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野良犬になったウル 第5話 下がれない一線【連載小説】

第1話リンク

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ウルは、ブチのペースに合わせて、ゆっくりと歩いた。

『おまえ、もしかしてあのときのラブラドールか……?』

ブチは目を大きくした。

『……うん』

『ずいぶんと、雰囲気が変わったな』

『レクスのおかげ』

『納得だが、意外でもある』

『レクスが僕を助けてくれたことが?』

『いや』

ブチは首を横に振った。

『俺が納得と言ったのは、レクスに手ほどきを受けてるなら、雰囲気が変わるのも頷けるってことだ』

『意外のほうは……?』

『俺は、最初に見たおまえしか知らねぇ。そのおまえが、レクスの手ほどきについていってることだ。レクスは以前にも、野良になった奴を助けようとしたことがある。一匹や二匹じゃねぇ、もっといる。けど誰も、レクスについていけずに、逃げ出した。その中には、一匹で生きるうちに死んじまった奴もいるし、細々と生きてる奴もいる。レクスがおまえを助けたことは、それほど意外でもねぇ。けど、弱かったおまえが、レクスの手ほどきについていってるのは、意外だってことだ』

『そう、だったんだ……』

『喋りすぎたかもな。レクスには……』

『黙っておく』

『すまねぇな。手間もかけさせちまって……俺を助けるなんて、したくねぇだろうに』

『確かに少し、変な感じはする……でも、レクスに言われたからじゃないよ』

『まったく、大した野郎だ……』

水場に着くと、ブチは水を飲んで体を洗い、その場に伏せた。

『気をつけろ。連中が何者か知らねぇが、いずれにここにも来るはずだ。森の野良なら、レクスに喧嘩を売るような真似はしねぇ。新参者が調子に乗ることはあっても、すぐに理解する。けど、連中は少し違う。何か、別の目的がある気がする』

『……もし、ここに来たら、戦わないといけないよね』

『逃げるって選択肢もある』

ウルは少し驚いたが、ブチは続けた。

『絶対に勝ち目のねぇ相手なら、逃げるのも一つだ。死んじまっちゃあ、全部終わっちまう。けど、絶対に逃げちゃいけねぇときもある』

『絶対に……』

『たとえば、後ろに守るべきもの、自分の子供でもいれば、逃げるわけにはいかねぇ。それと、もう一つ大事なことがある』

『なに?』

『分かりづらいかもしれねぇが、ここは引いちゃいけねぇって線が、誰にでもある。なんとなく分かるもんだ、ああ、ここだってな。そんときは、どんなに怖くても逃げちゃいけねぇ。そこで逃げたら、腑抜けになっちまう。もう二度と、その線より前に出られなくなって、足の踏ん張りが効かなくなる。そうなったら、逃げ続けるしかなくなる』

