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陰謀論ウィルス 第6話 裏返る(連載小説)
-1-
父親が出ていったとチャットがきて以降、夏希からの連絡は途絶えていた。気になって、二日は耐えたものの、三日目になって抑えきれず、大丈夫かと連絡したが、既読にもならず、寧々は淡々と仕事をしながらも、俯くことが多くなった。家と職場の往復という、変化のない生活にも問題はあるものの、夏希のことを思うと、他の何かが浮かぶことはなく、嫌な予感だけが、形を変えて頭の中に生まれては消えた。
「夢丘さん、今日は早めに上がって」
職場の休憩室で、夏希とのチャットをボーっと見ていると、成瀬が入ってきた。
「え?」
「最近働き過ぎだよ。ずっと通しでしょ。気づいてないかもしれないけど、疲れが見えてる」
成瀬は向かい側に座って、自分の目の下あたりを、スッと手でなぞった。
「大丈夫ですよ、睡眠は取れてますし」
「仕事に没頭したい理由でも出てきた?」
「……」
「ごめん、詮索するつもりはないんだ。ただ、夢丘さんには俺も、助けてもらってるから、できるだけ協力できればと思ってる。それと、まあこれはあまり言うべきことではない、いや、言うべきことか……」
「……?」
「今は、社員でもずっと通しって、本部からいろいろ言われちゃうんだよ。ちゃんと休息取らせてないんじゃないか、管理どうなってんだ! って怒られちゃう(笑)」
「あ……」
「だからその、ホンネとしてはいてくれると助かるんだけど、休んでもほしい。一緒に働く仲間としても、上司としてもね」
「分かりました。じゃあ、お言葉に甘えて、今日はこれで」
「うん、少し自分を甘やかしてあげることも必要だよ。まあ俺みたいにしょっちゅう甘やかしてると、こんなことにもなりかねないから、注意は必要なんだけどね」
成瀬はそう言って、腹をポンポンと叩いた。
「最近、ちょっとお腹出てきちゃってさ。まだ40前なのに……」
「ウォーキングから始めてみるのがいいかもしれませんね」
「そうだよね……よし、そうしよう。
あ、ごめんね、引き止めちゃって。お疲れさま」
成瀬は右手を上げて、小走りで休憩室を出ていった。
(自分を甘やかす、か)
既読にならないチャットのことが気になったが、夏希は最初から、連絡が取りづらくなると話していた。父親が出ていったということなら、より大変になっているはずで、電話したとしても邪魔になってしまうかもしれない。手助けしようにも、何をしたら助けになるのか分からない以上、動くのも難しい。
寧々は立ち上がってロッカーに行き、着替えて店を出た。
自分を甘やかすと言われても、何をすればいいか分からない。そのこと自体が、もしかしたら自分を追いつめていたのかもしれない。
駅へ向かういつもの道とは逆方向に歩き、最初に目に入ったイタリアンレストランで、パスタとピザのハーフを食べ、街を少し散策したあと、小さなバーに入った。
黒い玄関ドアのような入口を開けると、カランと音がして、奥まで続くカウンターと、一人客とカップルらしい男女が見えた。
カウンターは黒いウォールナットで、どっしりと構えており、椅子もすべて黒。テーブル席はなく、細長い店内は、少人数で来ることに特化したような作りになっている。カウンターの向こうで、兵隊のように整然と並ぶ、様々な色をしたボトルは、天井の丸いライトに照らされて鈍く光り、お客の会話を邪魔しないジャズと、よくマッチしている。
「いらっしゃいませ」
ショートボブの女性バーテンダーが、おしぼりを出してきた。
少し低めで落ち着いた声は、店の雰囲気と同化している。
「甘めのカクテルをいただけますか? お酒は詳しくないので、お任せします。甘すぎないもので」
「かしこまりました。
苦手な食材やお酒はありますか?」
「いえ、とくには」
「かしこまりました」
やがて、グラスの口に一切れのパイナップルがついた、ピニャ・コラーダが出てきて、一口飲む。いかがですかとバーテンに聞かれ、美味しいですと咄嗟に答え、初めての味にちょっと感動したものの、何がどう美味しいのかまでは言葉にできず、なんとなく顔を逸らした。
「お一人ですか?」
何が入っているのか、舌で味を確かめながら考えていると、呼びかけられた。一瞬バーテンかと思ったが、男の声なのに気づいて、少し体を離した。
「そうですけど」
椅子を一つ開けて座っている男を、視界の端に収めながら答える。さっきまでカウンターの真ん中あたりに座っていた男だが、いつの間にか移動してきたらしい。
「僕も一人なんですよ。よければ一緒に……」
「ナンパなら、声を掛ける相手を間違ってますよ」
寧々はスッと、左手の薬指を見せた。
