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野良犬になったウル 第9話 走れ!! ~エピローグ【連載小説】

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目を覚ましたとき、ウルは一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。冷たい鉄の感触、視線の先には、見覚えのない鉄の格子。格子の向こうには、おそらく自分が入っているだろうものと同じ箱が見えて、その中に、見知らぬ犬が体を丸めて眠っているのが見えた。

『そうか、僕は……』

車に乗せられるときに見た、レクスの顔が浮かんだ。
逃がそうとしてくれたジョセフ。ふたりは無事だろうか。

『おまえに心配されるほどヤワじゃない』

レクスの言葉が過ったが、それはより気持ちを重くした。

『おい、あんた』

『……?』

『見かけない顔だな。新入りか』

向かい側の檻、先程まで寝ていたシベリアン・ハスキーが、話しかけてきた。

『うん、来たばかりだと思う。眠ってたから、どれぐらいいるのか分からないけど……』

『そうか。まあ、昨日までいなかったのは確かだ。俺はマグっていうんだ、よろしくな』

『僕はウル』

『ウル、おまえもやっぱり、人間に捨てられたのか?』

『うん……』

『やっぱりそうか……俺もだよ』

『マグさんは、どれぐらいここにいるんですか?』

『10日ぐらいかな。このままだと俺も、近いうちに……』

マグは顔を逸らした。

『近いうちにって、何が……』

『なんだよ、分からねぇのか? 人間どもに殺されるってことだよ』

マグが吐き捨てるように言って、ウルは体がブルリと震えた。
レクスたちも、そんな話をしていた。だが、自分がその対象になっていると思うと、酷く言葉が重く感じた。

『みんな、それぐらいの期間で……?』

『そうだな、最近は入ってくる奴らも多くてな、すぐに場所がなくなっちまうんだよ。そうなりゃあ、餌も大量に用意しなきゃならない。人間の都合なんてわかんねぇけど、たぶんそんな理由なんだろうよ』

『ここに入れられてしまったら、もうどうしようもないの?』

『いや、人間に引き取られる奴も、一部にはいる。けど多くはない。それに引き取られるのは、小型のやつらばかりだ。俺やおまえみたいなでかいのは、まず引き取られない。ガキの頃ならともかく、でかくなっちまったらまず無理だ』

『そう、なんだ……』

二匹の会話が止まると、部屋は静まり返った。他の犬たちにも聞こえていたはずだが、誰も、何も言わなかった。見える範囲でも、数匹が檻に入っているが、誰もがうずくまり、顔を上げようとしない。

(みんな、諦めてしまってるんだ……もうどうしようもないって。どうしようも……)

ウルは、視線のすぐ先にある鉄格子越しに、他の犬たちの思いを感じて、体を横たえた。
レクスやジョセフが、身を挺して守ろうとしてくれたのは、こうなることを知っていたからだと、今分かった。

あのとき、もっと全力で走ることができていたなら、逃げ切れたかもしれない。レクスが教えてくれた野良の教えも出し切っていたら……そう思ったとき、レクスの言葉が浮かんだ。

『どんな境遇にあっても、卑屈になるか、前向きになるかは、自分で決められるんだ。そのためには、まず現実を受け入れなきゃいけない。その上で、自分の"態度"を決める。そうすれば、俺たちはどこにいたって自由なんだ』

自分がなぜ捨てられたのか、それを知りたいと悩んでいたとき、レクスが言ったこと……

『マグさん』

ウルが呼ぶと、マグは顔を上げた。

『マグさんの言うように、僕らはもう、ダメなのかもしれない。けど、生きてるうちから死んでしまったような態度でいるのは、僕は少し、違うんじゃないかって思う。僕らにはもう、自由はないけど、それでも……』

『ウル、おまえ……大人しそうに見えるのに、強いんだな』

マグは言った。

『そんなこと……でも、なんていうか、負けたくないって、思って』

『おまえの言う通りだ。死ぬと決まったからって、腐った態度になる必要はねぇ。最後まで元気に飯食って、全力で生きてやるか。そう考える自由まで、人間に奪われることはねぇ』

