黒い砂 テケテケ誕生の物語【一気読み!】
第1話
-1-
真中瑞江(まなか みずえ)は、目を覚ますとゆっくりと体を横向きにして、向かいの棚に置いてある時計を見た。
時刻は5時50分。目覚ましが鳴るまで、あと10分。少しだけ損をした気持ちになったが、上半身を起こして伸びをすると、床に足をつけた。
目をこすりながら歩き、絨毯と部屋のドアの隙間にある、30センチほどの隙間に並んだスリッパを履いて、ドアを開ける。
家の中は静まり返っており、リビングもキッチンも暗い。ようやく涼しくなってきた10月の朝は、少しひんやりとして、瑞江は歯を磨くとそのままシャワーを浴びた。
「おはよう瑞江、相変わらず早いのね」
シャワーから出ると、リビングとキッチンに明かりが点いており、眠そうな目をした慶子が立っていた。
「おはよう、お母さん」
瑞江が5歳のとき、事故で夫を亡くした慶子は、仕事を掛け持ちしながらセラピストの勉強をして、今では独立して仕事をしている。大繁盛、というわけではないが、安定はしており、人との出会いも多い。
色白で、穏やかさと色気を併せ持つ慶子に、声をかけてくる男も多く、再婚のチャンスは何度もあったはずだが、慶子は瑞江を育てること以外興味がないとでもいうように、付き合うことすらせずに、今も独身を貫いており、瑞江の前では弱音を吐くこともなかった。
「朝ご飯、食べるよね?」
瑞江が聞くと、慶子は頷いた。
「うん、作ってくれるの?」
「昨日遅かったんでしょ? ゆっくりしてて。できたら声かけるから」
「ありがとう。
瑞江の作る料理、好きよ。思いやりがある」
「お母さん譲りだよ」
「あら、嬉しいこと言ってくれるのね。でも、あまり無理しちゃダメよ? 瑞江だって、勉強で忙しいんだから」
「ありがと。でも大丈夫、体調管理はバッチリだから」
朝食を作り、テーブルに座って、なんとなくテレビをつける。瑞江も慶子も、テレビを見ることはほとんどなくなったが、朝のニュースだけは、なんとなく確認していた。といっても、ほとんどは天気予報の確認なのだが。
『ショッキングなニュースです。昨夜未明、祖ノ牧町(そのまきちょう)の住宅街で男性が死んでいるのを、通りがかった通行人が発見し、警察に通報しました。遺体は両足が切り離されており、警察は猟奇殺人の可能性もあると見て、犯人の行方を追っています』
「祖ノ牧町って、隣ね……」
慶子が言った。
「うん」
隣町で殺人事件が起こったこともショックだったが、遺体の状態が耳に残った。両足が切り離されているとは、どういう状況なのか……
「あまり遅くならないうちに帰りなさいね」
慶子は瑞江を見た。
「うん、大丈夫。お母さんこそ、帰り遅いときあるんだから、気をつけてよ」
「そうね、私も気をつける」
朝食を終えると、瑞江はもう一度歯を磨いて、30分ほど机に向かってから家を出た。頭の中には、先程のニュースが不安という接着剤でくっついたままだったが、心配してもしょうがないと言い聞かせ、駅へ急いだ。
-2-
「これはまた、派手にやってくれたな」
瑞江たちがまだ夢の中にいた頃。
伏見靖(ふしみ やすし)は、両足を切り離された無惨な男の遺体を前にしゃがみこんだ。
「他に外傷はない。出血多量か」
「そうみたいです」
伏見に同意するように、谷山修一(たにやま しゅういち)は言った。
「免許証を持ってました。
名前は……富塚武(とみづか たけし)、年齢は35歳、住所は……家は近所みたいですね」
「目撃者はなしか?」
「はい、仕事帰りの男性が第一発見者ですが、誰もいなかったみたいです。もしかしたら、悲鳴みたいなものを聞いた人もいるかもしれませんけど、そこは明日確認ですね」
伏見は、谷山の話に軽く頷くと、遺体に目を戻した。
壁によりかかるようにして座っている男は、形だけを見ると、酔っ払って寝ているようにも見える。だが、腿から下が切り離されており、辺りは血の海になっていて、切り離された足は無造作に捨てられている。
遺体が寄りかかっているのは、廃校になった学校の壁で、夜中ともなれば当然、人通りは皆無だし、暗闇と廃校が揃えば、遺体が近くにあっても違和感はない……というのはホラー映画の話で、戦場でもなければ、遺体があるだけで現場は“異常”になる。加えて、このあたりは100メートルも歩けば、左右には住宅が並んでおり、殺人をするには適した場所とも言えない。
「猟奇殺人、ですかね」
谷山は、眉をひそめた。
「まあ、そんな顔にもなるよな」
伏見は言った。
「遺体を見慣れてても、これを直視するのはきつい」
「全然きつそうに見えませんよ、伏見さん……」
「そうか? それより、ここ、見られるか?」
伏見が足の切断面を指差すと、谷山は鼻を覆うようにしながら近づいた。
「完全に切り離されてるのに、刃物で切った傷じゃない。ナタみたいなもので叩いたわけでもなく、ねじ切られたみたいな傷だ」
「ねじ切るって……そんなことできます?」
「無理だろうな、どんな怪力でも」
「……伏見さん」
「ん?」
「なんか、変な方向に考えてます?」
「変な方向って?」
「洋館の事件みたいな報告書上げたら、また上からいろいろ言われますよ」
「まあそうだろうな」
伏見は立ち上がった。
「でも、常識のメガネは外して捜査したほうがよさそうだぞ」
ありえないと、否定する自分もいる。だが目の前の現実は、伏見に別の考えも考慮するよう警告しているように思えた。
「厄介な事件になりそうだな」
ため息交じりに呟くと、伏見は現場検証を続けた。
-3-
「おはよう、瑞江」
学校に着いて、談話室でテキストを読んでいると、冨永妙子(とみなが たえこ)が声をかけてきた。
妙子は、瑞江の数少ない友人の一人で、プライベートでも遊ぶことがある。プログラミングが得意で、看護学校の生徒というよりエンジニアという感じだが、本人は、プログラミングは趣味と位置づけており、仕事にするつもりはないらしい。
「おはよう、妙子」
「ねえ、今日学校終わったら、時間ある?」
「うん。何かあったの?」
「バイト先で、ちょっと気になる人がいるんだけど、今まで付き合ったことないタイプでね。どう声かければいいか、イマイチ分からなくて」
「それを、私に相談?」
「ダメ?」
「ダメじゃないけど、私……ほら、恋愛に疎いから、あんまりアドバイスとかできないと思うけど……」
「いいのいいの、瑞江の冷静で客観的な意見がほしいんだから」
「……うん、分かった」
「やった! ありがとね。
カフェでケーキぐらいおごるから」
「気を使わなくていいのに(笑)」
「ダメダメ! せっかく時間取ってもらうんだから、それぐらいは……」
「楽しそうね、真中さん」
二人が盛り上がっていると、同じ学年の江守奈々(えもり なな)が声をかけてきた。
「おはよう、江守さん……」
「こないだの実技も、講師に褒められたってね。やっぱり真面目にやってる子は違うわよねぇ」
「そんな、たいしたことじゃないよ。他にも褒められてる人いたし……」
「あらあら、謙虚なのね。でも私嫌いなのよ、あんたみたいなヤツ」
「……」
「なんとか言いなさいよ」
「ごめんなさい……」
「は? なんなの、謝れなんて言ってないんだけど。それじゃあたしが謝らせたみたいに思われるじゃん」
「どうしたの、奈々」
瑞江が俯いていると、奈々の友人である小泉葉子が話に入ってきた。
「コイツがさぁ、なんかハッキリしなくてイラつくんだよね。謝れなんて言ってないのに謝ってきて、あたしがイジメてるみたいに見える。ひどくない?」