「一緒に飲むぐらいなら、問題ないと思いますけどね。そのブレスレットとネックレスも素敵だし、服のセンスもいい。一人で飲んでるなんてもったいない」
男はサラリと言った。
「一人で飲みたいんです」
「そうですか。じゃあまあ、気が変わったら」
男はそう言って、席はそのままに、言葉を止めた。
それから、注文以外は一言も発することなく、カクテルを三杯、自家製のチーズケーキを一切れ堪能し、家路についた。
(まだ8時なんだ。でもそうか、ご飯食べたとき7時前だったし、そんなもんか)
久しぶりの酒に、酔いの回りが少し早い気がしたが、足取りはしっかりしているのを確かめつつ駅に向かっていると、
「これ、ぜひ読んでください」
何やらビラを配っている男が踏み込んできた。
「……?」
ワクチンの真実、と大きく印字されたA4のビラには、ワクチン接種が何をもたらすかが延々と書かれているが、ざっと見ただけでも、政府がおかしい、ワクチンは殺人兵器など、根拠らしい根拠も示されないまま、危険だということだけを強調する論調で書かれている。
「よければ、下に書いてあるところに連絡してください。私たちは暴力には反対ですが、主張すべきことは主張していくので」
ビラを配っている男が言った。
ビラの下に、代表者らしい人物の名字と携帯番号が書かれている。ついでに、チャットアプリのQRコードもついていて、寧々は眉間に力が入った。
「どうですか? 一緒にワクチンの危険性を……」
話しかけてきた男を無視して、寧々は駅に向かった。
ビラは丸めて捨てたかったが、街中に捨てる気になれず、無造作に折りたたんでバッグに仕舞った。
飲んでいたときに声を掛けてきた男といい、なぜこうなるのか。せっかく自分を甘やかそうと時間を作ったのに、落ち着いていられたのはイタリアンに入ったときだけで、今もまだ、胸のあたりがざらついている。
選んだ店が悪かったのか。声を掛けられたぐらいで乱れる心が弱いのか、神経質過ぎるのか、自分を責める声が聞こえて、拳に力が入った。
家に着き、バッグの中から財布を取り出すと、ビラが床に落ちた。なんとなく拾い上げ、リビングの椅子に座ってカサカサと開く。
「……」
ビラが震えている。
いや、震えているのは自分の両手。
配っている男に他意はなさそうだった。
本気で信じている。本当に危険だと考えている。
だからあんなふうに、真剣に話せる。
「……」
ボーっと眺めていると、どこかから「ブー」という音が聞こえてきた。2、3回鳴って、ハッと立ち上がる。バッグに入れたままのスマホが鳴っている音だと理解して、小走りでスマホを取った。
「もしもし」
『寧々、私、夏希……ごめん、返信できてなくて』
「ううん、いいの。それよりどう? お父さん出て行っちゃったんでしょ?」
『うん。勝手だよね。私に助け求めといて、無理ってなったら自分は出ていっちゃうなんて』
「そうだね……」
一瞬、マンションの前で国崎が言った言葉を思い出して、口を開きかけたが、既で言葉を飲んだ。
『連絡したのは、その……』
「……?」
『最後にちゃんと、寧々に話しておかないといけないと思って……』
-2-
遙華から拒絶の言葉を受けた翌日、夏希は荷物をまとめたが、二人を置いて出ていく気になれず、家に残った。もし二人だけにしたら、もっと悪いことになる、そうなったらもう、本当に助け出すことはできない……そう思うと、勝手にしろとは言えなかった。
とはいえ、同じように説得するのは難しい。どうすればいいかと考えた結果、二つの方法が浮かんだ。一つは、二人と同じものを見て、その上で話しをすること。見た上で、ここはそうかもしれない、でもここは変かも、という流れにもっていければ、二人も考え直すかもしれない。もう一つは、陰謀論に飲まれない、冷静に見られる自分を作っておくこと。そのためには、対処の知識がいる。
同じものを見るという方は、まずは二人が話していた動画を見て、話しかけてみればいい。だからまずすることは……
持ってきたパソコンをバッグから出して、自室の机で開く。いろいろと検索してみると、陰謀論を批判するものはいくつか見つけたが、どれも感情的で、目的に合致しない。と、一人だけ、感情を排した文体で書いているものを見つけた。
「江國泰隆(えくに やすたか)……心理分析ブロガー?」
プロフィールには、陰謀論や詐欺、カルトなどを分析するブロガーと書かれており、どうやらそういったことの手法や内情を記事にしているらしい。記事のタイトルをスクロールしながら、気になったものをクリックした。
『身内に陰謀論を信じる者が出てしまった場合、絶対にやってはいけないのは、彼らの主張を否定する事実を突きつけることだ。事実を突きつけるということは、私は正しくてあなたは間違っていると言っているのと同じで、その事実が正しかったとしても、間違っていると言われた方は気分を害する。
