仮面の下のサディズム(闇のカウンセラーシリーズ)
荊原実男(ばらはら じつお)は、苛ついていた。
といっても、それは特段珍しいことではない。
ある中小企業の部長を務めるこの男は、部下は恐怖で支配して動かすものと考えており、一日の半分以上は怒鳴り散らしている。
個人プレーはそれなりに優秀なことと、この男を嫌って人が辞めていくことから、少ない選択肢の中から選ばれて部長になっただけで、マネジメントがうまいわけではない……というか、そんなものはできないと言っていい。
「丸山!」
「はい……!」
丸山と呼ばれた社員は、亀のように顔を引っ込めながら立ち上がった。
「頼んどいた資料は?」
「すみません、まだ……」
「おっせぇんだよっ!! あと一時間で作れ」
「待ってください……! 使うのは明日って……」
「おまえの作ったもんが一発でOKになったことあるのかよ? 手直しの時間がいるだろうが。いいから言われたとおりにやれよ」
「はい、すみません……」
こういったことは、日常茶飯事である。
到底できないことをやらせる、思いつきの仕事をさせる、固定電話を持つ家庭が少ない昨今、電話帳の上から順番に、ページ数を決めて電話をかけさせる……
そういった、利益を上げるためというより、ただの嫌がらせのようなことを繰り返し、会社のためにやれと、自己犠牲を強いる。
それが、荊原という男だった。
「まったく、使えねぇやつらだよ。俺がいちいち発破かけないと動きやしない。どう思う? ママ」
夜。
週に三日は通っているスナック、黒鳥(こくちょう)で、ママの佐伯真裕美(さえき まゆみ)に愚痴をこぼす。
これも、荊原の日常である。
「そうねぇ……でも、部下の人たちも一生懸命やってるんじゃないかしら?
荊原さんは仕事ができるから、できていない、足りないって言うところに目が行きやすいだけで」
真裕美が、なだめるように言った。
黒鳥は、カウンター席8席、4人掛けのテーブル席が2つの、小ぢんまりとした店である。
雰囲気的には、どこにでもあるスナックだが、真裕美の手作り家庭料理が絶品で、それを目当てに通っている常連客もいる。
「確かに、奴らは俺より仕事はできねぇ。でもなぁ、やろうとする姿勢ぐらいは見せられるはずだ。それもねぇってんだから、話にならねぇ」
「萎縮してしまってるんじゃない?」
「萎縮?」
「できる人の前に出ると、つい自分と比べてしまって、萎縮してしまうものよ?」
「つまり、俺が仕事ができるから、部下たちは萎縮してしまってるってことかい? 積極的に動いても、俺にそんなんじゃダメだって言われるのが怖くて」
「私はそう思うけどなぁ。
ねぇ、清滝さんはどう思う?」
「……?」
清滝と呼ばれたその男は、ママに急に話を振られても、まったく動じることなく、わずかに残ったオールドパーをグイっと飲み干してから、口を開いた。
カウンターに置いたグラスが、カランと音を立てると、真裕美はスッとグラスを引いて、同じものを出した。
「そうですね。
確かに、萎縮してしまっている可能性はあるかもしれません。できる人の前では、緊張するものですから」
「なんだあんたは?」
「この方は、清滝さん。
企業からの依頼で、社員教育をする仕事をされてるの。
清滝さん、こちら、荊原さん。
食品メーカーの部長さん」
「はじめまして」
チャコールグレーのスーツを、ビシっと着こなした清滝は、荊原のほうに身体を向けて、にこやかに言った。
若者ではないが、年配者でもなく、不思議な貫禄がある。オールバックの髪に、髭が綺麗に剃られた顔は、少し陰があるものの、いい男と言っていいだろう。ピカピカに磨かれた革靴といい、いかにも仕事ができる雰囲気をしている。
「ああ、どうも」
荊原は、目を逸らしながら言った。
「社員さんのことで、苦労されているようですね」
「まあな。
あんたは、社員教育って言ったな……どんな教育をするんだ?」
「細かい部分は、企業さんの要望に応じて……ということになりますが、大枠としては、指示されずとも積極的に動いて、会社に利益をもたらせるようにする、といったところですかね」
「ほう」
「荊原さん……とおっしゃいましたね。
ここでお会いしたのも何かの縁です。
ママさんからの紹介ということであれば、お試しということで、初回は無料にします。一度、社員さんを私に任せてみませんか?
