第3話 開示【死生の天秤】小説
■第3話の見どころ
・過度? 笛木のお礼
・自己開示の癒やし
-1-
『パパ、助けて……苦しいよ』
『ご主人がもっと早く気づいていれば、優衣ちゃんは……』
『あなたが悪いのよ!! あなたが優衣を……優衣を返して!!』
そうだ、俺が悪い。俺がすべて……俺は……
「うわ……!」
ガバっとベッドから起き上がった箕嶋は、そのままベッドの横から落ちて、右肩をフローリングに打ち付けた。
「っつぅ……」
体に滲んだ汗が、フローリングを濡らして気持ち悪かったが、ひんやりとした感触は気持ちよく、箕嶋は少しの間、そのままの姿勢でいたが、やがて立ち上がって洗面台に向かった。
時計はまだ、7時前。
今日は急ぎの仕事もなく、打ち合わせや取材の予定もない。つまりは暇だ。かといって、休日だからこれをしよう、というものもない。なんとなくいつも通り歯を磨き、顔を洗うと、コーヒーを淹れた。
タブレットでなんとなくニュースを見ていると、時計の針が8時を回った。だが箕嶋は、リビングから動く気になれず、普段は見ないような、どうでもいいようなニュースにまで目を通しては、頭の中であーだこーだと思考を巡らせた。それにも飽きると、映画サイトを開いたが、同時にスマホが鳴った。
「もしもし」
『箕嶋さん、おはようございます』
「……? どちら様ですか?」
『私、笛木です。事故で助けていただいた』
「え、ああ、笛木さんでしたか」
『おかげさまで、今日退院できます』
「それは、良かったですね」
『そこで、お礼を兼ねて、今日の夜食事でもどうでしょう? ごちそうします』
「ああ、しかし……」
『なにかご予定が?』
「……いえ、今日は特に……分かりました。でも本当に、そんなにお気遣いいただかなくてもいいので」
『私が箕嶋さんの立場だったら、きっと同じことを言うと思います。でも箕嶋さんも、私の立場だったら、なにかしらしたいと思うのではないですか?』
「……そうかもしれません」
『強制するようで申し訳ないです。私の気持ちの問題というのも大きいですが、ご予定がなければ、ぜひ』
「ええ、分かりました。どちらに伺えば?」
『場所は追ってご連絡します。時間はだいたい、20時頃でどうでしょう?』
「構いませんよ」
『良かった。ではまた連絡します』
電話を切ると、箕嶋はしばらくスマホを見つめていた。なんだってあの男は、ここまで礼をしたがるのだろう。確かに自分が助けてもらった立場なら、お礼の一つもしたいと思うだろうが、それにしても……
自分がズレているのかもしれないと思いながらも、断る理由も特にないことから、箕嶋は急ぎではない仕事をいくつかこなし、今後の取材に関係する資料を読む時間を充てた。休息にしようと思えばできたはずで、一度はPCを閉じて、リビングで小説を読み始めたが集中できず、映画を見ようとテレビを付けても集中できず、結局仕事に戻った。思考に隙間ができるのはどうにも落ち着かない。追い立てられているぐらいがちょうどいい。
「ふぅ……」
肩が血流を忘れるほどPCと向き合った後、ふと時計を見ると、もう19時になろうとしていた。急ぎ、リビングに置いたスマホを見に行くと、笛木からメッセージが入っており、場所の地図も送られてきていた。
(準備して、ギリギリか……)
家から一歩も出ていなかったこともあり、髪はボサボサ、ヒゲも伸びたまま。タクシーを呼び、到着するまでの間にシャワーを浴びて、準備を整えた。
-2-
「着きましたよ」
疲れていたのか、タクシーの中でうたた寝していると、運転手が言った。
「……? ここが?」
「ええ、もみじ苑です」
「どうも……」
料金を支払い、ゆっくりとタクシーを降りる。時間は二十時の五分前でちょうど良かったが、そんなことよりも、指定された店に、少し躊躇いを感じた。笛木は、自分は研究者だと言っていたが、目の前に広がる門構えは、一研究者がフリーライター一人を迎えるような場所ではない。高級料亭とは違うようだが、大衆に門を開いているような店ではない。