「成績いいからって、見下してんじゃない? 私たちのこと。片親のくせに」
「……!」
「そっか、謙虚なフリして見下してるんだ。最低だね、コイツ」
「じゃあそんな真中さんに、面白い話を教えてあげる」
葉子は見下ろすように言った。
「真面目な真中さんは知らない、楽しい噂よ」
「噂……?」
「ネットにも出てる、両足が切り離されてるって死体、警察は猟奇殺人とかって調べてるみたいだけど、あれ、テケテケの仕業って話よ」
「テケテケ……?」
「やっぱり知らないのね。
テケテケは上半身だけのお化けで、昔、真冬の北海道で踏切事故で死んだ女子高生がいて、上半身と下半身が切断されたんだけど、あまりの寒さに血管が収縮して、即死せずにしばらく生きていたの。
その無念と苦しみが霊になって、テケテケの話を聞いた人のところに、三日以内に現れるのよ……そして、上半身と下半身を切断されるか、足を引きちぎられてしまう……」
葉子がいかにもな雰囲気で話すと、妙子はため息を吐いた。
「バカバカしい……小学生じゃないんだから、そんなこと誰が信じるの? 猟奇殺人犯のほうがよっぽど怖いわよ。ねえ? 瑞江」
「なんで、急にそんな話……」
「教えてあげただけよ。勉強で忙しい真中さんにね」
「……」
「黙っちゃった。どうする奈々?」
「怖がる人のところにくるらしいよ、引き寄せちゃうんだって、怖いって思ってると」
「やだ、大変」
「でもね、もしテケテケがきても、助かる方法あるのよね。真中さんは頭がいいから、すぐに調べられると思うけど?」
「そうよね~。でもどうしてもっていうなら、教えてあげてもいいけど、助かる方法」
「ほんとバカバカしい……瑞江、いこ」
妙子が言うと、瑞江は頷いて立ち上がった。
「今日のこと、畑中くんにも話しておくね。最近退屈してるって言ってたし」
葉子の言葉に、瑞江は一瞬立ち止まった。
「瑞江、どうしたの?」
「え? ううん、なんでもないよ……いこ、妙子」
「……? うん」
「あんな話信じる? 子供じゃあるまいし」
瑞江たちがいなくなると、奈々は言った。
「隣町のあれがテケテケの仕業って噂が流れてるのは本当よ。それにあの子、すごい怖がりなのよ。普通なら信じないだろうけど、あの子は信じる。まあ信じなかったとしても、動揺ぐらいするんじゃない? 面白いじゃん、それって」
「言えてる(笑)」
「あとは畑中くんに今日のこと話しておけば、また何か”遊び”を考えてくれるよ、きっと」
「そうよね。
あ、そろそろ講義じゃない? 眠いけど」
「あたしも。とりあえず行こうか」
瑞江と妙子は、奈々たちから離れると、そのまま一時限目の講義がある教室に向かった。
「瑞江、気にしちゃダメだよ。テケテケって、私が小学生の頃からある、有名な都市伝説よ。瑞江が怖がりなの知ってて話したんだろうけど、ただの都市伝説」
「うん、そうだよね、ありえないって分かってる。でも……」
「うん?」
「殺人事件のニュースは、今朝、見たの。だからもしかしたらって、ちょっとだけ思っちゃって」
「真面目に考えすぎ(笑)
大丈夫、本当にテケテケがいて、話を聞いた人を殺していくなら、警察も手に負えないぐらいの事件になってるはずよ。私だって子供の頃聞いたけど、何事もなく生きてるでしょ?」
「そうだよね、なんかつい、気にしちゃって……(笑)」
「しっかりしてるのに、そういうの苦手なのは、瑞江のかわいいところだと思うけどね(笑)」
その日は、朝の件以外は平穏に流れ、学校が終わった後は妙子とカフェで話し、晴れた気分で家に帰って、いつもどおり勉強を済ませると、ベッドに入った。
テケテケ……
ベッドに潜って、静けさだけが耳に触れるようになると、ふと今朝のことが浮かんだ。馬鹿げている、そう思う。もし本当にいるなら、妙子が言っていたように、もっと大きな問題になっている。そう、それが現実。なのに、瑞江の頭の中には、いくつものシミュレーションが浮かんでは消えていく。
子供の頃、一人でいることが多かったから、たくさんの想像を広げて楽しんでいた。暗いと言われたこともあったが、瑞江にとってそれは楽しく、重要なことだった。しかし、こと「怖い話」に限っていうと、想像力は裏目に出た。眠れずに、母親の布団に潜り込んだこともある。
(大丈夫、どんなに怖いと思っても、現実じゃないから)
瑞江は自分の身体を抱くように肩に手を回すと、体を縮めるようにして目を閉じた。
-4-
伏見は、明け方までに調書の第一報を書き上げると、仮眠室に向かった。室内は静まり返っており、廊下から入ってくる明かり以外、光源となるものはない。
「伏見さん、まだ起きてたんですか……?」
先に仮眠室に来ていた谷山が、かすれた声を出した。
「まだ寝てて大丈夫だぞ」
「今まで、調書を……?」
「ああ」
「珍しいですね、そんなやる気だすの」
「否定はしないが、一言余計だな」
「気になるんですね、今回の件は」
「司法解剖の結果を見るまでもなく、人間の仕業とは思えないからな。まあ細かいところは、結果を待つ必要はあるが」
「調書にそんなこと書くのだけはやめてくださいよ? また何を言われるか……」
谷山はそこまで言うと、再び寝息を立て始めた。
「事実なら、書くしかない。理解できなくてもな」
伏見は独り言のように呟くと、横になって目を閉じた。
第2話
-1-
伏見は、明け方までに調書の第一報を書き上げると、仮眠室に向かった。室内は静まり返っており、廊下から入ってくる明かり以外、光源となるものはない。
「伏見さん、まだ起きてたんですか……?」
先に仮眠室に来ていた谷山が、かすれた声を出した。
「まだ寝てて大丈夫だぞ」
「今まで、調書を……?」
「ああ」
「珍しいですね、そんなやる気だすの」
「否定はしないが、一言余計だな」
「気になるんですね、今回の件は」
「司法解剖の結果を見るまでもなく、人間の仕業とは思えないからな。まあ細かいところは、結果を待つ必要はあるが」
「調書にそんなこと書くのだけはやめてくださいよ? また何を言われるか……」
谷山はそこまで言うと、再び寝息を立て始めた。
「事実なら、書くしかない。理解できなくてもな」
伏見は独り言のように呟くと、横になって目を閉じた。
二時間ほどして、重い体をシャワーで強引に起こし、捜査一課の部屋に行くと、谷山が欠伸をしているのが見えた。
「おはよう、谷山」
「あ、おはようございます、伏見さん」
灰色の机とノートパソコン、入口から見て右奥にあるソファとテーブル、その前に置かれた34インチのテレビ。タバコの臭いがしないことを除けば、古い刑事ドラマに出てくる部屋とほとんど変わらない風景。
ただ一つ、違いがあるとすれば、伏見のデスクには、犯罪心理学などの実用的な本以外に、都市伝説や妖怪に関する本が並んでいることで、最初にそれらを目にする刑事は、ほぼ例外なく首を傾げるが、警部補という立場の伏見に、ほとんどの刑事は口を閉じる。
上は、仕事さえしていればいいという考えなのか、片付けろと言われたことはなかった。もっとも、言ったところで片付けないことは分かっているから、という可能性もあるが、伏見にとってはどうでもいいことだった。
「あと10分もしたら解剖の立会いだ。おまえも来るか? 谷山」
「ああ~……行きたいのは山々ですけど、聞き込みに行かないと」
「他の人間に任せてもいいぞ」
「いえ、やはり現場を確認した人間が行くべきかと」
