
異物【一気読み!】
※連載小説「異物」の一気読み。
第1話
-1-
いつもと同じ朝が、心の中に安心と退屈を混ぜ合わせ、新しい日が始まるという期待はすぐに、何も変わらない、人生はそんなもの、という結論を連れてくる。
明神尊(みょうじん たける)は、昨日を再生したような朝を過ごしていた。
いつもの時間に起きて、歯を磨き、出勤の準備をして、家を出る。駅までの15分ですれ違う人、横道から出てくる人は、顔を見ている頻度でいえば、友達よりも多いだろう。
駅に着き、ホームを見ても、電車に乗って周囲を見ても、同じようなものだ。知り合いではないが、顔は知っている。向こうも同じことを思っている可能性はあるし、
「いつもお会いしますよね」
などというふうに話しかけたら、相手の性格次第では乗ってきて、そこから自己紹介が始まって、などということもあるかもしれない。もちろん、たとえばの話で、明神は実際に行動に移すつもりはなかった。変な目で見られるか、相手が女性だったら、駅員を呼ばれて電車の遅延でも引き起こしてしまうかもしれない。
『もし声をかけていたら……』
頭の中に一瞬よぎった言葉はすぐに消えて、明神はいつもの場所から電車に乗った。だいたいいつもと同じ場所に立ち、バッグから文庫本を出して、しおりをポケットに入れる。この時間は、明神にとって、ささやかな幸せの時間だった。
今読んでいるのは、"動く写真"という小説で、写した覚えのない写真に自分が写っていて、それを確認したときから、自分の周りでもう一人の自分を見るようになる、というような内容だった。中盤に差し掛かり、話が盛り上がってきている。
「すみません」
乗車駅から3駅進んだところで、正面に座っていた男性が、降りるために席を立った。
明神は体をずらし、男性に道を作ると、入れ替わりで席に座った。
(ん?)
座ったタイミングで、ポケットに入れてあるスマホが振動した。
『おはよ~。
今日の夜だけど、たぶん私のほうが早く着くと思うから、駅前のカフェに入って待ってるね』
チャットの主は安西穂香(あんざい ほのか)で、中学のときから付き合いのある友人だった。高校も一緒で、その後は大学も会社も違うが、連絡は取り続けている。
『OK。会社出るあたりで連絡する』
左手に文庫本を持ったまま、右手で文章を打って返信すると、再びポケットに戻し、小説の世界に戻ったが、電車に揺られているうちに、眠気が襲ってきた。
今日は水曜日、土日休みの明神にとっては、一番やる気が落ち、眠くなる曜日でもある。以前ネットニュースで見た、ズル休みが一番多いのは水曜日だという記事に、明神は納得していた。自分だけではない、水曜日は誰でも……
そんなふうに考えているうちに、重くなったまぶたが光を遮り、かろうじて本を膝の上に置くと、夢の中へ沈んでいった。
「次は~ 安楽町~ 安楽町~」
車内アナウンスが響き、明神は目を開けた。家の最寄り駅から40分ほど、数秒前まで見ていた夢が頭に残っていて、状況を理解するのにパチパチと何度も瞬きして、降りる駅の一つ手前の駅だと気づいてホッとしたが、現実を認識すると、気分は下降し始めた。
「……」
文庫本をバッグに仕舞いながら、先程まで脳内で展開されていたストーリーを思い出す。
短い時間ではあったが、目覚めたくない夢だった。それを認識すると、少し気持ちは沈んだ。夢以外でも、何度も想像した映像に、少しアレンジが加わったような夢で、リアリティがあっただけに、目覚めたときの喪失感は大きい。
(今週はあと三日か……)
ため息のように心で呟くと、席を立ち、人の流れに乗って、いつもの駅で降りた。
「……?」
ホームに降りた明神は、一瞬足を止めて周囲を見回した。
いつもと同じ、いつもの駅。何も変わっていない、昨日も見た景色のはずだが、違和感がある。違和感の理由を説明しろと言われても、おそらくできない。違う駅で降りてしまったとか、案内板のデザインが変わっているとか、そういうものでもない。ただ、感覚が違った。まるで、初めて降りた駅のように、自分と駅との間に、距離を感じた。
(寝起きだからかな。それとも夢のせいか……)
答えは見つからなかったが、会社への道を歩いていくうちに、モヤモヤも少しずつ晴れていった。駅から10分ほど、少し曲がりくねった、通路のような道を抜けると、いつもと同じビルが見えてきた。10階建てのビルの5階。そこに、明神が勤める会社が入っている。
入り口に近づくと、水曜日の警備員が見えた。松永という、おそらく50代前半ぐらいの男性で、水曜の朝はいつも松永が、入り口のゲートの前にいる。
「おはようございます」
挨拶して、ゲートに社員証をかざすと、ブーっというエラー音が鳴った。
「あれ?」
手に持った社員証を確認する。間違えてスマホをかざしているわけではない。かざし方が悪かったのかと思い、もう一度やってみたが、結果は変わらなかった。
「え、なんで……」
社員証を顔の近くまで持ってきて、裏表確認してみても、おかしなところはない。やがて、背後からプレッシャーを感じて振り返ると、渋滞ができ始めていた。
「あ、すみません……」
反射的に列から外れて、もう一度社員証を確認する。しかし何度見ても、どこから見ても、おかしなところはない。写真の顔も自分で、折れたり割れたりもしていない。
「なんでダメなんだ……? 使用期限とかないはずだし……」
「どうしました?」
一人でブツブツ言っていると、水曜日の警備員、松永が声をかけてきた。
「いやぁ、なんで通らないのかなと思って」
明神が言うと、松永は、
「なにか違うものをかざしてるんじゃないですか? 定期券とか」
訝しげに言った。
「そんなことないですよ。
ほら、これです。昨日と同じ社員証。それに、俺を見たことありますよね? 松永さん。何度も挨拶してますし」
「いや、初めてお会いしましたけど……」
「え? いやいや、変な冗談やめてくださいよ。ただでさえ混乱してるのに……」
「いえ、冗談ではなく、本当です。
失礼ですが、そちらの社員証、見せていただいてもいいですか?」
松永は、不審者でも見るような目を向けている。明神はしかたなく、社員証を手渡した。
「……」
松永は、食い入るように社員証を見て、貼られている写真と明神を見比べているが、眉間のシワは深くなり、首を傾げている。やがて、他の警備員のところに行き、何やら話してから、明神のところに歩いてきた。
「これ、どこの社員証ですか?」
「どこのって、ここのビルのですよ」
「テクノコムって書いてありますけど、テクノコムさんの社員証はこういうのです」
松永は、ポケットから出した、社員証のサンプルらしいものを明神に見せた。そこには、確かにテクノコムと書いてあるが、自分が持っている社員証とはデザインがまったく違う。見間違えようがないほど別物といっていい。
「いや、ちょっとまってください、そんなわけ……」
「どういうつもりか知りませんけど、部外者であればビルには入れません。テクノコムさんと約束でもあるなら、
防災センターで受付してもらわないと困ります」
言いながら、松永は警戒の色を強めており、離れたところにいる警備員も何人か、明神のほうに視線を向けている。
「今から会社に電話します。上司はもう出勤してるはずなので、電話で説明してもらいますよ。俺がテクノコムの社員だって」
「どうぞ」
やれるものならやってみろと言わんばかりの松永の表情に、明神は言い返したい気持ちを押さえて、スマホを耳に当てた。
「はい、テクノコムです」
電話の向こうで、女性が言った。
「おはようございます、明神です。勝田部長、もう来てますよね?」
「明神様……ですか? 失礼ですが、どういったご用件でしょうか?」
「いや、俺ですよ、社員の明神です。部長いますよね? 代わってください」
「確認したします。少々お待ち下さい」
30秒ほど保留音が流れた後、再び繋がった。
「勝田ですが……」
「部長? 俺です、明神です。おはようございます」
「失礼ですが、どちらの明神様ですか?」