平日でも土日でもいいですが、二日間、お時間をくだされば、根本的なところを変えてみせますよ。その結果が気に入っていただけて、さらに改善を……ということであれば、正式に契約していただければ」
「無料か。
もし、お試しの結果が気に入らなかったら、その後の契約はなしでいいんだな?」
「ええ、もちろん。
ただ、ちゃんと成果が出ていたら、社員さんを正当に評価して、契約もお願いしますね」
「ふん、いいだろう。
まあ普通なら、いきなりそんなことを言われても断るが……ママの紹介っていうなら、試してみてもいい。タダでアイツらの姿勢が変わるなら、こっちとしてもありがたいしな。
よし、早速次の土日に頼みたい。
どうすればいい?」
「では、こちらの書類にサインを。研修を行うことに同意する、みたいなものですよ」
「よし……じゃあ、部下を9人行かせる。
よろしく頼むよ」
荊原は翌日、自分の部下9人に研修のことを話し、行くことに同意させた。
そして、金曜日の夜。
荊原は、黒鳥に来ていた。
(清滝司か。
少し怪しい気もするが、ママの紹介だし、土日の研修なら、通常業務に支障はないし、費用もかからない。成果を見せて、正式契約に持ち込もうって魂胆なんだろうが、そんなものは、何やかんやとケチをつけて断ればいい。
いやまてよ、ヤツの会社は小さいから、仕事は欲しいはずだ。
どうせ、たった二日じゃ大した成果は出せないだろうから、もう少しチャンスをやると言えば、承諾するかもしれない。うまくいっても、俺が望むレベルには到達してないとか言ってやれば、タダでアイツらのレベルを上げて、引き上げることもできる。大して成果が出なくても、俺は痛くも痒くもないしな)
「くく……」
「なぁに?
もしかして、思い出し笑い?」
「いや、何でもないさ。
もう一杯もらおかな」
月曜が楽しみだ。
荊原はその夜、飲みながら一人、ほくそ笑んだ。
月曜日。
「さて……アイツら、どう変わったのかね。ま、たかが二日で変化なんてするわけがないが」
荊原は、珍しく朝一番に会社に来て、出勤してくる部下たちの様子を見ていた。
「……」
特に変わった様子はない。
先週の金曜日と同じように、おはようございますと言って、自分の席に座り、仕事の準備をしている。
(……)
仕事が始まってからも、特に変化は見られない。
部下たちは、黙々とやっているが、能率が良くなったようには見えない。
(ふん、やっぱりか。
二日で変化などさせられるわけがない。所詮こいつらは、俺が発破をかけなきゃ動かない程度の連中なんだ)
「おい丸山、この間頼んだ……」
「先程メールで送りました。
会議の資料ですよね?」
「……!」
丸山の言葉に驚いて、メールを確かめると、確かに頼んでおいた資料が届いている。
中身も、思っていた以上に出来が良い。
「おお……ご苦労さん……」
その後も、何を頼んでも、ほぼ先回りで、予想を越える結果が返ってきて、荊原は戸惑った。
(どういうことだ、これは……いったい何が起こっている……? 先週の金曜まで、どれだけ発破をかけても動かなかった連中が……頼んだものを言われたとおりに仕上げることすらできなかった連中が、なぜ、こんな……)
「お疲れ様です。
お先に失礼します」
「……」
定時になり、部下たちが帰っていくのを、荊原は止めることができなかった。
その日の仕事は、予想を越えて進み、社長にも驚かれ、感謝もされた。
だが、荊原は戸惑うとともに、イライラしている自分がいるのを感じていた。
「あら荊原さん、いらっしゃい。
今日は早いのね」
黒鳥に行くと、真裕美が言った。
「ああ、今日は仕事が早く終わってね……」
「あら、珍しいわね。あ、もしかして、清滝さんの研修がうまくいったのかしら?」
「……」
「どうしたの?
なんか元気ないわね。研修はうまくいかなかったの?」
「部下たちは、確かに変わった。俺が発破をかけなくても、先回りにして仕事をして、今日の分の仕事を終わらせた……」
「すごいじゃない!
