、もう一週間だけ、借りてもいい?」
と聞いた。
「え? あ、はい、もちろんです」
寺内さんは目をパチパチさせて、頷いた。
「じゃあ、また一週間後に」
家に帰ると、俺はもう一度本を読み直して、メニューを組み直した。
退院前は、勢いで目標を立てたが、よくよく考えると無理なことばかり掲げていた。本にも、できるところから始めて、まずは「やる」という習慣を身につけることと書いてあるのに、無視していた。
メニューを緩和しても、苦しいことに変わりはなかった。
でもそんなときは、寺内さんの顔が浮かんだ。彼女にいいところを見せたいと思ったわけじゃない。ただ、彼女に喜んで欲しかった。諦めて本を返すと言ったとき、彼女が見せた悲しげな顔。あんな顔をさせてはいけないと、そう思った。
一週間後に本を返してからも、俺は運動を続け、いつの間にか食事も変わった。一ヶ月が経つ頃には、たるんでいた腹回りも少し絞れてきて、周りの見る目も変わってきた。これまで見向きもしなかった女性社員が、向こうから話しかけてくるようになり、笹丘が仕事を押しつけづらい空気ができ始めた。
といっても、相変わらず仕事量は多かったし、遅くなることもあった。ストレスはあったし、苦しいと思うこともある。でも不思議と、週末を想像して耐えるということは、なくなっていた。仕事は苦しいもの、耐えるものという、昔聞いた"教え"は、腹回りの脂肪とともに、どこかへ消えたらしい。
「寺内さん」
退院してから一ヶ月半が経って、俺は寺内さんに声をかけた。
「あの、えっと……」
「はい……」
「おかげで俺、変われました。だからその、お礼も兼ねて、食事でも、どうですかね……」
しぼんでいく声が聞こえたのか分からず、俺は俯いた。
「はい、もちろん……」
寺内さんは、あのときと同じ、小さな声で言って、顔を上げた。
「ぜひ」
寺内さんの笑顔を見たとき、自分は正しかったと確信した。
この笑顔のためなら、なんだってできる。