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第8話 事件【死生の天秤】小説

■第8話の見どころ
・盲点になっていたこと
・違和感に気づいてしまった二人

第1話を読んでみる(第1話はフルで読めます)

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(今日はやけに暑いな……)

前日の夜、ダイニングで寝てしまった箕嶋は、痛む首を引きずってシャワーを浴び、軽く運動を済ませてから、今度は水のシャワーを浴びて、ペットボトルの水を一本飲み干した。首がまだ少し痛いことを除けば、眠気や疲れといったものは残っていない。

開けた窓から差し込んでくる光が体に当たると、箕嶋は顔をしかめて気温を確認した。最高気温29℃の表示に、ため息が出そうになったが、コーヒーを入れて書斎に入ると、仕事に取り掛かった。

「……」

仕事は問題なくこなせる、大丈夫だ……そう言い聞かせる一方で、頭の片隅にできた小さなスペースでは、昨日の笛木との話と、帰ってきてからの自分の思考が、同じテーブルについて、ずっと議論を続けている。放置しておいても問題ないが、スペースの割には白熱しているため、目に映っている仕事がどこか遠く感じる。

ブー! ブー!

デスクの横に置いたスマホが振動して、すべての意識がそこに向くと、脳内が一瞬、クリアになった。

「亜梨沙……?」

スマホの画面に表示された名前を見て、箕嶋は胃が収縮するのを感じた。

「もしもし……」

『一稀? ごめん、仕事中だよね……』

「大丈夫だ。どうした?」

『優衣が……』

箕嶋は咄嗟に、スマホを離した。心臓が異常なほど早く動いて、呼吸が苦しくなる。

『一稀? 本当に大丈夫?』

「悪い……大丈夫だ。優衣が、どうかしたのか……?」

『天気が良かったから外で遊んでたんだけど、倒れちゃって……』

「倒れた!?」

立ち上がった勢いで椅子が横転したが、構わずに続けた。

「何やってるんだよ! 一緒にいて、なんでそんなことに……」

『ごめんなさい……喉が渇いたっていうから、近くにコンビニまで飲み物を買いに行ったんだけど、優衣は遊び疲れてたから、待ってるように言って、戻ってきたら……』

「今、優衣は?」

『病院にいる……でも大丈夫、水分を取って、今はぐっすり眠ってるから、大丈夫よ……』

「どこの病院だ?」

『……山城市民病院』

「分かった、すぐに行く」

箕嶋はパソコンを閉じると、Tシャツの上にシャツを羽織り、スマホをポケットに入れて書斎を出た。

「……」

ふと、リビングのテーブルに置かれた、古びた猫のぬいぐるみに目が止まった。優衣にあげたものだが、出かけてそのまま亜梨沙のところに行ったために、段ボールに入れたままになっていたのを見つけて、テーブルに置いたのだった。

(持っていくか……)

箕嶋は、収納棚を漁って紙袋を見つけると、ぬいぐるみを入れて家を出た。

-2-

亜梨沙は、箕嶋との電話を終えると、ゆっくりと優衣が眠っている部屋に戻った。すやすやと眠っているが、少し顔が苦しそうに見える。いや、気の所為かもしれない。
起こさないように、音を立てずに椅子を出して座ると、そっと優衣の手を握った。

(優衣……)

手に伝わってくる温かさに、涙が溢れて顔を逸した。
声を抑えて、そっと手を離す。もっと触れていたかったが、止まる気配のない涙で優衣を起こしてしまうことは避けたかった。もし泣いているのを見せたら、優衣を心配させてしまう。不安にさせてしまう。そんなこと、絶対にあっちゃいけない……

亜梨沙は、優衣が眠っているのを確認すると、ゆっくりと立ち上がって部屋を出た。と、廊下の階段のほうから、箕嶋が歩いてくるのが見えた。早足で近づくと、箕嶋も足を早めた。

「ごめんなさい、こんなことになって……」

「優衣は?」

「こっち」

部屋に入り、眠っている優衣を確認すると、箕嶋は徐々に顔が青くなっていき、踵を返して廊下を歩き出した。

「待って……!」

できるだけ声を抑えて、亜梨沙は箕嶋の腕を掴んだ。

「すぐにでも連れて返りたいんでしょ? あのときを、思い出すから……」

「……」

「私も同じように思った。熱中症で、今はもう眠ってるだけだから、すぐにでも家に連れて帰って休ませたい、あなたの気持ちは分かる……でも今は安静にさせる必要があるし、あのときとは違う……」

「あのとき……」

「医者を呼びに行かなくても、あの子は大丈夫だから……」

「そう、だな……」

箕嶋は力なく言った。

「でもなんでこんな……!」

「電話で話した通りよ。優衣が外で遊びたいっていうから、一緒に遊んでたの。今日は暑いから、熱中症とか気をつけなきゃいけなかったし、優衣にも注意すべきだったと思う……でもあの子の顔を見てると、ママって声を聞いてると、全部あの子がしたいようにさせてあげたいって思ってしまうの……!」

「だからってこんな……!」

言いかけて、箕嶋は言葉を止めた。

「すまない、俺に君を責める資格はない……」

「……」

「優衣は、まだしばらく起きそうにないか?」

「え? うん、たぶん……」

「眠ってるだけなら、少し一人にしても大丈夫なんだよな?」

「うん、必要な処置は終わってるし、看護師さんも、少し眠れば大丈夫って言ってたわ」

「……」

「何? どうしたの?」

「少し、話せるか?」

箕嶋はそう言って、自販機などが並ぶリラックスルームを指差した。

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