「……分かった、じゃあそっちは頼む」
「何か言いたそうですね」
「まあな。けど、気持ちも分かる」
伏見は、給湯室まで歩いて熱めのコーヒーを淹れると、ゆっくりと体に流し込んだ。
「さて、行くか」
カフェインで覚ました体に芯を通すように呟き、警察署に併設されている建物に向かった。伏見が所属する山城警察署の刑事たちの間で、”病棟”と呼ばれているその建物は、司法解剖をするための部屋が二つあり、その他の三部屋は、薬品や備品が置かれている。かなり年季が入ってきているため、近々建て直す予定と聞いてから、一年が経過していた。
「よう、伏見さん。おはよう」
遺体が安置されている部屋に入ると、沢口が右手を上げた。
沢口は、年齢は52歳、身長163cm、小太りで、気のいいオッサンといった感じの風貌をしている。楽しいものを見に来たわけではないはずだが、その顔を見ると、何となく体の力が抜ける雰囲気がある。
「おはようございます、沢口さん」
「お? 谷山くんは一緒じゃないのか?」
「聞き込みに行きました」
「ああ、なるほど。いい理由だね(笑)」
沢口は白い歯を見せた。
「じゃあさっそく、始めようか」
「ええ、お願いします」
沢口はレコーダーをオンにして、遺体の情報を話しながら、メスを入れていく。切り離された……というより、引きちぎられた足は、定位置にあるが、当然のことながら繋がってはいない。昨日現場で見たときとは、また違った異様さがある。
「凶器が分からないね」
手袋を外しながら、沢口が言った。
「ナイフでも、包丁でも、ナタでもノコギリでもない」
「じゃあ、どうやって足を?」
「ありえないことだけど」
「……」
「小さな人形の足を取るみたいに、手で掴んで引っ張った。といっても、ただ下に引っ張ったわけじゃなく、捩じ切るようにして引っこ抜いた、という感じだね」
「一応聞きますが、たとえば巨大な動物に食いちぎられた、ということは?」
「ないね。足には、何かが刺さったような傷はないし、遺体だけを見るなら、倒れた被害者の足を掴んで捩じ切った、だね」
「なるほど……」
「人間にできることじゃないけど、人間が手で掴んでやった以外の方法が見当たらない。厄介な事件になりそうだね」
無造作に足を掴んで捩じ切る……伏見は、いくつかのイメージを頭に浮かべたが、どれもB級ホラーのようなもので、リアリティはなかった。常識に縛られるのはマイナスだが、常識の外でも説明が難しい。
「さて、どうするかな」
このまま遺体と一緒にいても進展はない。
伏見はそう判断すると、沢口に礼を言って部屋を出た。
-2-
テケテケの話を聞いてから三日目。
瑞江は少し寝不足で、奈々と葉子にもからかわれたものの、できるだけ会わないようにして、やり過ごしていた。
(今日で三日目……)
バイトで少し遅くなり、辺りはすっかり暗くなっている。といっても、まだ仕事帰りの人が歩いているような時間だから、怖いという感覚はなかった。人が多い場所は好きではないが、今はそれが安心できる。
「ただいま~」
「あ、おかえり、瑞江」
家に帰ると、慶子は出かける服装で、何やらバタバタと動き回っており、瑞江は首を傾げた。
「どこかいくの?」
「私のクライアントでね、14歳の女の子がいるの。ずっと引きこもりだったんだけど、何度も話して、ようやく明日から学校に復帰することになってたんだけど、急に行かないって言いだしたらしくて。
その子のお母さんから連絡がきて、急で悪いけど来てほしいって言われたから、これから言ってくるわ。その子のこと、放っておけないしね。あ、夕食は用意してあるから」
慶子は一気に話すと、入れ違いのようにして家を出ていった。
(引きこもりか。私も学校嫌だって休んだことあったな。嫌なことばかりなのに、なんで行かなきゃいけないのって)
子供の頃の記憶をぼんやりと浮かべたまま、静まり返った家の中で一人、夕食を食べた。一人で食べることは慣れているから、それ自体はどうということはなかったが、なんとなくテレビをつけて、静けさを消した。風呂に入り、いつもの勉強が終わる頃には、23時を周っていた。
(お母さん、大丈夫かな)
ベッドに潜り、少しの間スマホを見ていたが、慶子からの連絡はなく、瑞江は「先に寝るね」とだけメッセージを送り、スマホをテーブルに置くと目を閉じた。
「……?」
どれぐらい時間が経ったのか、ふと目を覚ますと、違和感を覚えた。
部屋がいつもと違う。
今目の前に見えるのは壁だが、背中を向けているほうに、何かがいる。見られている……そんな気がした。
「お母さん?」
顔を壁に向けたまま呟く。
返事はなく、相変わらず視線だけを感じる。
心臓が早くなり、体が身を守ろうと、縮こまっていく。
(見ちゃダメ、反応しなければ消えるって、前にどこかで聞いたことがある……大丈夫、そのうち……)
体が震えているのを気づかれないように、両手を回して体を押さえる。
「呼んだのは、あなた……?」
「……!」
聞いたことがない声がして、瑞江は思わず「ひっ」と声を上げた。
『テケテケは上半身だけのお化けで、昔、真冬の北海道で踏切事故で死んだ女子高生がいて、上半身と下半身が切断されたんだけど、あまりの寒さに血管が収縮して、即死せずにしばらく生きていたの。
その無念と苦しみが霊になって、テケテケの話を聞いた人のところに、三日以内に現れるのよ……そして、上半身と下半身を切断されるか、足を引きちぎられてしまう……』
葉子の話が脳内で再生される。
いるわけがない、あれは作り話、妙子が言っていたように、何十年も前からある都市伝説……だから心配ない、でももし誰か知らない人が侵入してるのだとしたら……瑞江は勢い、布団から顔を出した。
喉から出かかった悲鳴は、音を失った。
自分が見ているものがなんなのか理解できず、言葉が出てこない。
部屋の中央あたりに、見たことがない少女がいる。セーラー服を着ており、肩の辺りまで伸びた黒髪が、風もないのにかすかに揺れている。一見すると、街で見かける女子高生だが、その少女は、下半身がなかった。立っているように見えるのは、宙に浮いているからで、その視線は冷え切っている。
『そして、上半身と下半身を切断されるか、足を引きちぎられてしまう……』
三日前に見たニュース……猟奇殺人……犯人はまだ捕まっていない。もしこの少女がテケテケなら、私は……
「あなたが、私を呼んだの?」
動けずにいると、少女は言った。
「よ、んだ……?」
ようやく出てきた声は、風邪をひいたときのようにかすれている。
「呼んでないの?」
「呼んだって、なんのこと……?」
少女の悲しげな声に、瑞江は反射的に聞き返した。
「違うのね」
少女は首を横に振った。
「あなたは、誰……?」
瑞江は聞いた。
「私は、あなたたちが”テケテケ”と呼んでいる存在……幽霊でも妖怪でもないもの……」
瑞江は、理解が追いつかなかった。
今見えているものが、夢ではないのは分かっていた。幽霊や妖怪がいるわけがない……無意識に否定しても、見えているものを、脳は現実だと認識している。
現実の世界で、下半身がない少女が目の前にいる。少女は自分がテケテケだと言う。しかしそれは、都市伝説で語られる姿とは違っている。
「幽霊でも妖怪でもないって、どういうこと……?」
「死にきることもできず、妖怪にもなれないまま、留まっているもの……たぶん、そういうもの」
「留まってる……? あなたは、本当にテケテケなの……?」
「なぜそんなことを聞くの?」
