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野良犬になったウル 第8話 逃亡劇【連載小説】
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辰哉たちが森に来た日の早朝。
ウルとレクスは、保健所の手から逃れるために、森を進んでいた。
『ウル、大丈夫か?』
レクスが立ち止まって、振り返った。
『うん、平気……』
そうは言ったものの、ランドにやられた傷は完治しておらず、痛みと疲労で体が重かった。レクスはかなりゆっくり歩いてくれているものの、それでも付いていくのが厳しい。
『レクス、あの……』
『なんだ?』
『僕に合わせてたら、レクスも捕まっちゃうかもしれない。だから先に……』
『おまえに心配されるほどヤワじゃない。ゆっくりでいい、少しずつ……』
『……? レクス?』
『レクス、ウル!』
ジョセフがすぐ上の枝に止まった。
『来るぞ!』
『ああ。気づいたよ。
ウル、少しでいい、走れるか?」
『うん……!』
『よし、行くぞ』
レクスが走り出す。
ウルはなんとか、その背中を見失わないように足を動かした。体は重く、普段の倍以上に感じる。足が思うように動かず、倒れている木を越える度に、足がかすめる。
『ちっ、別方向からも来てるな……』
レクスの声が聞こえたが、ウルは別方向に意識を向ける余裕はなく、ただただ走った。
人間たちの足音が近づいてくる。すでに、こちらに何かいることを察ししているのかもしれない。
「ウル、がんばれ。連中が探してるのはラミナだ。今逃げ切れればいい」
レクスの声に応える代わりに、ウルは足に力を込めた。
「あ……」
数メートル先に、人間が見えて、お互いに一瞬、動きが止まった。
「いました……!!」
人間が叫ぶ。
「土佐犬か!?」
別の人間の声。
「いえ、違います。猫と、黒いラブラドールです」
「ああん?? なんだそりゃあ……なんでもいい、捕まえろ!」
「え? でも土佐犬じゃないですよ?」
「違っても、野良を見つけたら捕まえろって言われただろ? ちゃんと指示を聞いてたのか?」
「聞いてましたけど……分かりました、捕まえます。猫はいいですよね? 犬の方だけで」
「ああ」
何を話しているのかは分からない。
二人の人間が交互に何かを言って、ウルに視線を向けた。
心臓がドクンと、恐怖を知らせる。
『ウル!!』
レクスが叫んだ。
『人間がいない方に向かって走れ!!!』
『でもレクスは……』
『俺はいい! 早く行け!!!』
『……!』
ウルは、近づいてくる人間から離れる方向に向かって走った。
「逃げるぞ!」
「分かってますよ……!」
人間二人も走り出す。
「逃げられることは想定済み、人間をナメちゃいかんよ……
うわ……!」
人間の足が止まった。
突然目の前を横切ったレクスに戸惑っているらしい。
『レクス……!』
ウルは歯を食いしばって走った。
「くそ……! おい、この猫を追い払え!」
「無理ですよ! 早すぎて目が追いつかない……でもなんでこんな……まさか、あの犬を逃がそうとしてる……?」
「はあぁ? なんでそんなことするんだよ」
「野良仲間かもしれないじゃないですか。犬と猫が仲良くなるの、動画なんかでも見ますし」
「呑気なこと言ってないで犬を追うぞ!」
「あ、はい……!」
体は、動きを止めるように悲鳴を上げている。
足を一歩踏み出すごとに、歯を食いしばらないといけない。
『はぁ、はぁ……』
止まりたい。
もう休みたい。
ウルは誘惑を振り払い、走った。
「あ、見つけた……って違う犬か」
別の人間の姿が見えた。
「あ、おい! その犬を捕まえてくれ!!」
後ろから人間の声が響く。
「あ、ああ……おい、いくぞ!」
前からも二人、人間が迫ってくる。
方向を変えたいが、立ち止まったらもう、足は動かない。
『ウル!!』
「うわ……! おいなんだよ、なんでカラスがこんなにたくさん……」
頭上に、何十羽ものカラスが現れ、一斉に人間に視線を向けた。
『まってろ! 今助けに……』
『ダメだよジョセフ……!!』
ウルは叫んだ。
『人間に危害を加えたらジョセフたちが……僕は大丈夫だから……!』
『ウル……!』
「捕まえた……!!」
方向転換しようと、一瞬足が緩んだとき、前から来た二人のうち一人が、ウルの体を抑えた。
「おい、早くこい!!」
頭上では、ジョセフが急降下する姿勢を取っている。
(ジョセフ……!!)
