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陰謀論ウィルス 第2話 襲撃(連載小説)
-1-
国崎鎮(くにさき まもる)は、深夜0時を回った今も、家に帰れずにいた。妻にはすでに連絡済みで、二人の子供はもう夢の中。仕事柄、家に帰れないことは珍しくないが、それは一般的なことであり、今の国崎には当てはまらないことで、妻は驚いたが、ニュースを見て察したようだった。
国崎は、自分のデスクに座ったまま、現場から次々にアップされる情報を追いかけていた。周囲では、社会部すべての記者が、忙しなく動き回り、朝刊の準備に追われている。
一般的な会社のオフィスとさほど変わらないそこは、グレーのデスク、書類が収められた棚、パソコン類に電話機、誰かが置いていった小分けのお菓子が入った袋などが見える。書類の中に埋もれている記者もいれば、国崎のように、パソコンとノート以外は手元に置かない人間もいる。
「国崎」
デスクの生駒学(いこま まなぶ)に声をかけられ、国崎は顔を上げた。
「はい」
「記事、書けるか?」
「え? でも……」
「おまえだけに頼むわけじゃない。でも今回のネタ、おまえとしちゃあ他人に任せたくないだろ?」
「……」
「記事の出来次第で、上の評価も変わるかもしれない。うまくいけば、また前線に戻れるぞ」
「……書いてみます」
「よし、あと二時間以内に仕上げろ」
「分かりました」
専用システムに上がってくる情報を追うだけの作業を切り上げ、必要な情報を拾ってまとめると、記事の作成に取り掛かった。
(現時点で死者二名、負傷者八名……)
キーボードを打つ手が震える。
久しぶりだからなのか、憤りなのか、理由は分からなかったが、国崎はモニターに意識を戻した。
「医師の話取れた? よし、その音声すぐに送ってくれ。他は取れてないんだよな? 現場が混乱してるのは分かってるよ。襲撃したほうの話は取れないのか? 警察がいるのは分かってるが……取れた!? 一人だけ……よし、まあいいぞ。明日には家族を当たるからな。情報は全部上げろ」
「……」
「あれ? 国崎さんも残ってたんですか?」
頭上から声が聞こえて、国崎はゆっくりと顔を上げた。
「ああ」
「なんでまた?」
「生駒さんに、記事書いてみるかって言われたんだよ」
「へぇ、意外ですね」
「……」
「だって、もう書いたところで……いや、すみません。先輩に対していうことじゃなかったですね。じゃあ俺、忙しいんで」
国崎の後輩、今西康孝(いまにし やすたか)は、9年前に入社した男で、当初は国崎の下について、記者のイロハを学んでいた。素直で人懐っこい性格は、どんな人間の懐にも入り込みやすく、同期の中で抜きん出る実力をつけながらも、国崎のことを慕っていた。しかし、6年前の”事件”以降、国崎がメインストリートから外れると、その後の対応を巡っても会社側に立って、国崎の言い分を問題視するとともに、自身は着実に出世の梯子に手を掛けた。
「……」
キーボードを打つ手が止まり、右手が無意識に拳を握ったが、すぐに力が抜けた。怒りをぶつけたところで、どうしようもない。立ち向かったところで……
国崎は頭を横に振ると、記事に集中した。この記事がどうなるかは分からない。なんにもならないかもしれないし、転機になるかもしれない。いずれにしてもやることは、集中して、書き上げること。
(あと一時間半ぐらいか)
修正も含めたら、一時間もない。
頭の中に湧き出てくる言葉を、イメージの中で振り払って、強引に記事に意識を向けた。
-2-
今日は遅番だったことを忘れて、寧々はいつもどおりの時間に目覚めた。11月後半の朝7時は、冷え込みも厳しく、目覚めたばかりの空は、ほんのり暗さを残している。だがすぐに、澄んだ空気が気持ちいい、冬の青空に変わる。
(今日はバイトの子の面接が2時から……土曜で混むかもしれないし、通しにしちゃってもいいかな)
ボーっとする頭に浮かんできたものをそのままに、寧々はベッドから起き出すと、歯を磨いて顔を洗ってから、仏壇の前で手を合わせた。
電気ケトルのスイッチを入れ、沸くまでの間、リビングの椅子に座ってスマホを見る。ニュースサイトを開くと、「速報」と書かれた記事が目に飛び込んできた。
『昨夜21時頃、玉丘病院に男5人が刃物を持って現れ、勤務していた医師と看護師を切りつけ、医師1名、看護師1名が死亡、10名が重軽傷を負った。容疑者5人は、通報を受けて駆けつけた警察官に取り押さえられたが、ワクチンで国民を殺そうとする医者と病院に強く反対するという主張を繰り返しており、警察は、反ワクチンを掲げる団体が関わっている可能性があると見て、調べを進めている』
「反ワクチン……」
寧々は、スマホを裏にしてテーブルに置き、ゆっくりと呼吸を始めた。