「だって……私が聞いたテケテケの話は、その……話を聞いた人のところに三日以内に現れて……」
「その噂は、私も知ってる」
少女は言った。
「だから私は、中途半端な存在なの」
瑞江は、いつの間にか自分の中から、恐怖が薄れていることに気づいた。確かに姿だけを見れば、理解を越えた存在で、恐ろしくもある。だが、足が不自由な人と考えれば、上半身だけで動くことはおかしくない。こじつけのようにも思えたが、そう理解すると気持ちが落ち着いた。
「あなた、名前は……?」
瑞江が聞くと、少女は目を丸くした。
「名前? 私の?」
「うん。テケテケじゃなくて、本当の名前。私は、真中瑞江っていうんだけど、そういう……」
「……原西由美」
「由美さんっていうんだね。いいね、素敵な名前」
「あなたは、私が怖くないの?」
「怖いよ、だって……ううん、でもこうやって、普通にお話できるから」
瑞江は掛け布団をどけると、床に足をつけてベッドに座った。
「テケテケの噂と、目の前にいるあなたは、姿形が同じだけで、それ以外は全然違う。あの、よければ話、聞かせてくれる? 幽霊でも妖怪でもない存在……私を呼んだっていうのも」
由美はしばらく、瑞江を見ながら、不思議そうに首を左右に傾げていたが、やがて口を開いた。
「ごめんなさい、今までそんなふうに言われたことなくて……」
「由美さんを呼んだ……人に?」
「私にも、仕組みみたいなものは分からないんだけど、私の存在を信じて、強い恐怖を持ち続けてる人に、私は呼ばれているように感じるみたいなの。最初は、私を成仏させようとしてる人が呼んでくれてるのかと思ったんだけど、違うって気づいて、でももしかしたらって……」
「だから、私のところに……」
「うん」
「じゃあ、幽霊でも妖怪でもない……っていうのは?」
「人は、死ぬとそのまま”あの世”に行く場合と、この世に留まってしまうことがある。留まってしまったのが、幽霊って呼ばれる存在」
「由美さんは、留まってしまった……?」
「うん。テケテケの噂で、電車に轢かれてって、あるでしょ?」
「うん……」
「あれは、本当なの。電車にってところだけは……それで私は、この姿に……でもあのとき、私は自分が死んでしまったのが分からなくて、動かなくなってる自分の体を、見下ろしてた。今の姿で、今の姿の体を」
「それって、幽体離脱、みたいなもの?」
「たぶん。
状況が理解できなくて、助けを呼ぼうにもどうすることもできなくて、電車の運転手が出てきて、頭を抱えてどこかへ行ってしまって……そうしたら突然、黒い服を着た人が現れたの。宙に浮いて体を見下ろしてる、私の隣に」
「え……?」
「その人は私に、”死に損なったか”って言った」
「死に損なったって、留まってしまった……ってこと?」
「うん、そう言われた」
「その、黒い人は……?」
「死神の使い」
「死神? なに、それ……」
「私にも、はっきりは分からない。黒い人の話だと、あの世っていうのは、人間が思ってるような、天国とか地獄があるわけじゃない、あの世という世界があるだけだって。それで、あの世を管理してる人? なのかな。それが、死神」
「あの世っていう世界……私たちが生きてる世界とは、別の世界……?」
「たぶん。でもどういうものかまでは……」
「そっか……あの、由美さんが電車に轢かれたのは、事故……?」
「……」
「ごめんなさい、答えたくないなら……」
「イジメにあってたの。私、小さい頃にお父さんもお母さんも事故で亡くして、おばあちゃんの家で育てられたんだけど、そういうのもあって……」
「ごめん……あ、私もね、五歳のときに、お父さんが……だから、お母さんと二人なの」
「ちょっと似てるね」
「あ、うん……!
あのね、もう一つ聞いてもいい?」
「なに?」
「由美さんは、もうあの世には行けないの?」
「……もう一度死ねば、行けると思う」
「え、もう一度……?」
「私はもう、人間でも、幽霊でもない。でも妖怪でもなくて……妖怪になりかけみたいなもの、みたい」
「これから妖怪になる……?」
「たぶん……もうほとんどそうなんだけど、噂を受け入れてないから」
「ごめん、どういう意味?」
「テケテケの噂。今も自分の下半身を探して彷徨ってて、人を襲って殺してしまうっていう噂。私は、そんなことしたくない……」
「それを受け入れたら、妖怪になるってこと……?」
「分からない。でも、噂を受け入れなかったとしても、私はテケテケとして存在してる。だから影響は受ける、たぶん、噂……言霊の力とか、そういうのに」
「人の噂が言霊になって、影響を与えてる……」
「たぶん。分からないけど」
「でも……」
「……?」
「そうだとしたら、私が聞いたテケテケの話と、今お話してる由美さんは、全然違う……同じなのは、その姿だけ……」
「言霊の力が妖怪を生み出してしまうのは、たぶん本当。私がそうだから。でも、噂通りに振る舞うかどうかは、自分次第なんだと思う。
人が噂を恐れる量が増えれば、幽霊も妖怪も影響を受けるけど、振る舞いをコントロールされちゃうわけじゃないんだと思う。だから私も……あなたが知ってる噂とは違う」
「そうなんだ……なんか不思議だね。私たちが知らない仕組みみたいなものがあるんだと思うけど、でも由美さんがそう思うなら、それでいいんだと思う」
「……ありがと」
「なんだか、ホッとしちゃった」
「ホッとした?」
「うん、そう。
テケテケの噂を聞いて、由美さんが現れて、私、殺されちゃうって思ったから……でも由美さんは優しくて、お話もできる……境遇も、少し似てるし……あ、ごめん、由美さんのほうが苦しかったと思うんだけど、その……」
「ううん、ありがと。
……瑞江さん」
「瑞江でいいよ。私も、由美って呼んでいい?」
「え? ……うん」
瑞江の中から、恐怖は完全に消えていた。
由美は、姿かたちだけを見れば、普通の人間とは違うが、どんな形であれ存在していて、話をすることができる。怖いのは最初だけ……
二人は、最初はぎこちなく、お互いの名前を呼びながら、お互いの人生について話した。あまり明るいものではなかったが、理解し、共感し、時間は過ぎていった。やがて慶子が帰ってきて、二人は一瞬、会話を止めたが、慶子が自室に入ると再び話し始め、朝の四時になる頃には、古くからの友人のようになっていた。
「ふあぁ……明日も学校だし、そろそろ寝なきゃ(笑)」
「あ、そうだよね(笑)
ごめんね、ずっと喋っちゃって」
「ううん、楽しかった。また話せる?」
「うん、もちろん。
……ありがと、瑞江。私、こんなふうに誰かと、いろんなこと話したことなかった。人と話すのって、楽しいんだね」
「話す相手による(笑)」
「そうだね(笑)」
連絡先の交換ができない代わりに、二人はお互いの手を取って、また夜に会う約束をした。由美の手はひんやりしており、人間とは違うのだと、瑞江は思ったが、些細なことだとも思えた。
由美が部屋を出ていくと、瑞江はベッドに潜り、三時間ほど眠ってからリビングに顔を出した。
「おはよう、瑞江」
「お母さん、おはよう。昨日遅かったんでしょ? もう起きたの?」
「うん、習慣でね(笑)」
「クライアントの子、学校行けそう?」
「うん、さっき連絡がきてて、学校には行ったって」
「そう、良かったね」
「話をしてると落ち着いてきて、大丈夫ってなるんだけど、私が帰ろうとすると泣き出しちゃってね。眠るまで待って、それから帰ってきたわ」