「どちらのって……何言ってるんですか! 俺ですよ、部下の明神です。今、下のゲートにいるんですけど、入れなくて……」
「失礼だが、私の部下に明神という人はいません。他部署でも聞いたことがない名前です。何かの間違いではないですか?」
「え、ちょっと、そんなわけないでしょ!? 昨日だって話ししたじゃないですか!」
「いえ、話してません。人違いでしょう。
申し訳ないが、切りますよ」
希望を断ち切られた音が、耳に響く。
明神は、全身の力が抜けたように、スマホを持った手を下ろすと、次の行動が見つからずに、床を見たまま立ち尽くした。
「確認は取れましたか?」
「……」
「もし? 確認は取れたんですか?」
「え……? あ、いや……」
「ん? なんです?」
「……明神なんて社員はいないって……でもそんなことありえない、俺は確かに……」
「落ち着いてください」
「落ち着いてなんていられるかよ!!!!」
天井にまで届きそうな声に、周りの人間の視線が、すべて明神に集中した。
「いったんここを出て、少し冷静に……」
「俺に触るな!!」
松永が伸ばした手を振り払うと、明神は叫んだ。
周囲からの視線、ひそひそ声、怯え、いくつもの感情が絡み合って、明神に向けられている。
「なんなんだよ……俺が何したっていうんだ、なんでこんな……」
握りしめた拳のせいか、体は震えている。怒りなのか不安なのか、自分の感情すらはっきりしない。昨日までいた会社から、自分の存在が消えている。警備員も知らない、世界から自分の存在だけ抜け落ちたような……
考えていると、松永が左肩に手を置いた。
「これ以上騒ぐなら、警察を呼びます。すぐに出て行ってください」
有無を言わせない目と、背後で身構えている警備員を見て、明神は、喉まで出かかった言葉を飲み込み、ビルの外に出た。
-2-
(相変わらず淡白な返事ね。まあ、尊らしいけど)
安西穂香は、会社のリラックスルームでスマホを見ながら、「クスッ」とした。
仕事の開始時間まで、まだ30分ほどある。穂香は、朝の静かな部屋で、のんびりコーヒーを飲みながら外を眺めるのが好きだった。ビルの三階から見える景色は、それほど眺めがいいとは言えないが、会社からほど近い、庭園のような公園が見えて、晴れの日と雨の日で違う表情を見せてくれる。
「おはよう、穂香」
今日の夜に行くことになっている店のメニューを見ていると、同僚の神崎涼子(かんざき りょうこ)が声をかけてきた。
「おはよう、涼子」
「ほほう」
穂香の隣の椅子に座るなり、涼子は服装を確かめるように視線を動かした。
「ん? なに?」
「今日はデートだね」
「デートじゃないよ。友達とご飯に行くだけ」
「でも男?」
「幼馴染みたいな相手だよ」
「明神くん、だっけ」
「そう。だからデートってわけじゃ……なに? なんか嬉しそうだね、涼子」
「私より、穂香のほうが嬉しそうだよ?(笑)」
「そうかな(笑)
確かに楽しみではあるよ。今日行く店は、最近できた中華屋さんで、口コミサイトでも評判いいし、メニュー見てるとお腹が鳴りそう(笑)」
スマホの画面を見せると、涼子は乗り出すように見た。
「ほんと、おいしそうだね。評判通りだったら、私も今後連れてってよ」
「うん、もちろん。
ただ、私の家の近くだから、涼子の家からちょっと遠いけど……」
「休みの日でも、休みの前でも、そこはなんとかなるでしょ」
涼子が笑うと、穂香も笑顔を返した。
「じゃあ、また後でね」
涼子が出ていくと、穂香はスマホをポケットに入れて、視線を外に移した。
空は、青々としている。
天気予報では、午後から崩れると言っていたが、機嫌が直ったのではないかと思うほど、雲ひとつない。
(このまま降らないでね)
心の中で呟くと、穂香はリラックスルームを出た。
第2話
-1-
明神は、胃のあたりに重りを抱えたまま、足を引きずるような速度で、駅の方に歩いていた。
(なんで社員証が替わってる? なんで部長は俺を知らないんだ? ビルも合ってるし……)
立ち止まって、会社が入っているビルのほうを振り返った。何度見ても、間違いはない。自分が働いている会社のビルで、駅からのルートもいつもどおり、おかしなところはない。水曜日の警備員、松永の顔も同じだし、部長もいた。違うのは……
「あ、そうだ……」
明神はスマホをポケットから出すと、友達に電話をかけた。
『はい、もしもし』
「健吾か? 俺だよ、尊。明神尊」
『明神尊? 誰?』
「誰って……冗談はよせって。今そういうの笑える状況じゃないんだ。こないだ会ったろ? 四日前に……」
『四日前は他の人と過ごしてたよ、昼も夜も。明神なんて友達は俺にはいないし、人違いじゃないかな? 切りますよ』
「いや、ちょっとまってくれ、話を……」
不通音が鳴り、スマホを叩きつけたくなったが、今度は電話帳を開いて、実家に電話をかけた。
『はぁい、どちらさま?』
「母さん? 俺だよ、尊」
『尊? ……尊って誰だい?』
「誰って……息子だよ、母さんの息子、分かるでしょ?」
『……ああ、分かった、あんたあれだね、オレオレ詐欺。
残念だったね、家には息子はいないよ。どうせやるなら、娘にするんだったね』
「息子はいないって……冗談はやめてくれ! ここにいるじゃないか!!」
『あんたがどこの誰だか知らないけど、そんなことやってないで、真面目に働きな。オレオレ詐欺をやってるなんて、ご両親が知ったら、きっと悲しむよ?
警察には言わないであげるから、そんなこと止めて、一生懸命働いて、人様の役に立つようになりな。今からでも遅くないから。ね?』
「母さん……」
『母さんと呼びたいなら、そう呼んでいいよ、今だけね。
よく考えて、自分の道を決めなさい。何をやろうと自由だけど、オレオレ詐欺なんて、そんなことは止めな。まっとうに生きるんだよ』
「……」
明神は言葉が出ず、そのまま電話を切った。
友達も、家族さえ、自分のことを知らない……全員が示し合わせて、知らないフリをしているなんてことはありえないし、そんなことをする意味もない。なのに、これは夢ではなく現実で、誰も自分のことを知らない。その事実をどう解釈すればいいいか分からず、他の可能性を探してスマホを見ていると、今朝やり取りした穂香の名前が飛び込んできた。
『おかけになった電話番号は、現在使われておりません』
無機質な声が耳に入ってきて、明神はすぐに電話を切った。
ありえない。今朝やり取りしたばかりだし、穂香に限って料金の滞納もない。しかし現実は、穂香の存在すら否定しているように思えた。念のためチャットを送ったものの、期待はできない。今までの状況を考えると……
その場に立っているのが辛くなり、明神は近くのカフェに入った。建物や店の場所は変わっていない。でもたぶん、店員は顔を知らない……
暖かいコーヒーを注文して、窓際の席に座る。お金は普通に使うことができたことに安心感を覚えている自分が、ひどく滑稽に思えた。
「……」
コーヒーを一口飲む。
見た目も、香りも味も、自分が知っているコーヒー。店内の様子も、席の配置も、自分が知っているもの。世界がおかしいのではなく、自分がおかしいのかと思えてくる。
(カフェの客も普通……普通の人間だ、何もおかしなところは……)
まるで地球そっくりな別の星にでもきてしまったような考えに、思わず苦笑した。仮に地球を完全にコピーした星があったとして、そのときに自分だけが作り忘れられてしまったという、奇妙なことでもなければ、周囲にいるのが地球人に化けた宇宙人とか、クローンだとかということはありえない。そういえば、そんな小説があったような……
(どうせ会社にもいけないんだし、状況を整理してみるか)
おかしな方向に想像を広げた結果、気持ちが落ち着いてきて、明神はバッグからメモ帳とペンを取り出すと、テーブルに置いた。
(理由は今のところ分からない。でも何かおかしなことが起きてるのは確かだ。会社、友達、家族……誰にも俺の存在が認知されてない。それってどういうことなんだ? まさか夢? 座って、本を読んで、途中で寝てしまったのは覚えている。降りる駅の前で目が覚めたはずだけど、もしかして今も寝てるのか?)