『僕にも、分かるのかな……』

『分かるはずだ。気を、つけろ……』

ブチはそこまで言うと、静かに寝息を立て始めた。ウルは、少しだけ様子を見てから、レクスのところまで戻った。

『ブチは?』

『水を飲んで、今は寝てるよ』

『そうか。まあ、しばらく休ませてやろう』

『うん……』

ブチに何があったのか、詳しいことは分からないが、この先起こるだろうことを考えると、尻尾が下がってしまう。と、バサバサという音とともに、頭上から声がした。

『よう』

カラスのジョセフが、レクスとウルの間に降りてきた。

『どうした?』

レクスが聞いた。

『森に、妙な連中が入ってきてる』

『どこかの野良か?』

『たぶんな。ただ、数が多い。全員犬だ』

『どれぐらいいるんだ?』

『確認できた限りでも、10はいる。ただ、それで全部とはかぎらねぇ』

『……』

『ん? なんだ、何か知ってるのか? レクス』

『さっきブチから聞いた』

レクスが状況を話すと、ジョセフは背中を向けた。

『早急に情報を集めたほうが良さそうだ。おまえに限って遅れを取ることはねぇだろうけど、まだ相手が見えねぇ。気をつけろよ、レクス。ウルも』

『ああ、分かっている』

『情報が集まったらまた来るぜ』

ジョセフは飛び立っていき、ウルはレクスを見た。レクスは何か考えているようだったが、

『ひとまず、ジョセフたちの情報を待とう。調べに行きたいところだが、ブチを一匹にはできない』

と言った。

その日は、他には何事もなく過ぎ、ブチも目を覚まし、さらに一日休んでから、レクスの縄張りを出ていった。
レクスは、傷が完治するまでいてもいいと言ったが、ブチは、

『そういうわけにもいかねぇ。ノブとハンを見つけねぇと。世話になった』

そう言って、まだ重い足取りで出ていった。

『大丈夫かな、ブチさん……』

『無茶はしないと思うが……』

ブチが出ていった日の朝、ちょっとした事件が起こった。

ジョセフの一派が縄張りにしているエリアに、見たことがない三匹の犬が入ってきた。ジョセフは、情報収集で、森の野良ではない犬を確認していたが、その三匹はまだ見たことがなかった。

最初は迷い込んできたのかと思ったが、どうも様子がおかしい。カラスたちが餌を探す時間を狙ったかのように現れ、野良の犬が食べないような餌まで持ち去り、挑発するように、木に止まっているカラスたちを見上げた。

鳴き声で威嚇したものの、三匹はまったく意に介さず、縄張りの中で餌を食べ始めた。ジョセフがどうするか考えていると、一羽の若カラスが急降下して近づいた。犬たちはそれをまっていたかのように身構え、若カラスに牙を向けた。咄嗟に躱したため、致命傷は避けられたが、羽に傷を負った。

ジョセフが編隊を組んで攻撃を仕掛けたため、犬たちは咥えた餌以外は残して去ったが、一歩間違えば、若カラスは噛み殺されていたという状況に、カラスたちは戦慄した。
野良同士や、野良とカラスの間で、餌を巡って戦うことはある。しかし、相手を挑発したり、生きるために食べる以外で、喰らおうとすることはない。だが三匹は、ただ殺すために挑発し、若カラスに襲いかかった。少なくとも、ジョセフたちはそう認識した。

『餌が目的じゃなさそうだな』

レクスが言った。

“事件”があった日、夕方近くになって、ジョセフはレクスたちのところに来ていた。集めた情報を伝えるためでもあったが、今朝のことを話しておいたほうがいいと考えてのことだった。

『ただの嫌がらせとも考えたが、それにしちゃあ妙だ』

ジョセフが言った。

『今調べた限り、群れのボスらしいのが森に入ってきてる気配はねぇ。でも連中、何かしらの意図をもって動いてる。別の場所にいるのかもしれねぇ』

『道を挟んだ向こう側の森なら、自分は出向かずに指示も出せる』

レクスが言うと、ジョセフは頷いた。

『俺もその可能性を考えた。まだ確認できてねぇが……けどまずは、森に来てる連中をどうするかだ。ボスを見つけて話をつけるのが一番だろうが、ブチの件もある。何かしら対処はいる』

『対処って……』

ウルが聞くと、ジョセフは、

『この森で好き勝手するとどうなるか、分からせる必要がある』

と言った。

『下っ端がどこまで意図を把握してるか分からないが、直接確認するか』

レクスが立ち上がった。

『おまえはここにいろ、ウル』

『え? レクスひとりで行くの?』

『ああ』

『でも、危ないんじゃ……』

『もちろん危険はある。それでも確認は必要だ。大人しくしてればいなくなるわけでもなさそうだからな』

『俺はレクスの心配はしねぇが』

ジョセフは言った。

『把握できてるだけでも、数十匹はいる。油断はするなよ』

『ああ、もちろん』

ウルは、レクスの背中が小さくなっていくのを見て、体が微かに震えるのを感じた。ひとりのなるのが怖いからなのか、嫌な予感がするからなのか分からず、ただ静かに、レクスとジョセフの無事を願った。

-2-

(周囲に気配はない。ひとまず、ジョセフたちの縄張りの中で様子を見るか)

レクスは周囲を確認してから、適当な木に上って、意識を広げた。
鳥の鳴き声、虫の鳴き声、川の流れる音など、知っている音だけが森を奏でている。と、何者かの足音が聞こえて、やがて音が重なった。