「本当に、大変だったね……その子の両親はどうしてたの?」
「父親のほうは出張でいなくて、母親は最初のうちはそばにいたけど、途中からいなくなって、そのまま寝てしまったみたい。だから書き置きして帰ってきた。子供より、親をカンセリングしたほうがいいのよね、本当は。受け入れてくれないけど」
「お疲れさま……今日は仕事ないんでしょ?」
「うん。でも、瑞江と一緒に朝ご飯は食べようと思って。今作ってるから、他のことしてていいわよ」
「ありがとう。食べたら寝てね(笑)」
「そうする(笑)」
シャワーを浴びて、朝食を食べても、まだ眠気は取れなかったが、気分はいつもより明るく灯っていた。学校に行けないという子供のことを言えないぐらい、行くのが辛いと思うことがある。理由は分かっていたが、今はそれさえも、どうでもよく思えた。なんでも話せる相手が二人もいる。それだけで、十分だった。
第3話
-1-
「目撃情報はこれだけか?」
谷山からの報告を受けると、伏見は顔を上げた。
「夜中ですからね。それでもいただけ良かったかなと」
「まあな」
遺体が発見された周辺の目撃情報は二件だけで、数としては乏しかったが、ともに”女を見かけた”というもので、特徴も一致していた。
「髪はミディアムボブぐらいですね、目撃者二人の話からすると。細身で、赤い服。顔まではハッキリ分かりませんけど」
「周辺にあるコンビニの防犯カメラとかには? 近頃は個人宅でも付けてる人もいるだろ」
「はい。周辺は夜になると真っ暗っていうか、死角になるような場所もあるので、町内会の中で取り決めて、一部の家にはカメラが設置されてますが、どこにも映ってませんでした。避けて通ってたとしたら、あの辺りを熟知してるってことですかね」
「そうなると町内の人間が一番怪しいってことになる」
「近所付き合いのもつれ、とかですかね」
「人を殺人にまで駆り立てる何かは、長い時間をかけて蓄積されることもあるしな。けど、あの殺し方は異様だ。怨恨とも違う気がするしな」
「司法解剖の結果を見ると、ますます分からなくなりますね」
「ああ。どうやればあんな殺し方ができるのか……被害者は殺されるような理由がありそうか?」
「いえ、これといって。独身で、恋人もなし、女性関係でのトラブルもありません。飲むのは好きだったようで、よく飲み歩いてたみたいですけど、店とトラブルを起こしたこともないし、仕事も、出世とは無縁だったみたいですが、真面目にこなしていたようです」
「最初から手詰まりだな」
伏見はため息をついた。
現場にも遺体にも、犯人に繋がりそうな証拠はなく、殺害の方法が特殊なので、それが最大の証拠とも考えられるが、世界一の怪力を連れてきても再現できないやり方は、常識的な思考では答えにたどり着けない気がした。
「またおかしなこと考えてます?」
谷山が呆れるように言った。
「どうかな。まあひとまず、目撃された女を探してみるか。もしかしたら、殺人は続くかもしれないし」
「連続殺人になりえるってことですか?」
「今のところ、怨恨の可能性は低いし、あの殺し方だ。日本にはあまりいない、猟奇的な連続殺人犯かもしれない。しかも犯人は女だ、目撃された赤い服の女が犯人なら、だけどな」
「レア中のレアですね、もしそうだったら」
「そういうことだ」
伏見は立ち上がった。
「どこか行くんですか?」
「現場周辺をもう一度調べてみる。一緒に来るか?」
「なるほど、はい、行きます」
現場に向かう車の中で、伏見は”常識の外”を考えていた。
あんな殺し方は、人間にはできない。伏見にとって、そう考えることは違和感のあることではなかったが、当然、大半の人間には理解されないことでもある。
(あの人なら、どう考えたかな)
「え? 何か言いました?」
「いや、なにも」
伏見は首を横に振って窓を開けると、思考を再開した。
-2-
「はぁ、つまんないね。
葉子、なんか面白いことないの?」
奈々は、テーブルに置いたスマホを弄りながら言った。
「人に聞かないで、奈々も考えなよ」
葉子は、少しふやけてしまったポテトをかじって、頬杖をついている。
学校の最寄り駅前にあるファーストフード店に入ってから、かれこれ二時間は経っていたが、二人は何をするでもなく、スマホを弄り、時々話し、時間を溶かしていた。
「あれ? 奈々、今日バイトじゃなかった?」
「ああ、なんかダルいから休むって連絡した」
「また? そろそろクビになるんじゃない?」
「だって、安藤の講義しんどいんだもん。アイツ、すっごい細かく見てるからさ、いい感じでサボれないし」
「それは言えてる」
「でしょ?」
「あ、そうだ」
葉子は突然頬杖を解いて、体を上げた。
「なに? びっくりするじゃん」
「真中はどうなったかな?」
「どうなったって?」
「ほら、テケテケの話したじゃん。あの後どうなったかなって」
「知らない。でも死んだって話聞かないし、生きてんじゃない?」
「ちょっと確認しに行こうよ」
「え? これから?」
「うん、そろそろ講義終わるでしょ? あの子真面目だから、ちゃんと最後までいるよ」
「でも、行ってどうすんの?」
「決まってんじゃん。様子見て、まだビビってたら煽るのよ。面白いじゃん」
「あんたってほんと性格悪いよね~(笑)」
「何いってんの。奈々だって楽しんでるくせに(笑)」
「まあね(笑)」
二人は、残ったポテトを流し込むように食べると、学校へ急いだ。
「じゃあ、また明日ね」
瑞江は、妙子に手を振ると、バイト先へ向かった。午後の実技は体力を使ったが、今日は朝から調子がよく、あまり疲れはない。由美のおかげかもしれない……そう思うと、少し頬が緩んだ。
「お疲れ様、真中さん」
「……!」
背後から急に声がして、反射的に直立不動になった。
振り返ると、ニヤニヤと、ベトつくような笑みを浮かべた奈々と葉子がいて、瑞江は体が固くなった。
「江守さん、小泉さんも……なに?」
「なに? じゃないよ。ねえ、テケテケはどうなった? 来たの? 真中さんところに」
「来ないよ。来るわけないでしょ、そんなの」
「今来てないだけで、これから来るかもよ? たとえば今夜とか……」
「来たって大丈夫。
私、用事あるから、これで……」
「ずいぶん強気じゃない。何かあったわけ?」
「何もないよ。ただ、都市伝説なんて信じてないから」
「あらそうなの? でもその割には、こないだ話したとき怖がってたじゃん」
「そんなことないよ……じゃあ、私急ぐから。
さよなら」
瑞江は二人に背中を向けると、早足でその場を離れた。
由美のことを、二人に話すつもりはなかった。テケテケはあなたたちが言うような存在じゃないと、否定したい気持ちもあったが、話したところで、きっとろくなことにはならない……
背後から何やら声がしたが、無視して先を急いだ。
「なにあれ」
奈々は不満そうに言った。
「何かあるわね、あの態度」
「どうする?」
「何があるのか分かんないけど、あの態度は許されないよね」
「同感」
「畑中くんに話そう」
「あ、いいね」
二人は学校を離れ、タクシーを拾いやすそうな場所まで歩くと、スマホを取り出した。
『奈々か。どうした?』
「今話せる?」
『いいぞ』
「こないだ話したじゃん、真中のこと」
『ああ、なんか面白いことになったか?』
「それがね……」
奈々が先程のやり取りを話すと、畑中は「ふ~ん」と言ってから、沈黙した。
「あ、ごめん、なんか悪いこと言った……?」
『いや、考えてたんだ。
なるほどな、あの真中が。そりゃあお仕置きが必要だな』