状況と思いついたことをノートに書き出し、じっと眺めて、コーヒーを挟みながら答えを探したが、脳は質問には答えず、さっきから同じような思考を繰り返している。
(分かるわけないか……)
ふと時計を見ると、いつの間にか11時近くになっていた。少し空腹感が出てきて、明神は席を立つと、飲みかけのコーヒーを胃袋に流し込んでから、店を出た。
朝のひと仕事を終えた電車は空いており、席を選んで座ると、窓の外の景色や、家までの駅の名前を確認した。どれも自分の知っている駅で、順番も間違っていない。やがて自宅の最寄り駅に着くと、自宅へと足を早めた。
何度も見ている風景は、故郷に帰ってきたような感覚がする。
(家に帰ったら、バッグ置いて着替えて、飯でも買いに行こう。ひとまず腹を満たして……)
立ち止まった明神は、キョロキョロと首を動かした。考え事をしながら歩いてきて、道を間違えたのかのかと思ったが、他の建物はすべて、自分の記憶の中にある風景と一致している。違うのは、自宅のマンションがないこと……
消えかけた胃の重りが、再び重力を強める。
明神が今朝出てきたはずのマンションはなく、代わりに雑居ビルが建っている。三階建てで住居はなく、いつくかの会社と、一階には薬局が入っている。
スマホで住所を確認しても、地図は自分が立っている場所を指している。目の前の現実だけを見るなら、数時間前までマンションだったところが雑居ビルになり、入居者までいるということになるが、模型を入れ替えるように現実の建物を入れ替えることはできないのは、考えるまでもなかった。
「いや、ちょっとまてよ、これって……」
内ポケットに入れた財布を取り出して、中身を確認する。幸い、昨日銀行から現金を下ろしたばかりで、電子マネーのチャージも十分にある。家がない以上、ひとまずどこかで外泊するしかないが、そんなホテル暮らしのような生活が何日もできるほどのお金は持ち合わせていない。
(あといくらあるんだっけ……一応残高確認しておかないと……)
歩いて10分ほどのところにあるコンビニに行き、銀行のATMの前に立った明神は、その場に倒れそうになって、先程までぼやけていた恐怖が、ハッキリと体を包むのを感じた。持っている銀行のカードは取り扱いできないという、突き放すようなアナウンスと表示。銀行に直接行けばいいかもしれないが、通帳や印鑑は自宅にあり、クレジットカードを使うことができるのかどうかも怪しい。銀行にいけたとしても……
「なんなんだよ、なんでこんな……」
何度同じ言葉を呟いたか分からない。自分のボキャブラリーのなさを笑う余裕もなく、理解できない状況を理解しようと、脳内にはいくつもの考えが駆け巡っているが、どれ一つとして答えにたどり着かずに、目標を見失った誘導ミサイルのようにフラフラと彷徨っている。
「警察に行こう……」
仕事も家も、友達も家族もいないこの世界で、他に頼れそうな場所は思いつかなかった。警察に行ったところで、怪しい人間だと思われて、相手にされないかもしれない。もしかしたら逮捕、でもそうなれば食事と寝る場所は……明神は、その場に座り込みたい気持ちを押さえて、警察署に向かった。
-2-
(出ない……チャットもないし、どうなってるの)
20時過ぎ。
穂香は、夕食を食べるはずだった中華屋の近くにあるカフェで、ため息をついた。明神から連絡はなく、電話してもチャットをしても、まったく反応がない。遅くなるなら、そうと連絡をしてくるし、なんの連絡もせずに約束をすっぽかすような人間でもない。
(残業かな。でもそれならそれで連絡くれるはずだし……)
テーブルの上に三分の一ほど残ったコーヒーは、すっかり冷めている。栞を挟んだ本は、まだ半分ほど残っているが、再び開く気になれず、なんとなくスマホをいじりながら、さらに一時間ほど待ってみたが、明神からの連絡はなかった。
食欲も、胃に何かが詰まったような、張っているような感覚に置き換わり、小さなコップに注いだ水を流し込むと、カフェを出た。
(何かあったのかな……)
最初は、連絡もないことに怒りを覚えたが、今は黒くて重い空気が全身にまとわりついている。
(急な残業でも入った? でも連絡してこないのは酷いよね。明日連絡きたら……)
明日……ポケットからスマホを取り出し、確認したが、電話もチャットもなかった。明日になれば連絡が取れると思っていたが、心臓がズキっとして、顔が下を向いた。
家に着き、シャワーを浴びて髪を乾かし、もう一度スマホを見たが、数時間前となにも変わっていない。なんとなく、今朝から過去のやり取りを眺めたが、何かが変わるわけでもない。もし……他の女性と一緒だったとしても、約束をすっぽかしたことはともかく、そういう相手がいることに文句をいう立場でもない。
翌朝になっても、スマホは沈黙を守ったままだった。
ベッドに入ったまま、もう一度チャットを送ろうとしたが思いとどまり、いつも通り準備をすると、家を出て会社に向かった。
-3-
明神は、警察署に向かって歩く途中で、交番を見つけて、横開きのドアを開けて中に入った。パトロール中なのか、奥に入ってしまっているのか、警官の姿は見当たらない。灰色の机と、座り心地の悪そうな灰色の椅子は、どこか懐かしさを感じさせるものがあり、机を挟んで向かい側、明神が立っている側に置かれたパイプ椅子は、革の部分が少し破けている。
「すみませ~ん……」
「はい、少々お待ち下さい」
遠慮がちに呼ぶと、奥から声がした。
やがて、制服姿の警官が出てきた。丸い縁無しのメガネをかけており、身長はそれほど高くないが、かなりガッチリとした体をしているのが分かる。おそらく自分より年上、30代半ばぐらいではないかと、明神は思った。
「どうされましたか?」
警官のイメージとは遠い、穏やかな声で言った。
「あの、ちょっと説明しづらいんですが、困ったことになってて、助けてほしいんです……」
「困ったこと、なるほど。まあ、お座りください」
警官は、明神にパイプ椅子に座るように促して、自分も灰色の椅子に座った。
「私は鰐口と言います。どんなことにお困りなんですか?」
「信じてもらえるかどうか……」
いざ話そうとすると、言葉に詰まった。電車で寝て起きたら、誰も自分を知らない世界になっていたなんて、誰が真面目に聞くだろう。
「話してみなければ分かりませんよ」
そんな明神の迷いを感じ取ったのか、鰐口は穏やかに、微笑みながら言った。
「そう、ですよね……実は今朝……」
明神は、電車に乗ってから今までの出来事を、順を追って説明した。鰐口は、途中で言葉を差し挟むことなく、時折頷き、相槌を打ちながら聴き、話が終わると、明神から視線を逸らして、何やら考えるように黙り込んだ。
「あの……」
「不思議な話ですね。昨日までいつも通りだったのに、今日になったら突然、友達にも親にも認識されなくなった……そんなことあるんだろうか……」
鰐口は、独り言のように呟き、次の言葉を探しているように、再び黙った。
「信じてもらえないのは承知の上です。俺もおかしいと思ってるし、何が起こってるのか、理解できません。でも本当に……」
「ああ、ごめんなさい。
疑ってるわけじゃないんです。
話を聴きながら、あなたのことをずっと観察してましたが、嘘をついているように見えませんでした。実際に、今日あったことを話しているように見えたので。それに、そんな嘘を話すために、わざわざ警察に来るとは思えませんしね。
確かに理解し難い話ではありますし、私もどう言えばいいのか分かりませんが……」
「ありがとうございます……」
「え? 何かお礼を言われるようなこと言いましたっけ……?」
「自分でもよく分からなくて、信じられなくて、おかしくなったんじゃないかって思ったりして……だから、信じてもらえてるって思ったら、嬉しくて……」
「もし、おかしくなったのだったら、秩序立てて話をすることはできませんよ。妄想型の殺人犯などの場合、いくら動機を聞いても要領を得ませんし、感情だけで話をする人も、内容が成立していないことはよくありますが、あなたの話は筋が通っていました。確かに事象だけを見ると理解できないことですが、そんなことあるわけないと否定しまうのは、常識の外の出来事だからでしょう。でも事実としてそうなのであれば、何か原因があるはずなんですよ」
「確かに、そうですね……」
明神は、緊張で固まった心が、少しだけ暖かい湯船に浸かったように、ホッとした。
もし自分が、他人から同じような話を聞いたら、彼のように冷静に聞けるだろうか。「おかしい」の一言で済ませてしまうのではないか……そう思うと、少し恥ずかしいような気持ちになった。
「そうだ、免許証をお持ちですか? 免許の番号から、何か分かるかもしれません。登録があるはずですからね」
「あ、なるほど……待ってください、今出します」
明神はバッグから財布を出すと、免許証を取って鰐口に差し出した。
「え……?」
