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心に耳を傾けて 第7章(最終章) 既製品に囚われずに(ショート連載/エッセイ風)
翌日。
退職手続きを済ませると、僕は山岸さんに頭を下げた。
「お世話になりました」
エレベーターの前まで見送りに来てくれたのが、正直意外で、少し申し訳ない気持ちになったが、コールセンターのときに感じた、残るという選択肢もあるのだろうかという思いはなかった。
「これからどうするんだ? まだ何も決まってないんだろ?」
山岸さんは言った。
「そうですね。でも、何がしたいか……ちょっと違うかな」
「ん?」
「今何ができるかがまずあって、それをどう使えば人の助けになるかがあって、その先に何がしたいかがある……何がしたいかって、たぶん先に出てくるものじゃなくて、できることを使って人が喜んでくれたら、それが結果的に、自分がしたかったことに繋がるんじゃないかなって思います」
「ふ~ん……よく分からないが、まあ、がんばれよ」
「ありがとうございます」
ビルを出ると、外は雨が降っていた。
これから新しい人生を始めようというときに、雨……一ヶ月前だったら、そう思ったかもしれない。気持ちのいい終わり方をした映画は、エンドロール後は描かれないが、現実はその先も続く……と。
そう、現実は続く。それは変わらない。
困難を乗り越えて結ばれたカップルが、結婚生活もバラ色にできるかは分からない。うまくいくかもしれないし、いかないかもしれない。
自分が選択したことの本当の姿は、感情の熱が冷めた後に見える。
恋愛なら、付き合い始めて三ヶ月ぐらいで一度はくるだろうし、仕事なら、早ければ退職した翌日、あるいは一週間後かもしれない。感情が熱気を帯びているとき、困難は見えにくい。でも、どんなに好きなことでも、やりたいことでも、その中には嫌なことも辛いこともある。それが当然で、嫌なことのない世界を求めてしまうから、苦しむのだろうと、今は思う。
僕は、バッグを頭に乗せて、雨空の下に出た。
遠くの空は、明るくなり始めている。雨はそのうち止む。
そう判断して、近くのカフェに入った。
暖かいコーヒーを飲みながら、これからのことを考え始めると、これまでのことが順番に浮かんできた。
バイトも含めれば、両手でも収まらないほどいろいろな仕事をしてきて、その中には、数年在籍した場所もあった。仕事の内容も様々で、会社の性質も様々。でも共通点があった。どんな会社でも、楽しいと感じる性質であっても、僕は結局、組織の色に染まったことがない。
その会社の考え方はこういうものと、理解はしても、自分の中に落ちることはなかった。いつもどこかで、一歩引いて見ている自分がいる。そのことが、うまくいかない理由かもしれないと思ったこともある。当時はそれを、会社に馴染めないという言葉で表現していたが、馴染めないのではなく、自分の考えや価値観を軸にして生きる人間なのだと思うことにした。
組織に染まって生きるのも、自分軸で生きるのも、どっちが完全に正しく、どちらが完全に間違っているわけではなく、どちらにも光と影があるはずで、ただ違う、それだけのこと。そう考えることもまた、僕の考え方、価値観なのだろうと、今は思えた。
国や会社をうまく回していくためには、共通になる価値観、文化といってもいいが、それが必要。でもすべてをそこに合わせる必要はなく、自分の軸とバランスを取っていけばいい。
既製品の古びた価値観に自分を合わせて窮屈なら、合わせる必要はない。たとえ世間が、既製品を着ないことに後ろ指を差しても、犯罪じゃないなら、間違ってるなんて言われる筋合いはない。
でも、そう思えない人もいる。以前の僕のように、世間や組織の同調圧力に押されて、自分を押し殺してしまい、苦しむ。
そういう人たちが、自分の軸で人生を選択できるように手助けする。
たぶんそれが、今の僕にできることの先にあるもの。
職業でいえば、キャリアカウンセラーあたりが、イメージと近いかもしれないけど、そこまでハッキリ決めても、違う形になる可能性もある。ひとまずは、向かいたい方向が決まった、それでいい。
自分の思いをノートにまとめると、僕は顔を上げた。
思った通り、雨はやんで、雲間から光が差し始めていた。
今外に出たら、きっと気持ちいいだろう。
残ったコーヒーを飲み干して、僕は外に出て深呼吸した。
僕の人生という映画は、まだ続く。
脚本は途中で書き換わることもあるけど、きっとそれでいいのだと思う。
最初に書いた脚本通りにいかないことこそ、人生が映画にはない楽しさと成長をもたらしてくれるのだから。