「あ、やっぱりそう思う?」
『ああ。そんな態度は許されねぇ。しっかりお仕置きしねぇとな。立場をわきまえるように』
「何をするの?」
『は、電話じゃ話せねぇよ。こっちに来れるか?』
「うん。葉子も一緒だから、二人で行くよ」
『おう。じゃあ後でな』
奈々は電話を切ると、葉子を見た。
「面白いことになってきたよ」
二人は急ぎタクシーを拾うと、畑中の家に向かった。
-3-
「ただいま~」
「おかえり」
辺りがすっかり暗くなった頃、バイトを終えて家に帰ると、慶子が夕食の支度をしていた。疲れた体に、刺激的な香辛料の香りが触れると、胃袋が音を立てた。
「今日はカレー?」
キッチンを覗き込む。
「そうよ。まだもう少しかかるから、お風呂入ってきたら? 沸かしてある」
「ありがと、そうする。
お母さんは、疲れは取れた?」
「バッチリよ。たくさん寝たからね」
「良かった」
部屋に入ると、由美がベッドの横にいるのが見えた。暗い部屋の中にいたから、一瞬ビクっとしたが、由美が申し訳なさそうな顔をしているのを見ると、自然、口元が緩んだ。
「ただいま、由美」
「おかえり、瑞江。
ごめんね、勝手に入らせてもらってて……」
「いいよ、気にしないで」
棚の上にバッグを置くと、ベッドの上に腰を下ろした。
「今日は今ままで、何してたの?」
「えっとね……」
瑞江に聞かれて、由美は答えかけたが、言葉を止めた。
「どうしたの?」
「帰ってきたばかりで疲れてるでしょ? お風呂入ったりご飯食べたりしてきて」
「あ、うん……でも、ちょっと時間かかっちゃうかも……」
「時間かけていいの。私はのんびり待つから」
「分かった……あとで、いっぱい話そう」
「うん」
瑞江は、弱い笑みを浮かべると、着替えを用意して風呂に入り、母親との食事を済ませると、片付けを手伝ってから部屋に戻ってきた。
「おまたせ」
ベッドの上に座り、由美は窓際の壁に背中をつけて、二人は、今日一日のことを話した。
「それでね……」
「看護学校で、そういうことするんだね。大変そう……」
昨日何時間も話したのに、今日のことだけで、話は尽きなかった。最初に出会ってから一週間が過ぎても、話は尽きることはなく、瑞江の睡眠時間を心配した由美の気遣いで、一日の会話時間は減ったものの、二人にとっては、一日の楽しみになっていた。
結果的に、瑞江は以前より雰囲気が明るくなり、講義も、以前は真面目一辺倒だったものが、楽しめるようにもなってきて、周囲が話しかけてくれることが増えた。それを由美に話すと、由美は自分のことのように喜び、瑞江とって由美は、かけがえのない存在になりつつあった。
「最近楽しそうね、真中さん」
講義を終えて学校を出たところで、奈々が声をかけてきた。隣には葉子もいる。
「別に、そんなことないよ」
「そう? でも最近、真中さん明るくなったって評判よ? 何かあったって考えるのが自然でしょ?」
「だから、何もないって……」
「イラっとすんだよね、その態度」
「そんなこと言われても……」
「真中さんがそんな態度だと、私たちも考え方を改めないといけないじゃん?」
葉子が言った。
「なに、どういうこと……?」
「よう、真中。久しぶりじゃん」
「……!」
センター分けの、目が隠れるぐらいのベージュブラウンの髪、左耳にシルバーのピアス、オーダーメイドの高級スーツに、金色の時計……その男の顔を見た瞬間、瑞江の体は硬直して、震えだした。
「やっぱり畑中くんは苦手みたいね。顔がひきつっちゃってるじゃん。ウケる(笑)」
「な、なに……?」
「いやなに、奈々と葉子がさ、最近真中が冷たいって言うから、どんな様子なのかと思って見に来たわけよ。親心って感じ?」
「別に、冷たくなんて……」
「そうかぁ? さっき話してるのを見てたけど、冷たいって感じたぞ、俺は。
そこでだ、俺は考えたわけだよ」
「なに、なにを……」
「俺たちは、元の従順な真中に戻ってほしい……奈々も葉子も、俺もな。だから、どうすればそうなってくれるかを考えたんだ。大変だったんだぞ、あれこれアイデア出して」
「……」
「なんだよ、顔色が悪いな。
でもまあそうか、忘れられぇか。俺も覚えてるぞ。おまえ、中々良かったからな、予想以上に。でも今回は、それだけじゃ面白くないと思ってな。もう一回同じことしてもつまらない。そこでだ、今回はおまえの母親も一緒にやることにした」
「え……? どういう、意味……?」
「そんな難しく考えんな。そのままの意味だよ。おまえの母親、慶子っていったっけ。けっこう綺麗じゃんか。色気があって、ああいう熟女も悪くない。だから、たっぷり楽しませてもらおうと思ってな」
「そんな……やめて!!! 私はなんでもするから、お母さんは……!」
「おうおう、必死だな。
でもダメだ。これは決定事項だ。分かるよな? 俺が決定と言ったら、誰がなんと言おうと決定なんだ。それより、今の言葉忘れるなよ? なんでもするってやつ。楽しみにしてるからよ」
「やめて……お願い……」
焦点の合わない目で体を縮めている瑞江を、奈々は鼻で笑った。
「諦めなよ。
あんたがどう足掻いたって、畑中くんには敵わない。次元の違いってやつ? 馬鹿よねぇ、歯向かわなければ、こんなことにならなかったのに(笑)」
葉子も笑った。
「根暗で貧乏なくせに歯向かうからよ。馬鹿じゃない?(笑)」
「……」
「黙っちゃった(笑)
ウケるんだけど。分かりやすい反応」
「テケテケの話してビクビクしてたときと同じような顔してる。テケテケなんているわけないでしょ(笑)」
「テケテケはいるわ……」
「は? 何いってんの?(笑)」
「……」
「ショックで頭いっちゃったんじゃない? でもさぁ、今ぐらいでショック受けてたら、この後どうなっちゃうだろうね。まだいつって決まってないけど、せいぜい数日ってところだと思うよ」
「がんばってね~」
奈々と葉子が笑いながら歩いて行くのを見ながら、瑞江はポツンと、佇んでいた。体の震えが止まらず、寒さから身を守るように体を押さえる。頭は真っ白で、地面が周って見えて、倒れそうになった足になんとか力を入れると、近くにある電柱に片手をついた。
「はぁ、はぁ……」
意識しなければならないほど、呼吸が苦しい。
道行く人の何人かが、「大丈夫ですか」と声をかけてくれたが、かすれた声で「大丈夫です」と返すのがやっとで、数分の後、ようやく歩けるようになって、駅までゆっくりと足を進めた。
「すみません、突然で申し訳ないんですけど、体調が悪くなってしまって、今日はお休みをいただけますか……?」
自宅の最寄り駅に着くなり、バイト先に電話をかけた。
『めずらしいね、体調不調なんて』
バイト先の店長は、電話の向こうで不安を滲ませた。
『大丈夫だよ。ゆっくり休んで。こっちこそ、ちょくちょくフォローしてもらってるから、今日は俺が頑張るよ』
「ありがとうございます……」
電話を終え、スマホをポケットに入れてから、足を引きずるようにして家に帰った。
「ただいま……」
オレンジの色の光が差し込む家の中は、静まり返っていた。慶子が仕事なのは知っているし、この時間に帰っていることもあまりないのも分かっている。だが、靴を脱いでスリッパを履くと、足の力が抜けて膝をついた。同時に、涙が溢れて止まらなくなった。
「なんで……なんでこんなことに……」
どうすればいいのか……必死に考えても、光が見えてこない。