「大丈夫、大丈夫よ……私は大丈夫……」
呟き、立ち上がって電気ケトルの前まで歩くと、オレンジのフレーバーティーをカップに入れて、ゆっくりとお湯を注いだ。
「……」
カップを鼻のところまで持ってきて、ゆっくりと吸い込む。柑橘系の香りが鼻腔を抜けると、一口飲んで、テーブルに置いた。
記事によると、病院を襲撃したのは、反ワクチンを掲げる「ワクチンから市民を守る会」という団体で、反ワクチン派の代表格である向田桜介(むかいだ おうすけ)に影響を受けているという。向田は関係を否定しているし、病院を襲えなどと指示も扇動もしていないというが、すでに向田の支持者と批判者の間で、激しい舌戦が始まっているらしい。
玉丘病院が襲撃されたのは、今回の襲撃で殺された医師が、SNSでインフルエンザワクチンの接種を呼びかけたことが原因とされる。約一ヶ月前に起こった”噂”によって、ワクチンの接種者が減り、国内の感染拡大を懸念した玉丘病院の医師は、SNSで接種を呼びかけたが、過剰反応した反ワクチンの団体に殺された。
「襲撃は許されることではないが、ワクチンの安全性を証明しきれなかった厚労省側にも問題がある。殺害された医師と看護師は、二重の意味で被害者なのだ……」
記事を声にして、寧々はほとんど無意識に、仏壇のほうに顔を向けた。
この記事を書いた今西康孝という記者は、説明不足と書いているが、そうではない。
三ヶ月ほど前、中国から広がったインフルエンザは、インドでもパンデミックを起こし、日本でも、学級閉鎖や出勤停止といったところが増えた。親の方針で、ワクチンを打っていなかった子供が感染し、後遺症が残るほど悪化したことを受けて、ワクチンを接種する人が殺到。感染拡大は収まったが、一ヶ月前に死者が出た。亡くなった子供の親が、ワクチンに否定的な人間だったため、ネット上で大騒ぎをした結果、ワクチンによって死亡したという噂が爆発的に広がり、ワクチン接種者が減った結果、感染率が再び上がり始めてしまった。
その状況を改善するために、殺された医師は、おそらくは自らの危険を予期しながらも、発信することを選んだ。厚労省も、複数の医療関係者も、ワクチンによって死亡したという証拠はないと、ハッキリと明示していた。実際、そんな事例は他にはなかった。ワクチンが100%安全ということはないだろうが、問題は噂を鵜呑みにして騒ぎ立て、襲撃した人間にある。
寧々は、スマホを持つ手に力が入った。
なぜ、曖昧なことを鵜呑みにして、人を傷つけるようなことをするのか。ハッキリとした根拠もないものを信じて、なぜ人の命を奪うことができるのか……
「人の人生をめちゃくちゃにして、何がワクチンは危険よ、狂信者ども……!」
記事を書いた今西康孝という記者に、見覚えはなかった。SNSで検索しても、名前は出てこない。朝丸新聞という、日本の大手新聞社の一つだけに、現役の記者がネット上で私見を発信して面倒なことになるのを防ぐためかもしれない。
(そういえば昔、朝丸新聞って……)
ふと別の考えが浮かんだとき、時計は8時を回っていた。寧々は、残った紅茶をゆっくりと飲むと、シンクに置いて家を出た。
勤務先のファミレスは、全国にチェーン展開している店で、他のファミレスに比べてメニューは少し高い価格に設定されている。寧々はそこで、以前の仕事のツテで働き始め、今はホールのマネージャーをしている。
「あれ? 夢丘さん、今日遅番でしょ?」
店に着いて着替えを済ませ、ロッカーから出てくると、店長の成瀬寿(なるせ ひとし)が言った。
成瀬は、37歳独身、高校時代のバイトを経て、卒業してから今に至るまで、飲食業界一筋、ブラックな職場を何度も経験して、今の会社に落ち着いた。一時は過重労働やパワハラにも悩んだらしく、顔に刻まれた苦労は、時折実年齢より上のように見えるが、その分落ち着いていて物腰も柔らかいため、学生のバイトにも慕われている。
「おはようございます。
土曜だし、午後には面接もあるから、早めに来たほうがやりやすいかなと思って。もし、勤務時間のことで何か言われるようなら、いったん引っ込みますけど」
「ああ、いや、大丈夫。むしろ助かるよ。なんか今日、朝からお客さん多くて。ありがたくはあるんだけど、バイトの子も、一人は入ってまだ一ヶ月だしね」
成瀬は困り顔の中に笑顔を浮かべた。
「じゃあ、通しにしますね、今日は」
寧々は、ホールの様子を確認しながら、時にバイトに指示を出し、ちょっとした対応の仕方を教え、面接を済ませ、午後3時に遅めの昼休憩に入った。
(だいぶ落ち着いたかな。でもこの分だと夜も……)
厨房を借りて、自分で作ったまかないを食べながら、ブツブツを考えていると、成瀬が休憩室に入ってきた。
「本当に助かったよ、夢丘さん」
「いえ、そんな、改めてお礼を言われるようなことでもないですよ」