ほとんど同時に、二人は反応した。明神は、心臓がドクンとして、手が震えだしたが、抑えることができなかった。
「顔が、消えかかってる……」
声が震えた。
免許証に貼られている顔写真が、左上から少し、擦れたように消えていて、右目の斜め上あたりまで真っ白になっている。さらに視線を上に移すと、免許証そのものが、最初からそういう形だったと言われても違和感がないほど、左上が、ハサミで切ってヤスリで形を整えたように丸みを帯びている。
「どうして……」
「もしかして、いわゆるパラレルワールドというやつですかね……」
鰐口は、免許証を凝視しながら言った。
「パラレルワールドって、小説の題材になったりする、別次元の世界のこと、ですか……?」
「そうです、平行世界とも言います。
自分が住んでいた世界と、少し違う世界。似ているけど、少しずつ何かが違っている。自分の世界では死んでいる人間が生きていたり、もう一人の自分がいたり……」
「けどそれ、物語の中の話ですよね、そんなこと実際にあるわけが……」
「ええ、確かに信じられません。でもあなたの話を聴いて、免許証を見たら、ふと思ったんです」
鰐口は、適当にそんなことを言っているわけではない。その顔は真剣そのもので、少しも笑っていない。だが、そんなことありえるだろうか。仮にここがパラレルワールドだとして、何がキッカケで、どこから、どうやって来てしまったのか、見当もつかなかった。
「もし……もし本当にここがパラレルワールドだとしたら、俺は消えてしまうってことですかね、だから免許が……」
「明神さん」
焦点の合わない目でブツブツと言っていると、鰐口が名前を呼んだ。
「……」
顔を上げると、鰐口は明神の目をじっと見て、
「今、きっと不安でしょう。予想することはできますけど、私には分からない不安と恐怖の中に、今のあなたはいると思います。ですが、震えていても問題は解決しません。問題を解決するには、いつだって問題と向き合うしかないんです。それがどんなに……苦しい現実でも」
そう言って、鰐口は一瞬、机に乗せた右手に力を込めた。
「分かっています……けど、どうすればいいのか……」
「私は、あと一時間ほどで勤務が終わります。終わったら、私の家に来てください。泊まるところもないでしょうし、ひとまず気持ちを落ち着けて話せば、何か見えてくるかもしれません」
「ありがたいですけど、本当にいいんですか? 今日会ったばかりで、素性もよく分からないのに……」
「ふふ、確かに素性はまだ不明ですが、あなたはおかしなことをする人ではないでしょう。違いますか?」
「え? それは、もちろん……」
「大丈夫ですよ。
ただ、子供が二人いるので、ちょっと騒がしいですが、暗い気持ちにならずに済むと思いますし」
「すみません、ありがとう、ございます……」
明神は、机に頭がつくほど頭を下げた。
「では、唯町(ただまち)駅前のテリーズ・カフェで待っててもらえますか? 仕事が終わり次第、向かいますので」
「分かりました。
よろしくお願いします」
明神は、立ち上がるともう一度頭を下げて、交番を出て唯町駅に向かった。気持ちは、少し落ち着いたように思える。深刻な状況は何一つ変わっていないし、免許証のことを思い出すと、肩が閉じていく。それでも、味方になってくれる人がいると思うと、曇り空の隙間から光が差したような気がした。
唯町駅前のテリーズ・カフェは、駅ビルの一階に入っており、おそらくは50席以上はある、天井が高い作りだった。席も密集しているわけではなく、ゆとりがあり、自分の世界でもそうであるように、ノートパソコンで何やら作業をしている人、本を読んでいる人、勉強している人、友達と歓談している人……それぞれが思い思いに過ごしている。
ふと、店内を見ながら、自分が住んでる世界と変わらないなと思ったことに、妙な気持ちを覚えた。鰐口と話した影響もあるだろうが、自分はすでに、ここが別の次元の世界だと認識しているのかもしれない。
(落ち着こう、もう一度、状況整理だ……)
今日二回目のコーヒーを頼み、空いている二人がけのテーブルに座ると、ノートとペンを取り出して、朝からのことを箇条書きで書き出した。
(最初に違和感を覚えたのは、駅を降りたとき。何がおかしかったのか、具体的には分からないけど、いつもと違うと感じた。次は会社。社員証は違ってたし、警備員も部長も、俺のことを知らなかった。次に友達と家族。どちらも俺のことを知らなくて、穂香にも連絡がつかない。次が家。住んでいたマンションはなくて、代わりに雑居ビルが建ってた。銀行のカードも使えない……)
自分だけが読める字で、今日これまでのことを箇条書きにして、財布を取り出す。かすかに、手が震える。そっと免許証を出して、テーブルに置くと、さっき見たのと同じように、左上がなかった。もしこれが、徐々に消えていってるのだとしたら、免許証が完全に消えたとき、自分はどうなるのだろうか。
(死ぬ……のか? 死ぬというか、消えてしまう? それってどんな感じなんだろう……ここが別次元の世界だとすると、元々俺がいた世界では、俺はどうなるんだ? 行方不明になって、忘れられていくのか……?)
コーヒーカップを持つ手が震える。
明神は、免許証を財布に仕舞うと、手が落ち着くのを待って、コーヒーを一口、二口と飲んだ。
(電車を降りたとき……最初はここだ)
視線と意識を、半分無理やりノートに移す。
(家を出たときも、電車に乗ったときも、乗ってるときも、いつもと変わらなかった。本を読んでて、眠くなって寝て、起きたときは特に何もなかったけど、何かあったとしたら寝てるとき……けど、何かあったってなんだ? 寝てる間に別の世界に来たとして、同じ電車に乗ってた人たちはどうなったんだ? 俺だけがここに……?)
「お待たせしました」
「……!」
暗い海に沈んでいくところを、強い力で水面に引っ張り上げられたように、明神は顔を上げた。向かい側の席の横に鰐口が立っていて、明神は慌てて、椅子の上に置いた荷物を自分のほうに移動させた。
「その様子だと、まだ解決策につながるようなものは見つかっていないようですね」
向かい側の席に座りながら、鰐口は言った。
「朝からのことを、もう一度書き出してみたんですけど、やっぱりわけが分かりません……」
明神は、ノートを見ながら言った。
「最初に違和感を覚えたのは、電車を降りたときなんです。けど、具体的に何がおかしいかは分からなくて、ただなんか、いつもと違うみたいな……もし、別次元の世界に来てしまったというのが本当だとしたら、いつもの朝と違和感との間にあるのは、電車の中で寝てしまったことだけです」
「寝ている間に、何かあったと?」
「夢を見ましたけど、前にも見たことがあるようなもので、これといって……もし寝てる間に何かあったとして、だったら俺だけがここに来てしまったのはおかしい気もしますし。あ、いや、もしかしたら同じ電車に乗ってた人たちも、ここの世界のどこかにいたりするのかもしれませんけど……」
明神は、自分でも何を言っているのか分からなくなってきていた。考えるほど、複雑な迷路の奥に入っていってしまうように感じて、視界が暗くなってくる。道を照らすための光はなく、そのうち、自分がどこにいるのかも分からなくなる……そんな気がした。
「電車の中で寝て、起きたらパラレルワールドにいた……それだけ聞くと、信じられるような話ではないですね。でも現実として、そう考えるしかないようなことが起こっている……」
鰐口は、そこまで話すと言葉を止めて、少し口元を緩めた。
「今ここで、深刻な顔をして話し合っても、たぶん答えは出ないでしょう」
そう言って、立ち上がった。
「家に行きましょう。
夕食を食べて、リラックスして、それからネットで調べてみるのはどうですか?」
「ネットで?」
「明神さんに起こっている不可解な状況が、明神さん自身が意図的にというか、何かしたことによって生じたことでないなら、少数でも、同じようなことを体験した人がいるかもしれません。それを調べれば、何か分かるかもしれないので」
「なるほど、確かに……」
明神は頷いた。
理解を越えた状況に、なぜこうなったのか、何が起こっているのか、ということにばかり思考が向いていたが、一人で考えたところで答えが見つかる可能性は低い。
「行きましょうか」
鰐口が言うと、明神は残ったコーヒーを飲み干して、立ち上がった。
鰐口の家は、カフェのある駅から電車で20分、自宅最寄り駅から徒歩で10分ほどのところにある、古い10階建てマンションの506号室だった。
「どうぞ」
鍵を開けると、鰐口は中へ入るよう促した。
「お邪魔します……」
足元に置かれたスリッパに足を通し、中へと進む。
10畳ほどのリビングと、連なったダイニングキッチン。部屋は三部屋あるらしく、リビングには子供のものと思しき玩具がいくつか転がっていて、テレビ台の下にはゲーム機が見える。
「こっちです」
微かにお線香のニオイがする部屋の前を通り過ぎ、隣にある部屋のドアを開けた。