慶子に状況を伝えればいいだろうか? しかしそんなことをしても、信じてもらうのは難しいだろうし、そのことを話すには、自分がされたことを伝えなければいけなくなる。伝えることも怖かったが、それ以上に、話を聞いた慶子が、どれほど傷つくかと思うと、言う気になれなかった。
妙子に相談することも浮かんだが、相談したところで、どうにかできるものじゃない。それどころか、巻き込んでしまうことで、妙子にまで何かあったら……
警察に相談するとしても、今はまだ何も起こっていない上に、ハッキリと、それと分かることを言われたわけじゃない。そんなことは言っていないと誤摩化されたらそれまでだし、畑中の父親は、警察の上層部と繋がりもあるから、過去のことを話したとしても、うやむやにされる……
考えれば考えるほど、絶望の色は濃くなっていく。
ようやく涙が止まり、顔を洗って呼吸を整えると、自分の部屋に戻った。
「瑞江、どうしたの……?」
部屋に入ってきた瑞江を見るなり、由美が言った。
「なんでもないよ、少し疲れてるだけ……」
笑顔がぎこちないのは、自分でも分かった。
「本当に?」
「うん、ごめんね、心配させちゃって。夕飯まで、少し寝るね。あ、本棚にある本、自由に読んでいいからね」
瑞江は早口で言うと、ベッドに潜り込んだ。由美は何か言いたそうな顔をしていたし、ベッドの中から瑞江がすすり泣く声も聞こえていたはずだが、それ以上詮索はせずに、瑞江の手をそっと握って、黙っていた。
第4話
-1-
「収穫なしでしたね、今日も」
山城警察署に戻る車の中で、谷山は言った。
「そう言うな。捜査っていうのはそんなもんだ。地味で、自分たちが向かっている先が正しいのかどうかも分からない。これが正解だと思って進んでも行き止まりだったとか、落とし穴に落ちたなんてケースも珍しくない」
「それはそうなんですけど……だとしても、手がかりがなさすぎませんか?」
「まあな」
このまま捜査を続けても、おそらくは事件は解決できない……伏見はそう感じていた。犯人が次の事件を起こせば別だが、それでは解決しても意味がない。現時点でできることは……
「谷山」
「はい」
「俺はここで降りる」
「え? 降りるって、事件の担当から外れるってことですか?」
「なんでそうなる(笑)
車から降りるってことだよ」
「あ……ですよね、すみません。
どこか行くんですか?」
「古い知り合いに会いにな」
「……?」
「捜査の一環だ。このままじゃ、解決の糸口が見えない。だからできることはやろうと思ってな」
「情報屋に会う……?」
「半分正解だ。共通の知り合いがいる……いや、”いた”、だな。まあとにかく、解決に役立つ話が聞けるかもしれないってことだ」
「分かりました。じゃあ、次の信号曲がったところで、いったん停めます」
「ああ」
伏見は車を降りると、タクシーを拾って、谷山の車とは反対方面に向かった。
20年ほど前からほとんど変わっていない雑居ビルの間を抜けて、一般人は昼間でもあまり通らない道を歩いていく。
ビルに入っている会社や、建ち並ぶ店は多少入れ替わっているものの、場末のスナック街、昭和の裏町といった雰囲気は変わらず、中には美味い飯屋もあるが、女性を連れてきたい場所ではない。
(こういう場所が不思議と落ち着く俺は、やっぱり変なんだろうな)
そんなことを考えながら、伏見は一軒の店の前で足を止めた。
「おやおや、ずいぶんと久しぶりだね、伏見ちゃん」
骨董品屋、“又兵衛”のドアをくぐると、女店主がメガネを上げながら言った。
「旭子さん、さすがに伏見ちゃんって呼び方はそろそろ……」
「あたしからしたら、親戚の息子みたいなもんだからね、あんたは」
路端旭子(ろばた あきこ)は、怪しげな品々が入ったガラスケースの向こうで座ったまま、笑顔を見せた。
「まあ、それもそうか。最初に会ったのは、俺が高校生のときだし」
「あの頃はあたしも現役だったね。あんたもかわいいもんだった」
「俺からすると、旭子さんはあまり変わってないように見えるよ、当時と」
「お世辞も言えるようになったかい。成長したね~、伏見ちゃん」
「いろいろあったからね」
伏見は、ガラスケースの向かいにある椅子に腰を下ろした。
「でも今日は、昔話をしにきたわけじゃない」
「じゃあ、買い物かい?」
「いや、残念ながら」
「ふふ、分かってるよ。それで?」
「ニュース、見てるか?」
「まあサラッとならね」
「猟奇殺人のニュースは見た?」
「見たよ。物騒な話だね」
「あの事件の捜査をしてるんだ」
「伏見ちゃんがかい?」
「ああ」
「なんとまあ……でもそうだよね、今や捜査一課の警部補さんだ。じゃあ、捜査責任者ってことになるのかい?」
「現場の責任者だよ」
「えらくなったもんだ」
「そんな大したもんじゃないよ」
「それで、その事件がどうかしたのかい?」
「まだそうだと言い切れないけど、どう考えても、人間にできる殺し方じゃなくてね」
「……ほう」
「何か心当たりがないかなと思って」
「心当たりねぇ……何か協力してやりたいところだけど、あれ以来、そういうことに関わることはなくなっちまったからね」
「そうか、まあ、そうだよな……」
伏見は立ち上がると、ガラスケースの上に置いてある、小さな木彫りの置物を手に取った。猫が人間の頭蓋骨の上に乗っている黒い置物で、いろいろなポーズのものが並んでいる。
「そりゃあ、あたしの手作りだよ。骨董品じゃない」
「旭子さんの手作りなのか? いつのまにこんな技術を……」
「こう見えて暇なんでね(笑)」
「自慢げにいうことか(笑)
これ、一つもらうよ。いくら?」
「500万だね」
「500円だな」
伏見は小銭入れから500円玉を出すと、ガラスケースの上に置いた。
「また時間ができたら来るよ」
「まあ、ちょっとおまちよ」
背中を向けかけた伏見に、旭子は言った。
「一つ思い出したことがある」
「なに?」
「何十年も前のことだったと思うけど、首をねじ切られた死体が発見されたって話を聞いたことがある」
「ねじ切られた?」
「そう、人形の首を外すみたいにね、クルッと」
「どこで?」
「そこまでは分からんよ。あたしが生まれる前の話だしね、確か」
「……」
「な~に深刻な顔してんだい。本当かどうかも分からないよ。伏見ちゃんが捜査中の事件と関係してるかもわかりゃあしない」
「噂のレベルってことか。それも、信憑性の薄い」
「わざわざ来てくれたんだから、何かしらお土産を持たせてやろうと思ってね。必死に思い出したんだよ」
「それはどうも」
「もっと詳しいこと思い出せたら、話してやるさね」
「ああ、また来るよ」
「ああ、今度来るときは連絡よこしな。茶ぐらい出してやるから」
「分かった。ありがとう」
伏見は店を出ると、空を見上げた。
日は沈みかけ、遠くに、かすかにオレンジ色が残っているが、あと30分もしないうちに青黒い空に変わるだろう。
「署に戻るか」
呟くと、最寄りの駅に向かった。
-2-
畑中に会ってから、二日が過ぎていた。
あれ以来、奈々も葉子も学校に来ておらず、不気味なほど平穏な時間が続いていたが、瑞江の中に芽生えた不安は、時間が過ぎるごとに心を圧迫していた。
「瑞江、何かあったの?」
夜、リビングのテーブルで食事をしていると、慶子が言った。
「え? 何かって?」
「なんか体調悪そうよ? 大丈夫?」
「うん、平気。ちょっと疲れてるみたい。講義も難しいのが多くて、バイトも忙しかったりで……だからだよ」
「そう。でも、たまにはちゃんと休まないとダメよ? 瑞江はただでさえ頑張りすぎるんだから」