「だいぶ落ち着いてきたし、夜のシフトはけっこう厚いから、早めに上がってもらってもいいよ。まあ一応、夕方の状況を見てって感じてお願いできるとありがたくはあるけど……」
「分かりました。じゃあ様子を見て、状況次第でお言葉に甘えます」
「うん、そうして」
成瀬は笑顔を見せたが、何か言い残したことがあるのか、立ったまま天井を見たり、左右の手をウロウロさせている。
「……?」
どうかしましたか、と言いかけたとき、成瀬は、
「ニュース、見た? 今朝、どの番組でもやってた、病院の……」
と言った。
「……ええ、見ました」
「たぶん、その、辛いと思う……だから、もし精神的に厳しいなって思ったら、言って。無理するより、休んだほうがいいから。俺、その分がんばるし」
成瀬はそう言って、右腕に小さな力こぶを作って見せた。
「ありがとうございます。でも大丈夫です。仕事してるほうが、余計なこと考えないで済むし……」
「あ、そっか、そうだよね……ごめん、変なこと言って」
「いえ、お気遣い感謝します」
「そんな硬い感じにならなくていいよ。夢丘さんのこと、頼りにしてるし、俺も何度も助けてもらってるから」
「……」
「じゃあ、この後はさっき話したとおりで。帰るときに声だけ掛けてもらえればいいから。ごめんね、食事中に」
「分かりました」
成瀬が休憩室を出ていくと、寧々は残りの食事を済ませ、コーヒーを淹れた。職場でしか飲まないコーヒーが、いつもより苦く感じる。家のキッチン棚の奥に仕舞われているコーヒーメーカーが浮かんで、頭を横に振った。
「もうひと頑張りしますか」
コーヒーカップを片付けて、ホールに出る。また少し、お客が増えていたが、夕方以降はそこまで増えることなく、寧々は午後7時まで様子を見て、成瀬に声を掛けたあと、店を出た。
(夕飯も食べてきちゃえば良かったかな。でも家の冷蔵庫にも食材が……
……?」
自宅マンションが見える位置まで来ると、何やら人が集まっているのが見えた。
「あ、帰ってきたぞ」
レコーダーらしいものを持った数人が近づいてくる。
寧々の心臓は早くなり、目の前のことを理解しようと、脳が目まぐるしく動いて、体に力が入った。
「東日新聞です。ちょっとお話を聞かせていただけますか?」
「週間現朝です。昨日の病院襲撃事件について一言お願いします!」
パシャリと、光る音がして、寧々は目を細めた。
なぜマスコミが……? と思ったが、数秒後には理解した。
あのときと同じ。
彼らはまた、人の傷をえぐりに来たのだ。
「何も知りません。お話することもありません」
「一言でいいんです。お願いできますか?」
興奮気味の声の中、冷静な声が聞こえて、寧々は振り向いた。
「朝丸新聞です。
昨日の病院襲撃事件、一年前に夢丘さんが遭遇した事件と、本質的には似てます。なぜこういうことが起こってしまうのだと思いますか?」
朝丸新聞というワードに、今朝の記事が浮かんで、寧々は右手に力が入ったが、
「私は何も知りません。なぜそういうことが起こるのか、解明するのはあなた方マスコミのすることではないんですか?」
と言った。
「他の住民の方にもご迷惑がかかるので、帰ってください。私は何も知らないし、話せることもありません」
背中を向けても、まだ声が聞こえて、追いかけてきているのも分かったが、寧々は無視してオートロックを解除すると、監視カメラにチラリと視線を向けてから、中に入った。
「はぁ、はぁ……」
入口から見えない位置まで歩くと、壁に手をついた。
「ゲホ、ゲホ……! はぁ、はぁ……」
吐き気がして、その場で屈みそうになったが、足の親指に力を入れて、歯を食いしばった。
「大丈夫、もう、大丈夫……」
呼吸を整えると、顔を上げて、ゆっくりとエレベーターまで歩き、自宅玄関のドアを開けて鍵を閉めたところで、立ち眩みのようにしゃがみこんだ。
「う、うう……」
頭の中に浮かんだ、いくつもの”一年前”が、感情を溢れさせる。
『お気持ちを聞かせてください!』
『当時の状況について詳しく!』
『犯人の言い分についてどう思いますか!?』
「うるさい……!!」
押し寄せてくる声を振り払うように、寧々はヒステリックに叫んだ。
「なんにも分からないくせに……私の気持ちも、亡くなった人のことも、何も分からないくせに……理解する気もないくせに、なにも……」
玄関で泣き続ける寧々を、慰めるものは何もなかった。
塞がりかけていた傷が開き、絶望が家中に広がっていく。
五感が死んだように、色が消えて、音も匂いもしないリビングで、寧々は倒れるように床に寝転がった。滲む視界の向こうに、卓弥と紗の笑顔が見えた気がしたが、やがて見えなくなった。
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