「ちょっと物置みたいになってるんですけど、後で片付けますので」
鰐口は、照れたように言った。
「そんな、お構いなく。本当にすみません……」
「いいんですよ。私の好きでやってることですから。
今のままでも、横になれるスペースはあるので、少し休んでいてもらってもいいですよ。荷物だけここに置いて、リビングのソファでもいいですし」
「ありがとうございます……」
「私は子供たちを保育園に迎えに行ってきます。近くなのですぐに戻りますので、気にせずにくつろいでいてください」
「え? あ、はい……」
戸惑っている明神をよそに、鰐口は隣の部屋に入ってバッグを置くと、服装はそのままで外に出ていった。明神は、突然一人になって、どうすればいいか分からずに、案内された部屋に座って、黙っていた。
畳の匂いがする部屋は、何年ぶりだろう。実家に和室があったが、それ以来か、もう少し前だと、祖母の家に行ったときに……そんなことを考えながら、半分無意識に部屋の中を見回す。
ダンボールや、使わなくなった玩具を詰め込んだ箱、ギターケースなどが、部屋の端に集まって小さな集落を作っており、その中の一画、小さな棚には、犯罪心理学、凶悪犯の心理、世界を震撼させた殺人者たち、などのタイトルの本が、詰め込むように入っている。
(やっぱり警察官はこういう本を読むのかな。ちょっと興味あるけど、さすがに勝手に読むわけにもいかないし……)
一瞬、自分が置かれている現実から離れて、本屋にいるような感覚になったが、すぐに深刻さに引き戻された。
(調べてみよう……)
「ただいま~」
スマホを取り出したとき、玄関のほうから鰐口の声がした。続けて、子供の声で「ただいま」と聞こえた後、バタバタと走ってくる音がして、途端、家の中から沈黙が消えた。
「……」
恐る恐るドアを開けて様子を見ると、男の子と女の子がリビングを駆け回っていて、鰐口は隣の部屋に入って、部屋着らしいものに着替えて出てきた。
「明神さん」
「……!」
名前を呼ばれて、明神は飛び上がるように立ち上がり、ドアを開けた。
「どうも……」
子供たちが足を止め、ジーっと明神に視線を集めている。
「パパ、この人だれ?」
男の子が言った。
「だれ~」
習うように、女の子も言う。
「さっき話しただろ? パパのお友達の明神さんだよ。ちょっと事情があってね、しばらく家にいることになった。二人とも、仲良くしてね」
鰐口は膝を落として、二人の頭を撫でると、二人は鰐口と明神に視線を行ったり来たりさせてから、「うん!」と頷いた。
「こんにちは。突然ごめんね」
明神も膝を落として、少しぎこちなく言った。子供たちは目をパチパチさせてから、
「こ、こんにちは」
「こんにちは~」
と、鰐口に体を寄せながら言った。
「男の子のほうは悠人(ゆうと)、女の子のほうは奈美(なみ)です」
鰐口が言った。
「悠人くん、奈美ちゃん、よろしくね。少しの間、お世話になります」
明神が言うと、二人は頷いた。
「パパのお友達なんでしょ? ならいいよ」
「いいよ~」
「ありがとう」
「よし、じゃあ挨拶も済んだし、夕飯を作ろうか」
鰐口が立ち上がると、悠人と奈美が手を上げた。
「手伝う!」
「私も!」
「ありがとう、悠人、奈美。
明神さん、少し休んでいてください。疲れてるでしょう? 夕飯ができたら呼びますから」
「何から何まで、すみません、ありがとうございます……」
明神は頭を下げて、悠人と奈美に軽く手を振ると、案内された部屋に戻り、物が置かれていないほうの壁に背中をつけて、ゆっくりと息を吐いた。
(いつまでもここにいるわけにはいかないし、答えを見つけないとな……)
スマホを取り出して、検索しようと右手を動かしたが、緊張から解放されたせいか、まぶたが重くなり、スマホはコトっと、畳の上に落ちた。
第3話
-1-
明神と連絡が取れなくなってから、三日が過ぎて、穂香の頭の中は、心配の数が大幅に増加していた。最初は、突然連絡が取れなくなったことや、約束をすっぽかされたことに対する苛立ちもあったが、今はそれもない。
「……」
気づくと、スマホをチェックしている。一日に何度も、明神とのチャットを確認して、既読になっていない事実を見て落ち込む。
職場のリラックスルームでは、他の社員たちが昼食を取ったり、ときに大きな声を出しながら、笑い合ったり、愚痴を言い合ったりしている。穂香は、自分だけが別の場所にいて、ガラスの向こう側に別の世界の景色を見ているような感覚になっていた。
「穂香」
名前を呼ばれて顔を上げると、同じ課の園崎舞優(そのざき まゆ)が、片手にコーヒーの紙カップを持って立っているのが見えた。
「……舞優」
「まだ彼氏とは連絡取れないの?」
向かい側に座りながら、舞優は言った。
「だから、彼氏じゃないって」
少し笑いながら答える。
「幼馴染みたいなものよ。中学から付き合いあるから、10年以上だね。お互いの両親も知ってるし」
「仲良しってことでしょ?」
「それはそうだけど……」
「そんな仲良しの穂香に、一言も言わずにいなくなっちゃうなんて、やっぱり変だよ」
「うん……」
「彼の両親を知ってるなら、連絡してみた?」
「うん。尊の両親にも、共通の友達にも連絡したけど、分からないって……連絡つかないみたいで。家にも行ってみたんだけど、郵便物が溜まってて、帰ってないみたいだし。尊の会社から、お母さんに連絡があって、来てないんだけど何か知ってるかってことだったらしいんだけど、誰も分からないんだよね……」
「最後に連絡取れたのは?」
「三日前の朝。夜、ご飯に行く約束してて、その件でチャットして」
「夜には連絡がつかなくなってた?」
「うん……」
「それじゃあ、会社に行くまでの間に何かあったってことになるよね」
「何かって……」
穂香が表情を曇らせると、舞優は首を横に振った。
「不安にさせてごめん……でもね、三日間連絡がつかなくて、友達も家族も彼がどこにいったか分からない、会社にも行ってない。それって、何かあったってことでしょ?」
「それは、そうだけど……」
穂香は、テーブルの上で両手を強く握った。
何かあった……言われるまでもなく、そうに決まっている。だが、何があったのかを深く考えることを、穂香は無意識に拒んでいた。今日こそ連絡はくる……そう信じたかった。
「それっぽいニュースは見てないけどね。何か事件があったとか。それに……」
「……?」
「大人の男の人が急にいなくなるって、たとえば怖い人たちと付き合いがあって揉めたとか、そうでなければ、人に言えない悩みがあって、自分の意志でどこかに行ったとか、そういう理由じゃないと行方不明には……」
「尊はそんなヤツじゃないよ」
穂香は、きっぱりと言った。
「特に目立つような人じゃないし、何か大きな目標があるとか、そういうんでもないけど、本が好きで、本読んでるだけで幸せみたいな感じだし、仕事も普通にこなしてるし、前に会ったときも、やり取りしてるときも、変な雰囲気はなかったし。それに……」
もし舞優が言ったようなことが理由なら、私に相談してくる……言いかけて、言葉を閉じた。
「とにかく、いきなりいなくなるような人じゃない」
語尾を弱めながら言った。
「そうなんだろうね、穂香が言うなら」
舞優は、真剣な顔で続けた。
「でもだとしたら、どこに行っちゃったの?」
「それは……」
「警察には?」
「え? ううん、言ってない。捜索願みたいなやつ、出したほうがいいかな」
「うん、したほうがいいと思う。彼のご両親にも伝えて、捜索願出してみたら?」
「うん、そうだね……そうする」
「一人で悩まないで、相談してね。できることがあれば、力になるから」
「ありがとう、舞優。ごめんね、心配させて」
「いいの。友達でしょ?」
舞優と話して、不安が和らいだ気がした。相変わらず、胸の真ん中あたりには、黒っぽい、ブラックホールのようなものが、渦を巻くように陣取っているが、顔は少し前を向けられるようになった。
リラックスルームから戻る前に、穂香は明神の母親に電話して、捜索願を出すことを決めると、上司に事情を話して、その足で警察署に行って手続きをしてから、会社に戻って仕事を続けた。
夜。
当然と言うべきか、まだ警察から連絡はなかった。届け出をしているとき、それまで他人事のように思っていた出来事が、リアリティをもって迫ってきて、怖くなった。ニュースでは、殺人事件や傷害事件は珍しくないし、日本の年間の行方不明者は、8万人とも聞いたことがあった。
だが、自分の友達がその中の一人になるなど、想像することはない。どこか遠い世界の出来事だと思っていたことが、自分の身に降りかかると、自分にも無関係のことではなかったと、初めて思い知らされる。遭遇する確率は低くても、ゼロではないだと、打ちのめされた気がした。
「どこにいったの? 尊……」
部屋に一人、ベッドに背中をつけて膝を抱える。