「うん、そうだよね、気をつける……」
胸が、ズキンとした。本当のことを言えない……どうにかしなきゃいけないのに、何も浮かんでこないまま、ただ心配だけさせている……
さらに二日が過ぎた。
何も起こらないまま、静かな時間が流れ、瑞江はいつものように、慶子と二人で夕食を取っていた。
「あ、そうだ」
慶子は思いつたように言った。
「明後日は少し遅くなるかもしれないから、夕飯は先に食べてていいわよ」
「え? どこか行くの?」
「うん、新規のお客さんから依頼があってね。
母親が鬱っぽいから、相談したいって。家を出ることもできないみたいだから、伺うことにしたの。約束が18時からで、少し遠いから、帰りも遅くなると思う」
「それって、どんなお客さん? 名前は?」
「どんなって……連絡してきたのは若い女性よ。メールで依頼がきて、その後電話で話して。母親は52歳って言ってた。名前は……里山さんね。
何か気になるの?」
「ううん、ちょっと、聞いてみただけ……」
慶子は不思議そうな顔をしていたが、瑞江は、嫌な予感がした。
名前は違うが、そんなものは偽名を使えばどうとでもなる。もしかしたら、畑中たちが……
「お母さん」
「ん?」
「その仕事、断れないの……?」
「断る? どうして断るの?」
「その……あのね、まだ言ってなかったけど、明後日、新しい料理を作ってみようと思ってたの。お母さんと一緒に食べようって。ほら、私もバイトだったりで、中々料理作れてないし、だから……」
「それは嬉しいけど、もう約束しちゃったから」
「そう、だよね……ごめんなさい」
「謝ることないでしょ? 瑞江の料理、好きよ、お母さん。だから楽しみにしてる」
慶子が笑顔を向けると、瑞江は俯いた。
「私、そろそろ勉強しなきゃ……ごちそうさま」
立ち上がって食器を片付け、部屋に戻ってドアを閉めた。
ドアに背中をつけたまま、必死に考える。
慶子を止める理由はないか、でも本当に困っている人からの連絡だったら、そもそも畑中たちの仕掛けだという証拠もない、でももしそうだったら……
答えが見つからないまま不安に飲まれて、瑞江は滑り落ちるように座り込むと、涙で肩を揺らした。
「瑞江……」
由美は、瑞江の手をそっと引いてベッドの横まで来ると、今度はふわりと、顔に触れた。
「瑞江、話して」
「え……? 話すって、何を……」
「とぼけないで。何かあったんでしょ? このところずっと、瑞江おかしいもん。今だって……何もないなら、どうして泣いてるの?」
「由美……」
由美が、両手をそっと背中に回して引き寄せると、瑞江はもう、こらえることができなかった。部屋の外に聞こえないように声を抑えても、涙は止まらず、由美の制服を濡らした。由美はその間、一言も発することなく、右手で瑞江の髪を撫でて、左手で手を握った。
「少し、落ち着いた?」
「うん……」
「話してくれる?」
「うん……」
瑞江は頷くと、大きく二回深呼吸をして、由美の顔を見た。
「私……高校三年のとき、同じ高校の男子五人に、レイプされたの……」
「え……?」
「高校三年の夏……お酒を飲まされて……」
「そんな、そんなのって……」
「私はショックで、何がなんだか分からなかった……怖くて、体が震えて止まらなくて、でもアイツら、笑って見てた……何度も、覆いかぶさってきて……私、私は……」
「瑞江、無理しないで、少しずつ、ゆっくりでいいの」
「うん……」
「辛すぎるよね、そんなことがあったら……だから、あまり聞くべきじゃないと思うんだけど、教えて。その時、その場にいたのは男五人だけ……?」
「ううん、女子も二人、いた……江守奈々と、小泉葉子……男は、畑中っていうのと、取り巻きみたいなのが四人……」
「警察には?」
「言えなかった……畑中は、政治家や企業の偉い人とも繋がってる官僚の息子で、もし警察に話しても、圧力をかけて何もなかったことにされてしまう……それに、もし騒ぎになったら、お母さんの仕事にも影響出ちゃうかもって……」
「そんな……」
「私ね、こんな性格だから、友達もほとんどいなくて……でも高校三年の夏に、江守と小泉に、バーベキューしようって誘われて……高校最後の夏だし、他の子も誘ってるからおいでよって言われて、嬉しくなっちゃって……馬鹿だよね、全部ウソだったのに……」
「畑中が、仕組んだことだったの……?」
「うん……私、地味だから目立ってなかったと思うんだけど、畑中は、私に目をつけたらしくて、それで……」
「瑞江……」
「体が引き裂かれたみたいに、もう自分の人生は終わったんだって、そう思って……」
「江守と小泉もその場にいたんでしょ? 何も言わなかったの?」
「喉から血が出るぐらい、叫んだよ、助けてって……同じ女性なら分かってくれるって……でも、江守も小泉も、笑ってた……笑って、スマホを向けて……」
「なんてやつらなの……」
「頭から、すべての記憶を消してしまいたかった……でも消えないの。あのときのこと、今でも夢に見て、起きたとき、心臓が握りつぶされたと思うぐらい痛くなる……絶望の中で生きてるみたいで、死んだほうが楽になれるのにって思う……でも私が死んだら、お母さんが一人ぼっちになっちゃう……」
「ずっと、苦しい思いを抱えてたんだね……でも、そのことだけが理由じゃないでしょ? 最近の変化は……」
「そのとき以来、ずっと会ってなかった畑中が、数日前に急に現れて、それで……」
「それで……?」
「今度は、お母さんも同じ目に遭わせるって……」
「え……?」
「どうして? どうしてこんな目に遭わなきゃいけないの? 私たち、裕福じゃないから、貧乏だから……お金持ちの道楽にされるの?
それに今度は、私だけじゃなくお母さんまで……お母さんは、お父さんが死んでからずっと、一人で私を育ててくれた……弱音を吐いたことはないけど、一人で泣いてるのも見たことあるの……寂しかったはずなのに、再婚だってできたのに、私を気遣って……
もう少しで、私が学校を卒業して仕事を始めたら、やっとお母さんに楽をさせてあげられると思ってたのに、どうしてこんなことに……」
「瑞江……」
「どうにかしなきゃって、ずっと考えるんだけど、どうすればいいか分からないの……! 私なんかの力じゃどうすることも……」
「瑞江、私も一緒に考えるから、諦めちゃダメ。瑞江とお母さんがそんな目に遭うのは絶対おかしい。だから一緒に……」
「お母さん、明後日の夜、初めてのお客さんのところに行くらしいんだけど、すごく、嫌な予感がするの……もしかしたら……どうしよう、お母さん……」
由美は、泣き続ける瑞江を抱きしめながら、自分の中に起こりつつある変化を感じていた。白く、サラサラとした砂に、黒く濁った液体を染み込ませるように、”それ”はゆっくりと、由美の体の中に広がっていった。
今までも、いつでも”それ”に身を委ねることはできた。
しかし、受け入れなかった。
由美自身が、そうなることを望んでいなかった。
だが、今は違う。
大切な友達を傷つけ、さらに深く傷つけようとする人間の”悪意”が、由美の中にあった、”それ”を受け入れないという拒絶の壁を、壊してしまった。
由美は、変化していく自分を冷静に感じながら、ただ静かに、”それ”が体中に満ちるのを待った。
心に芽生えた憎悪と憤怒が、そうなることを、選ばせた。
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