マグが言うと、ウルは頷いた。
実際に、”死”を目の前にしたら、恐怖でそんなことは考えられないかもしれない。でも、レクスならきっと、”死”を目の前にしても凛としてる……そう思うと、恐怖が薄れた。ここから出ることができないなら、せめて明るい態度で……

『くだらねぇ……』

マグ以外の声が聞こえた。

『何がくだらねぇんだ、サトゥラ』

マグがサトゥラの呼んだ犬は、ウルから見て左斜向かい側の檻にいる、黒いドーベルマンで、体の毛の一部が薄くなっている。

『どうせ死ぬんだぞ? 人間の都合で捨てられて、人間の都合で殺される。おまえら悔しくねぇのか?』

『悔しいって気持ちはある。けど人間を恨んでも、俺等の状況が変わるわけじゃねぇだろ』

『ろくでもねぇ人間って生き物に対して、自分の態度がどうのとか、くだらねぇって言ってんだよ。腕の一本でも食いちぎってやろうって思わねぇか?』

『嫌な人間がいることは、僕も知ってる』

ウルは言った。

『けど、優しい人間もいるよ』

『ふん、その”優しい人間”に捨てられたんじゃねぇのか?』

『人間にも、きっと事情があるんだよ。捨てられるのは辛いし、悲しい……自分が何かしてしまったのかなって考えたりもした。でも分からないんだ、なんでかなんて。だからって、人間はろくでもないって終わりにしちゃうのは、違うんじゃないかって……』

『知ったことかよ、人間の事情なんざぁ。連中は自分のことしか考えてねぇんだ。だから俺たちに平気で、ひでぇことをする。痛めつけることにも躊躇わねぇ。
どんな事情があるかなんて関係ねぇ。見てろ、俺はただじゃ殺されねぇ……殺しに来た奴の腕の一本でも食いちぎってから死んでやる……!』

サトゥラは語尾を強めて、再び沈黙した。

『ウル、気にするなよ』

マグが言った。

『おまえの言ってることのほうが正しい。けど、サトゥラの気持ちも分かる。辛いし、悔しいってな……』

『……僕も分かるよ。少しだけかも、しれないけど』

自分の命が後どれぐらい残っているのか、あと何日生きられるのか……野良になったときも、明日のことがどうなるか分からなかった。明日生きられるかどうかも、分からなかった。だが少なくとも、自分で決めることができた。生きるために戦い、強くなることを選ぶことができた。

ここには、選べるものがない。
自分の態度を決めることはできるが、それが唯一の自由であり、いつ訪れるか分からない”死”から逃れるためにできることは、何もなかった。

同じ部屋にいるはずの犬たちが、気味が悪いほど静まり返っている理由が、徐々にウルの内部も侵食し始めた。

どれぐらい時間が経ったのか。
陽の光の入らない部屋では、今が昼なのか夜なのかも分からない。

『……?』

目覚めると、何かがいつもと違う気がした。
ウルは体を起こして、耳を動かした。

『マグさん……?』

向かい側の檻にいるはずのマグを呼んだ。
返事はない。
もう一度呼んでも、ウルの声だけが響いた。

『マグさん……』

『もういねぇよ……』

サトゥラの声が聞こえた。

『いない……?』

『連れて行かれちまったんだよ!!』

『え……?』

『おまえが眠ってる間に……抵抗の一つでもすりゃあ、気づいたかもしれねぇが、アイツは抵抗しなかった。眠らされる前、もう自分はここまでだって瞬間を前にしても、凛としてやがった……』

『最期まで……』

『おまえの言葉があったからかもしれねぇ……けど俺は、俺がやられるときはアイツの分まで暴れてやる……! 俺はそう決めたんだ、なのに……』

『サトゥラさん……?』

『マグを眠られて連れて行った人間たち……全員、泣いてやがった……』

『泣いて……』

『それを見てたら、畜生……全員がそうじゃねぇ、平気な顔してる奴らだっている、痛めつけて笑ってる奴だって知ってる、だから許せねせぇって思うのに……』

眠る前に話をしたマグが、目覚めたときにいなくなっていたという現実。
サトゥラが見た、人間の涙。
明日かもしれない、自分の死。

ここに来たときから、希望はなかった。
代わりに、絶望を受け入れる隙間も塞いでいたはずだった。
だが今、友達が突然いなくなる、どこかに行ってしまったわけではなく、死という形で消えてしまったことが、何かにヒビを入れた。