(大人の男が行方不明になるって、なにか事件に巻き込まれたとか、そういう可能性が一番大きいのかな……でも朝、仕事に行くような時間にそんなことありそうにないし、行方不明って他にどんな理由があるんだろう)
膝を抱えたまま、右手にもったスマホを操作して、こんなことがなければ一生打ち込むことがなかっただろうキーワードを、ブラウザに打ち込んだ。
『行方不明 理由』
表示された検索結果の上位に、「神」という字が見えて、穂香はビクンとしたが、よく見ると、「神隠し」と書かれていて、少し上がった肩は、いつもの位置に戻った。気を取り直して見ていくと、事件に巻き込まれたと思われる行方不明者のリスト、そもそも行方不明の定義とはなんなのか、未解決事件の一覧など、様々な結果が表示されたが、穂香が望むような結果はなかった。
「これ……」
検索結果の1ページ目には、これといったものはなかったが、2ページ目の上部に、気になる見出しがあった。
『行方不明者発見。発見まで約一年。パラレルワールドに行っていたと主張』
記事には、何の前触れもなく行方不明になった16歳の少年、N・Yさんが、一年ぶりに家に帰宅、どこに行っていたのか、何があったのかという質問に対し、N・Yさんは、パラレルワールドに行っていたと答えた、という内容だった。
「思い出した……」
今から二年ほど前、テレビのニュースでも流れて、ネットの記事でも出ていた、そこそこ騒がれた事件だった。本人の主張があまりにも突飛で、一瞬話題になったが、根拠を示すこともできなかったため、一週間もすると表からは消えて、一部のマニアックな人たちの間だけの中で残った。
当時ニュースを見たときは、行方不明になっていた間に何かあり、ショックで精神に問題を抱えてしまったのではないかと思った。実際、N・Yは、精神鑑定やカウンセリングを受けたらしく、記事によると、どちらの結果でも異常は認められず、今は普通に暮らしているらしい。一部の学者の中には、パラレルワールドについて真剣に議論する人もいたが、大半は面白がっているだけで、都市伝説と同じような扱いになっていた。
「……」
当時は穂香も、真剣には見ていなかった。しかし、今の尊の状況を思うと、もしかしたら……と思えてくる。いや、さすがに馬鹿げている、でも、もし本当に……
頭の中で、いろいろな自分が自己主張をぶつけあって、目に映っている記事が遠くなる。
捜索は警察に任せればいい、素人が考えたところでたかが知れているし、どこをどう調べればいいかも分からない……
(このN・Yって人に会ってみる? でもどこにいるかも分からないし、分かったとしても、いきなり会いに行っても話なんて……それにこの人、どうやって戻ってきたのか、自分でも分かってないみたいだし……)
頭の中の声を無視して、穂香の意志は体を動かしていく。
パラレルワールドに行っていた本人がダメなら、他に今の状況を説明できそうな人は……さらに検索を広げていくと、真剣に議論していた科学者の名前が何人か出てきた。その中の一人で、当時先頭に立ってパラレルワールドは存在している可能性があると主張していた、小松元二郎(こまつ もとじろう)のブログを見つけた。
一週間に一度のペースで記事は更新されており、仕事の依頼なども受け付けているらしい。連絡先のリンクをクリックすると、メール送信フォームに飛んだ。
送ったところで、返信がくるとも限らない。そもそも仕事の依頼ですらないし、まともにとりあってすらもらえないかもしれない……
頭の中に際限なく生まれる否定を無視して、穂香はできるだけ細かく事象を書いて、送信ボタンを押した。
-2-
「鰐口さん、これ、どう思います……?」
リビングのソファに座り、パソコンの画面を見ていた明神は、ダイニングのほうに顔を向けた。
自分の存在が認知されていない世界に来てから二日目、鰐口の家に居候しながら、明神は自分と同じ状況を体験した人がいないか、ネットで調べていた。
自分のスマホでもネットは使えるものの、この世界の充電器では接続できず、一つだけ持っているモバイルバッテリーに頼るしかないと、遠慮がちに話すと、鰐口は自分のパソコンを置いて、自由に使っていいと言った。頼りっぱなしの状況に罪悪感を覚えたが、選択肢はなかった。
「何か見つけましたか?」
鰐口は、明神の隣に腰を下ろして、パソコンの画面に目を向けた。
画面に映し出されているのはブログで、おそらくは急いで開設したのだろう、デザインはデフォルトのままで、記事だけが投稿されている。四年前の記事で、最初の記事のタイトルは、『パラレルワールドに来てしまったらしい』となっている。
『この場所に来て、三日が経った。
一向に解決策が見つからないので、ネットカフェでブログを立ち上げ、少しでも情報収集ができるように、この記事を書くことにする。動画も撮ったから見てほしい。
四日前、俺はいつもどおり仕事に行き、帰りに同僚と少し酒を飲み、帰路についた。電車に乗ると、飲んで帰るには少し早い時間だったから、空いていて、座ることができた。俺は疲れていて、酒も入っていたから、座ると同時に寝てしまった。
起きたとき、降車駅の2つ手前の駅を出発したところだった。ここで寝てしまうと乗り過ごすと思い、席を立って、ドアの横まで移動した。最寄り駅に着き、電車を降りた。今思うと、そのときからどこかおかしかった。
降りた瞬間、理由は分からなかったが、違和感があった。いつも降りている、自宅の最寄り駅なのに、まるで始めて降りたように思えた。酔っているからだろうと思って、あまり気にせず、家に帰った。
家まで歩いて、俺は体が震えた。そこに俺が住んでいたマンションはなく、代わりにコインパーキングがあった。一瞬、酔って違うところにきてしまったのかと思い、辺りを見渡したが、間違いなく、自宅のマンションがあった場所だった。それに、酔って道を間違えるほど飲んでもいない。
意味が分からなかった。
でも、疲れていた俺は、その状況が何なのか、調べる気になれなかった。しかたなく友人に電話をして、今日泊めてもらえないかと頼むことにした。電話はつながった。しかし、友人は俺のことを知らないと言った。
番号を確かめたが、間違いなく俺の友人で、着信履歴にも同じ番号が残っていた。なのに、俺のことを知らないという。最初は冗談かと思ったが、話しているうちに、本気で知らないのだと確信し、電話を切った。
ますます、状況が分からなくなった。
しかたなく、駅周辺まで戻り、ひとまずカプセルホテルに泊まることにした。幸い金は使えたので、泊まることができた。寝て起きれば、きっと何もかも元に戻っている。そう言い聞かせ、俺は狭い部屋に体を横たえ、眠りに落ちた。
翌日、もう一度自宅のあった場所へ行ってみると、そこには昨日の夜と同じ、コインパーキングがあった。その日は会社に行けそうにないと思った俺は、会社に欠勤の電話を入れた。でも、会社は俺のことを知らない、あなたのような社員はいないという。社員証の番号や、仕事の話をしたが、取り合ってもらえず、電話を切られてしまった。
訳がわからず、いろいろと歩き周ったが、自分が住んでいた街で間違いなかった。なのに、俺の家はなく、誰も俺のことを知らない。
どうすればいいのか分からない。
日が暮れていく。今日もカプセルホテルに泊まることになるだろう。でも、それも長くはもたない。カードも使えず、銀行で金も下ろせない。つまり、今財布の中にある現金がなくなれば、野宿するしかない。
誰か、何か知っていたら教えてください。
これはネタでも釣りでもなく、本気です。
助けてください』
記事を読んだ鰐口は、
「ネタ扱いされてるみたいですけど、書いている本人としては、かなり深刻みたいですね。そういう雰囲気があります」
独り言のように言った。
「動画も見てみましょうか」
鰐口に言われて、明神は「動画も撮ったから……」というリンクをクリックした。黒縁メガネをかけた真面目そうな男が、記事と同じような内容を話している。編集はなく、本当にただ、スマホに向かって話しただけのようで、終始悲壮感のある顔で話し続ける男は、適当なことを言っているようには見えなかった。
「これ、演技だったらすごいですよね……」
明神が呟くと、鰐口は頷いた。
「まだ続きの記事があるみたいですね」
鰐口に促され、明神は『もうダメかもしれない』というタイトルの記事を開いた。
『なんとかして元の世界に戻りたいと思うが、最悪この世界で生きていくことになったことを考え、身分証とかはどうすればいいだろうかと思い、何気なく免許証を見た。
見なければよかったと思った……
免許証の一部が、消えている……俺の顔写真が、左側三分の一ぐらい、文字通り消えている。それだけじゃなく、免許証自体が物理的に消えかかっているようで、すでに四角ではなくなっている。ハサミか何かで端だけ切ったように、左上だけがない。
このままでは、きっと俺の存在は消えてしまうのだろう。それは死ぬことと同じなのか、それとも、消えたら元に世界に戻れるのか……?