ウルは声を上げる代わりに、ジョセフを見ながら首を横に振った。
『く……!』
「なんなんだこの猫……攻撃してくるわけでもない、でも歩くのを邪魔してくる……」
「はぁ、はぁ……おまけに、早すぎて捕まえられねぇときた……ずっと動いてるのに息切れもしてねぇ、化け物かこの猫……」
『レクス!』
カラスの大きな声に、人間二人はビクリと肩を上げた。
『ウルが、捕まっちまった……』
『……!』
「今度はカラス……なんなんだ、この猫に話しかけてるのか……?」
レクスは、人間二人を翻弄したよりもさらに速いスピードで、ウルが逃げた方に走った。
『間に合わなかったか……』
レクスが追いついたとき、ウルはすでにケージに入れられ、車に乗せられるところだった。
レクスに気づいたウルは、一瞬顔を上げ、何か言いかけたが、言葉を発する前に、車の後部ドアが閉じられた。
『すまない、レクス……』
レクスとジョセフは、ウルと最初に出会った広場に来ていた。
『おまえのせいじゃない』
『どうやら、あっちの森でラミナも捕まったみたいだ。だからたぶん、もう人間は来ねぇと思う』
『そうか』
『まだ、どっちの森にも人間はいるけど、少なくなってる。あと数時間もしないうちに、全員いなくなるだろうよ。けど……』
『……』
『ウルは止めたが、やっぱり俺がもっと積極的に動くべきだったかもしれねぇ……そうすれば助けられたかも……』
『かもしれない。けどそんなことしたら、今度はカラスを捕まえるために人間が来ることになる。そんなこと、ウルだって望んじゃいない』
『そうだけどよ……』
『気持ちは、分かるけどな』
『どうする? これから……』
『様子は見に行く。けど、助けられるかどうかは別だ』
『レクス』
『ん?』
『もし何かするなら、俺にも協力させろよ?』
『……ああ』
レクスは、自分で言っておきながら、それが極めて困難であることを理解していた。捕まってしまった以上、閉じ込められている場所を襲撃して逃がすわけにもいかず、もし決行しても、十中八九失敗する。それだけならまだいいが、野良を危険視する声が高まれば、森で暮らす野良たちに被害が及ぶ。
(ウル……)
ジョセフの仲間が確認していた保健所まで、レクスは慎重に足を運び、場所を確認した。
人通りはあまりない。車の通りも多くなく、街中でもない。しかし、白くそびえ立つ建物は、人間の平均的な身長より高い金網に囲まれており、隙間もない。開閉する柵もあるが、日が沈んだ頃には閉じられてしまう。猫であれば、勢いでよじ登って入ることはできるが、ウルを逃がすには、人間が出入りしている、開閉する柵を開ける必要がある。
分かっていたこと。
確認してみたところで、ジョセフたちと協力したとしても、助けることなどできない。建物の中に入れたとしても、どこに何があるかも分からず、ウルがどこにいるかも分からない。そもそも、見つけたとしても、そこから逃がすこともできないだろう。
森の主。
最強の野良。
孤高の王。
誰もが、レクスを何かしらの言葉で称える。
レクス自身は、どう呼ばれようと気にせず、自分の在り方を突き通すだけだったが、誰かや何かに左右されることなく生きている、という自負はあった。実際、自分だけであれば、そのとおりに生きることができている。
だが今、保健所を目の前にして、居心地の悪さを感じていた。
分かっている。自分の力が及ばないことがあることも、野良である以上、自分の身は自分で守るしかないことも。なのに、足が森のほうに向くことを拒む。
(ウル……)
「あ、きれいな猫……!」
人間が二人、近づいてきて、レクスは反射的にその場を離れ、森へ帰った。
縄張りに戻り、寝床に体を横たえる。木の上から見える、草を集めた寝床は、真ん中あたりが少し窪んでいる。
元に戻っただけ。
そう、それだけのこと。
レクスは、固まっていた視線を逸らして、体に顔を埋めた。
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