逃れられない運命の中で、自分の態度を決めることが、どれほど困難なことか、ウルは今、初めて理解した。

-2-

辰哉とひかるは、バスに揺られながら、黙っていた。
前回森に行ってから、一週間は経っている。辰哉は仕事の面接があり、結果はまだだったが、感触は悪くなかった。それは喜ばしいことのはずだが、面接から帰っても、気分は沈んだままだった。

翌日は雨が降り、バイトがあったり、引っ越しの準備があったりと慌ただしく、時間がかかってしまった。
その間も、寺田が保健所に連絡してくれていたが、寺田もそこにかかりきりになるわけにもいかず、ウルの手がかりが見つからないまま、今に至っていた。

「まだ、地面はかなりぬかるんでるよね……」

ひかるは窓の外を見ながら呟いた。

「昨日も雨だったからな。今日も曇ってるし」

空には、今にも泣き出しそうな雲が広がっている。隙間がなく、濃い。
バスが停まると、二人は降りて、森に向かった。土佐犬がどうなったか分からないが、以前野良と遭遇したほうではなく、途中で引き返した森のほうに向かった。

「ウルーーー!!!」

森に入ると、二人は何度も、その名を呼んだ。
何度も、何度も……

ぬかるんだ地面に足を取られながら、奥へと歩き続け、名前を呼び続ける。だが、ウルは姿を見せず、声すら聞こえない。

「ウル……ウル……」

「ひかる……」

泣き出してしまったひかるを、辰哉は支えた。

「いないのかな、もっと早く来られれたら……」

「まだ分からない。時間だってある。諦めずに探そう」

「もし私たちのこと嫌いになったんなら、それでもいい……元気でいてくれるならいい……」

「ひかる……」

辰哉は、ひかるを少し休ませるために、座れそうな場所を探した。と、キャンプ地のような広場に出て、椅子になりそうな倒れた木を見つけると、ひかるを座らせた。

最近使われた形跡はないが、たまに人が来て、何かやっているのだろうと、辰哉は思った。もし、その連中に何かされたとしたら……

辰哉は強く、頭を横に振った。
ひかるに見えないように、奥歯を食いしばって、体の前で両拳に力を入れた。

「辰にぃ、ごめん、もう大丈夫」

10分ほどして、ひかるは立ち上がった。

「休憩は入れながら探そう。足元も悪いし」

「うん」

二人は周囲を見回して、歩き出す前に、また名前を呼んだ。

ガサっと、何かが草木をかき分ける音がして、二人は顔を見合わせた。

「ウル……?」

さらに何度か、ガサガサという音がして、それは二人の正面に立った。

「猫……」

二人の前に、数メートルの距離を取って立っている猫は、辰哉とひかるのことを、何かを確かめるように、ジッと視線を向けている。道端で野良猫と会ったときに向けられるものとは違う何かに、二人はそのまま、猫の挙動を見守った。

『にゃあ』

数十秒して、猫は一度鳴くと、クルッと背中を向けた。

「え……?」

二人が戸惑いを浮かべると、猫は振り返ってもう一度、『にゃあ』と鳴いた。

「辰にぃ、もしかしてあの子、私たちを呼んでる……?」

「俺もそんな気がするけど、なんで……」

「ついて行ってみよう」

ひかるに言われ、辰哉は頷いた。
二人がゆっくりと歩き出すと、猫はそのまま歩き出した。時折、二人を確認しながら、どこかへ向かっているように歩いていく。

「やっぱり、私たちをどこかへ案内しようとしてるみたい……」

「そんな感じだな。このままついて行こう」

確証があるわけではなかった。
そもそも、この猫について行ったところで、ウルに会えるとは限らない。何があるか分からないが、行かなければならない……二人は、使命感のようなものを感じて、足を早めた。

-3-

ウル……?