分からない。
けど、消えたら元に戻れるという希望は、持たないほうがいいだろう。そんな都合よくいくとは思えない。やっぱり、元の世界に、俺がいた世界に戻る方法を見つけるしかない。どうすればいいのか分からないけど……』
記事はその後、二日間に渡って投稿されていたが、解決の糸口は見えず、絶望の色が強くなっていき、最初の投稿から四日目を最後に、更新が止まっていた。
「最後の投稿の日か、その翌日か……このブログの主は消えてしまったってこと、ですかね……」
明神は、自分の言葉で恐怖を増幅させてしまったことに気づいていたが、黙っていることはできなかった。自分が考えるとおりだとすると、ブログの主は、こちらの世界に来てから約一週間で、消えてしまったことになる。
「タイムリミットは、あと四日、あって五日ぐらい……」
この記事が創作の可能性もあるが、自分と似すぎている内容は、少なくとも明神にとっては、余命五日と言われたようなものだった。
「こんな馬鹿な話あるかよ……俺が何をしたって、なんで……おかしいだろ、あと五日で死ぬかもしれないなんて、いきなり言われても……」
明神は、髪の毛をぐしゃぐしゃとかき乱して立ち上がった。
特別な何かがあったわけでも、目標に向かって日々を過ごしていたわけでもない。でもあと五日と言われれば、壊れた水道管から水が噴き出すように、やり残した欲求が溢れてくる。
「明神さん」
「……」
「明神さん」
「え? ああ、はい……」
立ち上がって頭を抱えていた明神は、鰐口の言葉でようやく顔を上げた。
「不安ですよね。
私があなたの立場でも、不安だと思います。でも、だからこそ行動する必要があるんですよ」
「分かってます、そうですよね……分かってるけど……」
「もしこのまま諦めてしまったら、後悔すると思いませんか?」
「後悔……?」
「誰にでも、後悔の一つや二つ、あると思います。私にも……」
そう言って、鰐口は左手の薬指に触れた。
「鰐口さん……?」
「私は調べられる範囲で、警察の資料にこういった事例がないか、調べてみますよ」
いつもの穏やかな表情で、鰐口は言った。
「これからちょっと出てきます」
「え? でも今日はお休みなんじゃ……」
「交番ではなく、警察署のほうに。時間がもったいないですからね」
鰐口は立ち上がると、部屋に入っていって、外出用の服に着替えると、家を出ていった。一人残された明神は、一瞬パソコンに目を向けたが、すぐに逸らして、窓の外に目を向けた。
「後悔、か……」
小さな後悔なら、いくつもある。だが明神にとって忘れられない後悔は、一つだけだった。もう10年近く前のことなのに、時々思考はタイムトラベルして、もしあのとき……と考えてしまう。でもきっと、自分だけはない。誰だって、そういう後悔を一つぐらいもっている気がした。
後悔はない……その言葉には、強く、勇ましい雰囲気がある。でもそう言い切る人たちの中に、本当に後悔がない人は、何人いるのだろうか。一見、後悔とは無縁そうに見える鰐口も、さっきの言葉を聞くと……
「そういえば、鰐口さんの奥さんって……」
ふと、疑問が浮かんだ。
結婚相手としては、鰐口はこれ以上ないほど理想的に思える。感情も安定していて、優しく、親切……だが一方で、見ず知らずの、常識とかけ離れたことを口にしている男の話を聞き入れ、なんの見返りもなしに手助けをする……明神にとっては、これ以上ないほどありがたいことだが、過剰な親切に思える。
「……」
そんなことを考えていると、気持ちが少し落ち着いてきた。
絶望はすぐ隣で口を開けているが、飲まれないだけの力は戻った気がする。
「任せっきりにするなんてダメだよな」
自分に言い聞かせるように呟くと、再びパソコンの前に腰を下ろして、検索を始めた。
第4話
-1-
「あれ? 鰐口さん?」
警察署に着き、受付に顔を出すと、古い知り合いが声をかけてきた。
「早川さん、お久しぶり」
鰐口が右手を上げると、早川は奥から早足で歩いてきた。
「本当にお久しぶりです」
早川は頭を下げてから、
「どうされたんです?」
と聞いた。
「ちょっと調べたいことがあってね」
「調べたいこと……? 何か事件ですか?」
「いや、事件とは少し……うん、まあ、なんと言えばいいか(笑)」
「……? まあともかく、捜査一課にも顔出してあげてくださいよ。せっかくですから」
「あまり時間がないんだけど……うん、分かった。後で行ってみるよ」
「お願いします。
あ、調べたいことって……資料室に用ですか?」
「うん、いいかな」
「はい、もちろんです。一緒に行きますよ。入室申請は後でやっておきます」
「ありがとう」
資料室の場所は知っていたが、鰐口は早川の後について歩いた。
「……」
あまり変わっていない景色に、少し鼓動が早くなった。廊下の壁に貼られているポスターや張り紙は当然変わっているが、電灯も壁の色も、年季の入ったトイレも、変わっていない。
「お子さんたちはお元気で?」
「うん、二人ともね」
「良かった」
「あれから三年だ。子どもたちも大きくなったよ」
「三年……もうそんなに経つんですね。
交番勤務は慣れましたか?」
「最初の頃は、少し退屈を感じることも、正直あった。でも今は充実してる」
「それはなによりです」
資料室に着くと、早川はドアを開けて中に入った。
「調べ物なら、手伝いましょうか?」
「ありがとう。でも大丈夫だよ。一人でできる範囲のことだから」
「分かりました。終わったら連絡してください」
「うん、ありがとう」
早川が出ていくと、鰐口は資料室の中を見回した。
数台のパソコンと、灰色の棚に押し込まれたダンボール、プラスチックのファイル、上のほうにある資料を引っ張り出すためのアルミ製の踏み台……時間が止まったような空間に、一瞬意識が過去に戻ったが、すぐに戻すと、パソコンの前に腰を下ろした。
「さて、どう検索すればいいか……」
異世界やパラレルワールドなどで検索しても、ネットならともかく、資料室のネットワークには該当するものはない。
(もし明神さんと同じようなことがあったなら、一時的に警察に保護されるか、何かしらそれっぽい証言が残っているだろうけど、そこから探すのはさすがに厳しいだろう。あまりいい話じゃないけど、状況に絶望して自暴自棄になって、何かしら事件を起こしていたら、その記録はあるかもしれないが……)
いくつか、それっぽいものを探してみたが見当たらず、妄想が動機になった事件も調べてみたが、見当たらなかった。
(……? これは……)
明神と一緒に見たブログの主のことが気になり、四年前の資料を見ていると、身元不明の遺体の資料が出てきた。朝、海に散歩に来ていた近所の男性が、岩場で遺体を発見、警察に通報してきたとある。遺体は死後三日ほど経過しており、体中に擦れたような跡があり、死因は溺死。服を着たままで、身分を証明するものを所持しておらず、捜索願も出ていなかった。
「……」
結局、どこの誰なのか分からないまま、殺人事件と考えられる理由もなかったため、自殺で処理されたとあるが、鰐口は、胃が重くなった。確証はないし、証明するものも、紐付けるものもない。しかし、考えてしまう。この身元不明の遺体は、もしかしたら……
鰐口は、椅子を鳴らして立ち上がると、早川に連絡した。
-2-
穂香は、小松元二郎の自宅へと向かっていた。
ブログからメールを送った翌日、小松から返信がきて、何度かやり取りをしたあと、会って詳しく聞かせてほしいと言われた。あまり人に聞かれたくないという理由で、奥さんと二人暮らしの自宅に来てほしいとのことで、警戒しながらも、穂香は承諾した。
「ここ……?」
『小松』と書かれた表札の前で、穂香は立ち止まった。
地面から少し高い位置に建てられている二階建ての家は、外壁が白く、家を守るように建っている囲いは茶色い木で、穂香がイメージしていたのは違う、北欧風の、どちらかというとかわいらしい雰囲気の家だった。
インターホンを鳴らすと、女性の声で「はい」と返ってきた。一瞬言葉に詰まったが、「安西です。小松さんとお約束で……」と言うと、「おまちください」と言って切れた。10秒ほど待っていると、鍵を外す音がして、ゆっくりとドアが開いた。
「安西さん?」
肩のあたりまである黒髪を後ろに結んだ女性が顔を出した。少し厚めの唇は、微笑みを現す形に上がっていて、少しふくよかなフォルムは、温かみを感じさせる。
「安西です、その……」
「どうぞ、お入りください」
次の言葉に迷っていると、女性は中に入るよう促した。
「失礼します……」
用意されたスリッパを履き、廊下を進んでいく。壁には子供が描いたと思われる絵が、何枚か額縁に入って飾られていて、穂香は少し、意外な気がした。
ネットで調べた限りだが、当時パラレルワールドについて強めの主張をしていたため、科学者というよりエンターテイメントの寄りの扱いを受け、一部科学者からも異端児のように扱われた人物の家は、もっとそれっぽい……研究室のようなものを想像していた。だが入ってみれば、家は片付いていて、家具のセンスもよく、通されたリビングは、初めて入る家なのに、妙な安心感を覚えた。
「わざわざお運びいただき、申し訳ない」
リビングのソファに座っていた男が立ち上がって頭を下げた。
「小松です。そっちは妻の利恵。子供が一人いますが、今は友達の家に行ってるので」
「安西です。こちらこそ、突然すみません……」
穂香が頭を下げると、小松はソファに座るように促した。「失礼します」と言って腰を下ろすと、利恵がコーヒーを持ってきて、穂香と小松の前に置いた。ほんのりと漂うコーヒーの香りが、体に残った緊張を解し、一口飲むと、体の中に暖かさが広がった。
「さっそくですが、ご友人のことについて、もう一度お聞かせいただけますか? メールでやり取りした内容と重なる部分もあると思いますが」
「分かりました」
穂香は、できるだけ細かく、明神がいなくなってしまった日からのことを話した。