気配を殺したまま、視線を下に向ける。
すると、三匹の犬が歩いてきた。全員が雑種で、毛並みが乱れていて、品のない笑みを浮かべている。歩きながら、時々上を気にしているが、それはカラスたちを警戒しているというより、縄張りを闊歩することで、挑発しているように見える。

『おい』

レクスが声を掛けると、三匹は一瞬ビクッとして、一斉に顔を上げた。

『なんだ? 呼んだのはおまえか?』

先頭の一匹が言った。

『おまえら、ここで何してる?』

レクスが聞くと、

『随分と、偉そうな猫だな。俺達は餌を探してんだよ。文句あんのか?』

と薄ら笑いを浮かべた。

『餌を探してるようには見えない。カラスたちを挑発して、何を企んでる?』

『挑発? まさか、今朝のことを言ってんのか? 連中がいきなり襲ってきやがったから、反撃したんだよ。身を守るためだ』

『なるほど、そういう手口か』

レクスは音もなく飛び降りると、三匹の正面に立った。

『詳しく聞く必要がありそうだな。どんな目的でこんなことをしてるのか』

『なんでおまえにそんなこと話さなきゃなんねぇんだ?』

『ブチをやったのも、おまえらか? それとも仲間か?』

『ブチ? ……もしかしてあのブルドックか?』

『ああ』

『それも、俺達が仕掛けたわけじゃねぇ。野郎が因縁つけてきやがったから、ちょいと分からせただけだ』

『で、次はカラスたちがターゲットということか』

『俺達が気に入った場所に先客がいるなら、排除して奪い取る。野良の世界じゃ当然だろ?』

『縄張り争いは確かにある。だが、一定の秩序というものも必要だ。おまえらの行動にはそれがない。ただ食い荒らす。それだけだ』

『秩序だぁ? 秩序は俺達なんだよ。俺達がここを寝床にすると言ったら、そうなるんだよ。そこに誰がいようと関係ねぇ』

『バカに何を説明しても無理か。理解できると思った俺が甘かったようだ』

レクスが一歩踏み出す。

『なんだよ、やんのか? こっちは犬三匹、猫一匹ごときで……』

言葉とは裏腹に、先頭の犬はゆっくりと後退りした。後方の二匹も、釣られるように下がる。

『このやろう……』

レクスが近づく。
と、バサバサという羽音が聞こえて、三匹はビクリを上を見た。

『話は聞けたか? レクス』

ジョセフが言うと、三匹はさらに後退りした。

『レクス? こいつが……』

『だったらなんだ?』

『くそ、いくぞ……』

三匹は警戒をそのままに、少しずつ離れて、10メートルほど離れたところで、振り返って駆け出していった。

『名前を聞いた途端に逃げやがった。レクスのことを知ってるってことか?』

『ジョセフ』

『ん?』

『連中がどこから来てるか、特定できるか?』

『幸い逃げていったからな。確認するぜ』

ジョセフは飛び立ち、三匹の後を追った。
森はいつもの通りの音に戻ったが、レクスは、ただの嫌がらせではない、もっと厄介な何かを感じていた。

-3-

日は木々の影に隠れ、森は暗闇に染まり始めていた。
レクスはまだ戻ってくる気配はない。レクスに限って、万が一もないだろうと思いながら、ウルは落ち着かず、眠ることも餌を探すこともできずに、その場に留まっていた。