縄張りで眠っていたレクスは、微かに聞こえた「ウル」という音で、目を覚ました。誰かがウルを呼んでいる。気のせいかもしれない。呼びに来る者などいるはずが……

「ウルーーー!!!」

声は、もう一度聞こえた。
先ほどよりもハッキリと、人間の声で、ウルと呼んでいる。

「……」

レクスは起き上がって、耳を動かした。

『レクス、今の声、聞いたか?』

耳をすませていると、ジョセフが飛んできた。

『ああ、ウルを呼ぶ声だな。人間二人』

『そうだ、間違いねぇ。もしかして、ウルを探しに来たのか?』

『誰が、なんのために?』

『捨てた人間が後悔して……いや、そんなわけねぇか、でもだとすると……』

『……』

捨てた人間がわざわざ森に来ることなど、これまで一度もなかった。だが、名前を呼びながら歩き回っているらしいことを考えると、前例のないそれが起こったのかもしれないと思えてくる。

『もし、捨てた人間が来たんだとしたら……』

『ああ、ウルを助け出せるかもしれない』

ふたりは頷くと、声がする方に向かった。
どんな人間なのか確かめる必要はあるが、もしふたりが考えるとおりなら、希望が見えてくる。

『いたぞ』

ジョセフが飛んできて、枝に止まった。

『レクスがウルと最初に会った場所だ』

レクスは頷くと、足を早めた。
草木を分けて広場に出ると、二人の人間がいた。若い雄と雌。近づくと、二人は不思議そうな目を向けてきた。レクスもまた、二人を観察する。

言葉を交わすことはできないから、なぜ二人がウルの名前を呼んでいるのは分からない。ただ一つ、感じることは、二人には悪意はないということだった。

野良として何年も生きてきて、人間も動物も、数え切れないほど見てきた。どんなに隠そうとしていても、悪意があるなら見抜くことができる。ジョセフも同様で、警戒心が強いカラスたちは、とくに人間の悪意は敏感に感じ取る。ジョセフは、二人からは見えない位置に止まって、レクスを見て頷いた。

レクスはそれを確認すると、二人に向かって「付いてこい」と言った。もっとも、人間には「にゃあ」としか聞こえないだろうが、言葉は分からなくても、なんとなく感じるものがあるのは、飼い猫として過ごした時間の中で体感したことだった。

二人は戸惑いを浮かべていたが、もう一度呼ぶと、付いてきた。
レクスは、時折振り返りながら、できるだけ早く歩いた。二人もそれに合わせて付いてくる。やがて、レクスと二人は息がピッタリ合ったように歩を早め、目的地に向かって走り出した。
ウルがいる、あの保健所に向かって。

-4-

夢を見ていた。
楽しかった、幸せだった頃の夢。
ずっと続くと思っていた日常。

目を覚ましたとき、”そのとき”が近づいていることを、ウルは悟った。目の前にそれが見えているわけではない、第6感のようなものだったが、確信できるものだった。

辰哉、ひかる、直人、美和子……
レクス、ジョセフ……ブチ、マグとサトゥラ……

恨みや、死にたくないという気持ちは、不思議なほど出てこなかった。ただただ、楽しかったこと、ありがとうという気持ちが、心を満たしていた。

辰哉はいつも、ウルが人間の兄弟であるかのように話しかけてきて、誰にも見せない涙を見せたこともあった。

ひかるは、いつも優しくて、遊んでいるうちに一緒に寝てしまったこともあった。

直人は難しい顔をして、ほとんど話をしなかったけど、時々内緒で、おやつをくれて、撫でてくれた。

美和子は、いつも笑顔で、おいしいご飯を作ってくれた。

レクスは、野良として生きていく術を教えてくれて、厳しかったけど、いつも見守ってくれた。

ジョセフは、お腹が空いて動けなかったとき、餌を持ってきてくれて、その後も気にかけてくれた。

みんな、大好きだよ……

満ち足りた心が、ウルの口元を緩めたとき、ドアを開ける音がして、足音が近づいてきた。

-5-

レクスは、時折止まりながら、走り続けた。二人は息を切らせながらも、止まらずに付いてくる。この二人は、本気でウルを探し出そうとしている……悪意はないにしろ、どこまでの覚悟があるのか、半信半疑だったが、今やそれは、確信に変わった。

もう少しで森を抜けるが、それを伝えようにも術がない。
励ますように一度、「にゃあ」と鳴いて、先を急いだ。

『人間とつるんでる奴がいると思ったら、レクスじゃねぇか』

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