「突飛な考えたなんだと思いますけど、尊がいなくなったのは、パラレルワールドに行ってしまったからじゃないかって……今はそれが、不思議と一番しっくりくるんです。小松さんがいろいろお話されていた、例の高校生の記事も読みましたし、尊はなにか、特別な力っていうか、すごいスキルをもってるとか、家がお金持ちとかでもないから、誘拐とか、そういうことは考えられないし……」
穂香が言葉を止めると、小松は、
「説明ありがとうございます」
と言って続けた。
「確かにお話を聞く限り、明神さんがパラレルワールドに行ってしまった可能性はあると思います。ただ、あると思っている私が、これを言ってしまうのはどうかとも思いますが、パラレルワールドは存在が証明されたわけではありません。だから、確信をもってそうだと言い切ることはできない」
「そう、ですよね……」
「パラレルワールドというのは、多世界解釈という考え方から出てきたものでしてね」
「多世界解釈……?」
「量子力学に出てくる話で、アメリカの物理学者、ヒュー・エベレットが考えだしたものです。具体的には、目の前に二つの箱があるところを想像してください。蓋には、AとBと書かれています。その箱の中には、同じ電子が入っている」
「電子が、箱に……?」
「別の言い方をするなら、安西さんという一人の人間が、Aの部屋にもBの部屋にも存在している、ということです」
「違う部屋に、同じ人間が同時に存在してるってこと、ですか……?」
「そうです。
エベレットが多世界解釈を発表する前、コペンハーゲンという学者がたどり着いた解釈は、AとB、どちらかの箱を開けた瞬間、片方は消えてしまうというものです。つまり、Aの箱にいる安西さんを観測したら、Bの箱にいた安西さんは消えてしまう。選ばれなかったほうの世界は、存在が消えてしまうというものです。
ここまでは、大丈夫ですか?」
「なんとか……」
「分からなかったらまた説明します。
そのコペンハーゲンの説に対して、エベレットの多世界解釈は、Aを選んでもBの世界は残るというものです。Aを選んだ世界と、Bを選んだ世界。それぞれの世界が存在する。しかし、お互いの世界は分岐した瞬間に関係が切れて、以後干渉することはなくなる。
今、私たちが生きている世界をメインストリートだとするなら、選ばれなかったほうの世界は分岐した道として、つまりはパラレルワールドして、無数に存在している。そして、パラレルワールドは、お互いに干渉できないために、すぐ隣にあっても存在を認識できない。並行世界とも言われます」
穂香は、小松の話をなんとか理解しようと、黙ったまま俯いた。パラレルワールドは分岐した道、そしてお互いに干渉できない……
「じゃあ……もし尊がパラレルワールドに行ってしまったとしたら、もう、戻ってこられないってことですか……?」
「理論上は、そうです」
「そんな……」
「しかし、本当にパラレルワールドがあって、迷い込んでしまったとしたら、行くことはできるということです。偶然であっても、行く方法がある。私たちがまだ、その方法を知らないだけで。ということは当然、戻ってくることだってできるはずです。実際、パラレルワールドに行って戻ってきた、という話もあります、あの少年のように。ほとんどは作り話でしょうけど、すべてがそうとは限らない」
「でも、どうすれば戻ってこられるか、分からないんですよね……?」
「現状では、そうです。
しかし、安西さんが考えているように、通勤中に何かあったのだとしたら、明神さんが乗っていた電車のルートを調べれば、何か分かるかもしれません」
「何かって……?」
「それは、私にも分かりません。でもたとえば、ある場所に時空の歪のようなものができていて、とか、あるいは他の何かが……まあ、映画みたいな話ではありますが、このまま何もしないより行動したほうがいい……と私は思いますが、どうです?」
「それは……はい、尊のためにできることはしたいです」
「では、行きましょうか」
「一緒に行ってもいいんですか?」
「ええ、私では気づけないことに、安西さんが気づけるかもしれないですし」
「分かりました、行きます……!」
小松の言っていることが正しく、通勤中に何かあったとしても、事故や事件の類ではないと、穂香は思っていた。もしそうなら、ニュースになっているはず。だから、何かあったのは明神個人……考えると、頭が痛くなってくる。登山道具がないまま雪の降る山へ入るような、理解が追いつかない世界に足を踏み入れたせいかもしれない。それでも、何もしないよりはいい……何もしないよりは。
-3-
“こっちの世界”に来て、四日目が過ぎようとしていた。
鰐口は、警察の資料も使って情報を集めてくれたが、海で見つかった身元不明の遺体と、例のブログの主が、おそらくは同じだろうこと以外、分かったことはなく、明神が元々いた世界に戻るためのヒントは、見つけられずにいた。
免許証は、顔写真の部分は消え、右下の三分の一ぐらいが残っているだけ。体調が悪いとか、SFでありそうな、体が透けていくといったことも、今のところなかったが、自分の存在が消えようとしているのを日々見せられているようで、情報収集をする手が止まることが多くなった。
「少し、休憩を入れましょう」
パソコンのキーボードに手を置いたまま固まっていると、鰐口がコーヒーカップをテーブルに置いた。
「ありがとうございます……」
ソファに座ったまま、顔を上げて弱い笑顔を浮かべる。
鰐口は向かい側に座ると、自分のコーヒーカップを右手側に置いた。
「諦めちゃダメです。やれることは全部やらないと。苦しいとは思いますが……」
「実は今日、鰐口さんが出かけてる間に、電車に乗ってきたんです。仕事で使っている電車で、家の……家があったところの最寄り駅から、会社の駅まで。でも何も、起こりませんでした。ネットでも、できる限りいろいろなキーワードで調べてみましたけど、ネタ以外のものは、こないだ見たあのブログぐらいしかありません。免許証も……」
「思うんですが」
鰐口は、両手を前に組んで、姿勢を正してから続けた。
「免許証が消えていくのは、なぜなんでしょうね」
「それは……たぶん、俺の存在が消えようとしてるからで……」
存在が消える……そのときがきたら、具体的にどうなるのか分からなかったが、言葉にした瞬間に体が内側に押し込まれた気がした。
「なぜ存在が消えるのか……」
「……」
「思うんですが、この世界にも、明神さんがいる……はずですよね」
「え?」
「今、私と話している明神さんは、本来この世界の住人ではない。であるなら、この世界には、この世界の住人としての明神さんがいるはず……ということです。明神さんが元々いた世界がAだとすると、この世界はB。Bの世界にも明神さんがいて、Bの世界には今、二人の明神さんがいるのかもしれないと思ったんです」
「なるほど、確かにその可能性はありますね……もしかして、もう一人の俺を探し出せれば……」
「見つけられるかもしれませんが、危険だと思います……」
「なぜです?」
「もし明神さんの存在が消えかかっているといたら、それは同じ人間が二人存在しているからかもしれません。だとすると、この世界において優先されるのは、この世界の明神さんのはずです。本来こっちの世界に存在しないはずの明神さんは……」
「だから、存在が消えようとしてると……?」
「思いつきなので、根拠はありません。一応後で、調べるだけ調べてみましょうか」
「この世界の俺のこと、ですか?」
「ええ」
「そうですね、もしかしたら、何かヒントがあるかも……接触はしないほうがいいでしょうけど……」
「もし何か確認したいことが出てきたら、私が確認しますよ。
とにかく、帰ることを諦めちゃダメです。必ず後悔するので」
「ありがとうございます……あの、鰐口さん」
「はい?」
「なぜ、そこまでしてくれるんですか?」
「なぜ、というのは?」
「見ず知らずの、頭がおかしいかもしれない俺のことを、なぜそこまでして……」
「……後悔があるからです。悔やんでもどうすることもできない後悔、罪の意識ですかね」
「踏み込んだことを聞くようですけど、奥さんのこと、ですか?」
「……」
鰐口は、一瞬自室のほうに目を向けると、「少しだけ、話しましょうか」と言って、明神のほうを向いた。
第5話
-1-
いざ話そうとすると、言葉は喉に詰まったように、うまく出てこない。押し出すようにして声を出すと、丹田のあたりに重りが落ちた気がしたが、鰐口はそのまま、話を始めた。
「妻は、三年前に亡くなったんです、交通事故で」
「え……? あ、すみません……」
謝る明神に、鰐口は口元を緩めて首を横に振った。
「私はそれまで、捜査一課の刑事でした」
「捜査一課って、殺人事件を担当する……?」
「そうです。殺人だけではないですが、いわゆる凶悪犯罪に対処する課ですね、簡単に言えば」
「そうだったんですか、だから……」
「ん?」
「あ、いえ……寝室として使わせてもらってる部屋に、犯罪心理学の本とか、そういうのがあったので……」
「ああ、そういうことですね。確かにあれは、私が以前読んでいたものです。私は刑事として、事件を解決することに情熱を注いでいました。結婚して、子供ができてからも変わらず、家のことはすべて妻に任せきりで、事件を追ったり、部下を育てたり、家に帰らないことも珍しくなかったんです。
三年前のあの日、仕事中に同僚から電話がきて、妻が事故にあって病院に搬送されたと聞かされました。奈美と二人で買い物に行ったときに、脇見運転をしていた車に……妻は奈美をかばって、奈美は助かりましたが、私が病院に行ったとき、妻はもう……」
続きを話そうとすると、言葉が詰まった。右手で顎を包むようにして、首は無意識に左右に動く。明神は、口を挟むことなく、眉間にしわを寄せて口に力を入れているように見える。鰐口は俯いて、ゆっくりと呼吸をしてから、再び口を開いた。
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