スマホを取り出して地図を見るも、場所に間違いはない。間違っていたらそれはそれで……そう思い直し、箕嶋は門を潜って中に入った。
「いらっしゃいませ」
和服姿の女性が、上品さをまとった声で言った。
「えっと、待ち合わせでして、笛木さんという方と……」
「はい、伺っております。箕嶋様ですか?」
「あ、ええ、そうです」
「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
道路に面した黒い門を潜ると、左右に白い砂利が敷き詰められた道が、まっすぐに伸びていた。しっかり手入れされた植物が、お客をもてなすように規則正しく並び、見えないが、ししおどしの音も聞こえる。やがて、横開きの扉が見えてきて、もみじ苑と書かれた藍色の暖簾(のれん)を潜ると、大聖堂を和風にしたような空間が広がっていた。
(仕事でも来たことがない雰囲気の店だな)
初めて都会に行ったときのような感覚を思い出す。
キョロキョロと観察したい衝動を抑えて歩いていると、仲居が立ち止まった。
「お連れ様が到着されました」
そういって、艶のある木の扉をゆっくりと開けた。
「どうぞ、お入りください」
仲居に促され、箕嶋は部屋に入った。
畳の匂いが鼻に触れる。
部屋の真ん中に黒いテーブルがあり、奥側に笛木が座っている。
「箕嶋さん」
笛木は嬉しそうに言うと、立ち上がって握手を求めた。
「ご足労いただきありがとうございます」
「いえ、こちらこそ、わざわざこんな……」
言いかけて、箕嶋は唇を仕舞った。
いつの間にか仲居はいなくなっており、扉も閉じられている。
「どうぞ、座ってください。料理と酒はすぐに運ばれてきますので」
笛木は右手で座布団を示した。
「失礼します」
スーツ姿で髪も整えた笛木からは、研究者という雰囲気は見えない。日焼けした肌と、ガッチリとした体型もあり、研究者というより実業家に見える。
「似合いませんか?」
箕嶋の思考を察したように、笛木は聞いた。
「え? いや、そういうわけでは……ただ、研究者と聞いていたので、雰囲気がちょっと違うなと思っただけで」
「よく言われます(笑)」
笛木は笑った。
「でも、運動は脳にもいいのですよ。研究者のような職業の人間こそ、運動を積極的にやったほうがいい」
「そういうものですか」
「ええ。研究でも示されてますし、私自身も実感してます。周囲に言っても、研究三昧であまり真剣には聞いてくれませんけどね」
「失礼します」
笛木が言い終わるのをまっていたように、扉の向こうから声がした。
料理と酒が運び込まれ、テーブルに丁寧に並べられていく。音がほとんどなく、食器に音がでない魔法でもかかっているような錯覚を覚えたが、並べ終わると、「ごゆっくりどうぞ」と言って、仲居は下がっていった。
「すみません、先にお酒の好みとか聞けば良かったですね」
笛木は、日本酒のお猪口を見ながら唇を噛んだ。
「大丈夫ですよ、酒は全般いけるので」
「あ、それは良かった! じゃあ、まずは一杯……」
お互いのお猪口に日本酒が注がれると、二人は右手に持って乾杯の仕草をした。お猪口は合わせず、そのまま口に運ぶ。
「うん、うまい。病院にいる間は飲めなかったので、格別です(笑)」
そう言って笑う笛木に、箕嶋は合わせるように笑ってみせたが、自分でもぎこちないのは分かっていた。頭の中ではさっきから、いったいなぜこんな店に呼び出したのか。退院したばかりなら、まずは家族と過ごすのではないかと、疑問ばかり浮かんでいる。
「あ、箕嶋さん」
「え? はい?」
「ここは私がすべてもつので、遠慮せずに飲んでくださいね。料理もまだ出ますので」
「あ、ええ、ありがとうございます……」
「ふふ」
「……?」
「なぜ呼び出されたのか、不思議に思ってますね?」
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