……なのに、なぜそんな落ち込んだような顔をしてるの?」
「……」
「理由をお教えしましょうか?」
「あら、清滝さん、いらっしゃい」
「……!!」
清滝が店に入ってくると、荊原は熊にでも遭遇したように立ち上がり、勢いで椅子が倒れた。
「荊原さん、なぜ自分の気分が曇っているか、なぜ、イライラしているか、本当は気づいているんじゃないですか?」
「なんの話だ……!」
清滝は入口のドアを塞ぐように立ったまま、口元に笑みを浮かべた。
「あなたは、部下を動かして仕事を終らせるために、パワハラを繰り返していたわけではない。当然、会社のためでもない。
あなたは、圧力をかけて、相手を怯えさせ、支配することが楽しいと思う人だ。理由なんて何でもいい、言いがかりでも何でも、とにかく痛めつけることができれば、快感なんですよ。それが精神的なことでも、肉体的なことでもね。
部下たちが先回りして仕事をして、結果も文句なしになったことで、あなたはパワハラする理由を奪われた。だからイライラしてるんですよ、発散できずにね」
「な、何を根拠にそんな……」
「あなたがしてきたことや、今のあなたの反応を見れば、分かりますよ。退職した女性社員に、強引に性行為を迫ったこととかね……」
「な……! 俺は、そんな……だいたいおまえ、何をしたんだ……!! たった二日で、あんなに変わるはずがない……!! 変わるはずがないんだ……!!!」
「変わるはずがないではなく、変わってほしくなかった、でしょう?」
「……!」
「さて、結果を出したら、契約というお話だったと思います。もちろん、契約していただけますよね?」
「ふ、ふざけるな……!! 誰がおまえと契約なんか……!」
「なるほど。
まあ、そういうだろうと思ってましたよ。このまま部下たちが成長すれば、マネジメント能力のないあなたは、今の立場を追われますからね」
「こんなことはありえない……! おまえはきっと、何か違法なことをしたんだ! 薬とか、マインドコントロールとか……それで、うまくいったように見せかけて、契約させて、金を取る気なんだろ!!」
「ひどい言いようですね。部下だけじゃなく、私にまで言いがかりですか」
「うるさい……!! おまえなんかに、俺の何が……!!」
「まあいいですよ。
そうやって騒いでいられるのも、あと数秒ですから」
「……?
何を言ってる……?」
「Time's Up」
「タイムズ……? なんだ……?」
カランッ
ドアが開き、誰かが店に入ってきた。
「いらっしゃ……え……?」
「……?」
「どういうこと……? 荊原さんが、もう一人……」
真裕美は、そのお客の姿を見て、手で胸を押さえながら、後ずさった。
ドアのところに立っている男は、カウンターで酒を飲んでいる荊原に似ている。
いや、似ているどころではない。
どこからどう見ても、荊原本人に見える。
「な、なんだ……! おまえ……」
荊原は、男を見ながら言った。
額からは汗がふくだし、目はまばたきを忘れて、じっと男を見ている。
男もまた、不気味な沈黙を守ったまま、まっすぐに荊原の目を見ている。
「その男は、あなたですよ? 荊原さん」
口元に笑みを浮かべながら、清滝が言った。
「何を馬鹿な……俺はここにいる、コイツが俺のわけが……」
「ドッペルゲンガーって、ご存知ないですか?
アレみたいなものです。
その男は、あなた自身……あなたが絶対に見たくないはずの、あなたの心の奥にある闇から作られたものですよ」
「なにを言ってる……? 作られた……?」
「契約書にサインしたでしょう?」
「契約書? あの契約書が……」
「まあ、今更どうでもいいことですよ。
さあ、ご自身としっかり向き合ってください。
そうしなければ、あなたは永遠に変われないのですよ」
「やめろ! 俺を見るな……そんな目で見るな……
ああ……見るな……あああ……
ああああああああああっ!!!!」
ドッペルゲンガーは、その言葉を無視して近づき、荊原の身体に乗り移るように消えた。
すると、荊原は急に黙って、そのまま店の外に出ていってしまった。
「せっかく自分と向き合うチャンスをあげたのに、小心者が除くには、闇が深すぎたかな。しかし、本人の中にあるものなんだけどね。
ああ、ママ、申し訳ない。
私はこれから、別件があるので、今日は失礼します。彼の分のお勘定は、私につけといてください。次回来たときに、一緒に払いますので」
清滝は、人懐っこい笑顔で言った。
「あなた、いったい何者なの……?」
「私は清滝司。
心の闇を専門とするカウンセラーですよ」
「闇の、カウンセラー……?」
「そんなに怖がらなくても大丈夫。
ママには何もしませんよ。
じゃあ、また」
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