『……! 誰?』

近づいてくる足音に、ウルは反射的に立ち上がった。

『ここがレクスの縄張りか。水場も近くにあって広い。周囲を見渡しやすいけど、外からは見えづらい。いい場所だなぁ』

声がして、ブラック&タンのドーベルマンと、雑種が一匹、さらにその後ろに、見覚えのある顔が二つ見えた。

『誰……?』

『あん? なんだおまえ?』

ドーベルマンは、品定めするようにウルを見た。

『ソイツ、最近森に来た奴です。確か、ウルとかいう』

後方の一匹が言った。

『君、ブチさんと一緒にいた……』

ウルが言うと、後方の一匹、ノブは顔を逸らした。隣に立っているハンも、俯いている。

『へぇ、顔見知りってわけか。つい最近ってことは、その前は人間に飼われたのか?』

ドーベルマンが聞くと、ノブは顔を逸らしたまま頷いた。

『なるほどなぁ。最近来たってわりには堂々としてるが、まだまだ野良になりきれてねぇみてぇだな』

ドーベルマンは、ウルの足を見て言った。
さっきから足に力を入れているのに、震えが収まらず、ウルは歯を食いしばった。

『俺はランドってもんだ。よろしくな、ウル』

ドーベルマンは見下ろすように言った。

『ここはレクスの縄張りだよ』

『ああ、分かってて来たんだよ。下見にな』

『下見……?』

『これから俺達の縄張りになる場所にいる、今の王様の住処を確認しに来たんだよ』

『出ていけ……!!』

『おうおう、随分と乱暴じゃねえか。うちのボスは、歯向かわずに明け渡すなら、危害は加えねぇって言ってる。けどそれは、レクスとレクスの仲間が歯向かわなかった場合に限る。そこで質問だ。おまえはレクスの取り巻きか?』

『取り巻き……?』

『仲間なのかってことだよ』

『仲間……そうだよ、だから出ていけ……!』

『嫌だと言ったら?』

『え……?』

『この森じゃあ、レクスの名前を聞けば誰もが引くんだろうが、俺達は新参だし、力もある。うちのボスは、間違いなくレクスより強い。この俺もな』

『……!』

『縄張りの中を案内するなら、今の無礼は許してやる。どうする?』

『ここはレクスの縄張り……お、おまえらの好きにはさせない!!』

『それはつまり、やるってことでいいんだな?』

ランドは笑った。

『出ていけ……!!』

ウルは、震える足に力を入れて吠え立てたが、ランドは意に介さず、右足、左足と踏み出し、近づいてくる。

『く、来るな……! それ以上近寄ったら……』

『どうするんだよ?』

ランドはゆっくりと近づく。

『どうした? こねぇなら……』

『……!』

『こっちから行くぞ!!』

ランドは一気に距離を詰め、ウルが身構える前に牙をむき出して首元を襲った。

『く……!』

辛うじて躱したものの、牙が首元をかすめて、ズキンとした。
体は自分のほうが大きい。
レクスとの練習を思い浮かべて、ウルは身構えた。

『構えだけはいっちょ前だが、足が震えてるなぁ』

足の震えは止まりそうにない。
でもやるしかない……
ウルは奥歯に力を入れて、地面を蹴った。

『はは、いいじゃねぇか……!』

ランドはウルの牙をギリギリで躱し、横に飛び退いてから、体勢が整う前に、ウルの横腹にタックルした。

『うわ……!』

なんとか踏ん張ったものの、ランドはすぐに移動し、ウルの体に牙を立てた。

『……!』

激痛に叫びそうになるのを堪えて振り払い、飛びかかる。ランドはあまり踏み込まずに、爪で引っ掻いたり噛みついたりしながら距離を取り、ウルは翻弄され、気づけば体中が痛みで悲鳴を上げていた。

『出て、いけ……! レクスの、縄張りは……誰にも渡さない……!』

恐怖に代わって痛みが足を震えさせ、逃げ出したい気持ちが強くなる。
踏ん張ったところで勝てはしない。
倒れてしまえばそこで終わる。そう、終わる……

『はぁ、はぁ……しつこい野郎だな……勝てねぇのは分かっただろ、さっさと倒れちまえよ。そうすれば見逃してやる』

『出て、いけ……僕は……絶対に倒れない……!』

『じゃあ倒れるまでやってやんよ……!』

ランドの追撃にウルは反撃すらできなくなり、倒れかけたが、片目が血で見えなくなっても立ち続けた。

『この野郎、こうなったら……』

『ウル!!』

大きな声がして、何者かが走ってくるのが分かると、ランドの後ろに立っていたハンとノブは、耳を下げて背中を向けた。

『邪魔が入ったか……まあ、いいさ、見せしめには十分だろ』

ランドも背中を向け、ウルはひとり、その場に立ち尽くした。

『や、った……でも、これから、ひとりで生きていくのに、これじゃあダメ、かな……レクスに、怒られる、かな……』

『ウル!!』

少し遠くで、呼ぶ声がする。聞き覚えのある声。
声のほうに顔を動かしかけたとき、ウルは崩れるように倒れ、そのまま意識を失った。

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