仕事で上司から、君の考えは間違っているから改めるようにと言われたら、たとえそれが正しい方向への変換であったとしても、あまりいい気分をしないだろう。陰謀論の場合、考えというより信仰に近いので、事実を突きつけて否定することは、信仰の否定になる。アイデンティティを脅かされているようなものだ。だから当然、相手は強く反発する。
その結果、彼らは突きつけられた事実を、自分の信念を裏付ける解釈に変換する。自分を守るために。事実を突きつければ、それは絶対的な証拠になると、私たちは思いがちだが、ウォルター・リップマンがその著書、”世論”に書いているように、事実は人によって異なる。同じものを見ても、AさんとBさんでは、事実の見え方が異なるので、永遠に噛み合わないという事態も発生する。
では彼らの話を真剣に聞き、議論すればいいのか? それは一つのやり方ではあるが、危うい。どんなに懐疑的に見ていても、何度も彼らの言い分を浴びていると、自分の考え方にも影響が出てくる。皮肉にも、相手のためを思って話を聞いているうちに、自分も陰謀論に染まってしまう可能性がある、ということだ。
こうなってくると、陰謀論にハマってしまった身内を助け出す方法はないように見える。実際、一応の話をしてみてダメそうなら、自分の身を守るために距離を置くのは、一つの正解だ。だがどうしても見捨てられないというなら、方法は一つ。彼らの信念には触れずに、彼らが抱えている問題を解決することだ。やり方については、人が陰謀論にハマる理由という記事を合わせて見てもらえれば、より理解が進むはずだ。だが、専門的な知識も必要になるため、まずはセラピーやカウンセリングの手法を学ぶことをおすすめする』
夏希は、記事を部分的にメモすると、その他いくつかの記事を読んだ。これで本当にうまくいくかは分からないが、冷静さを保つために必要な知識は得られた気がした。
「これで半分……」
江國のブログを開いたまま、新しいタブを開いて、昨日遙華が見ていた動画を探して、再生を押した。
先日見たものと同様、荒唐無稽で、なぜこんなものを信じるのかと思えてくる。無駄に感情に訴えているようで、見ているだけで疲れてくるし、コメント欄に時々現れる、腑に落ちた、やっぱりそうなんだというものも、何を言っているのかとため息が出た。
動画が終わると、レコメンドされたものをクリックして、同じ世界線の話を見る。10分~20分弱の動画を4本見終わったところで、両手をこめかみに当てた。
頭痛がする。遙華たちと話すためにと思ったものの、ここはそうかもといったところも見つけられず、立ち上がって思い切り伸びをした。
「ふ……ふぁぁぁ……」
肩を回すと、ゴリっと音がして、普段の仕事の倍以上疲れた気がした。
コンコンッ
「お姉ちゃん、起きてる?」
遙華の声が聞こえた。
「起きてるよ」
「昨日はごめん……あんなこと言ったけど、出ていってほしくない。お姉ちゃんともっとは話したい」
泣いているのだろうか。
声が少しかすれている。
「私も話したいよ、遙華と」
ドアを開けると、目の涙を溜めた遙華が立っていた。
「私のほうこそ、ごめん。タブレットは新しいの買ってくるし、遙華とお母さんの話も聞くから」
「うん……」
泣き出してしまった遙華をそっと抱き寄せると、夏希は天井を見上げた。
「あと一時間もしたらお昼だから、話すのはご飯食べてからにしようか」
夏希が言うと、遙華は笑顔で頷いた。
「お母さんにも伝えてくるね」
「うん」
その日の午後から二日間。夏希は真剣に、二人の話を聞いた。何度聞いても、勧められた動画を見ても理解はできず、二人の意見を否定しないようにしながら、時折自分の意見を伝えたが、考えが変わる気配はなかった。
「ふぅ……」
夜、自分の部屋に戻るとクタクタで、三日目になると、動画や二人の意見に対する反論も肯定もなく、内容がそのまま頭の中に入ってくるような感覚に陥った。このままではマズイと、ここまで話を聞いたけど、やっぱり分からないと二人に話し、それでもまったく変わらない二人に対して、いい加減にしてと怒鳴りそうになった気持ちを強引に抑え込んだとき、視界が徐々に黒くなって、意識を失った。
幸い、頭を打つなどの外傷はなく、点滴をして落ち着いたが、付き添いで来ていた二人は、事故にでもあったように落ち込んで、遙華は青い顔をしていたが、大丈夫だからと家に帰した。
「歩けそうなら、帰っていただいても大丈夫ですよ。会計は受付横の……」
「私、なんで倒れたんでしょう?」
医師の言葉を遮って、夏希は聞いた。
「今お話を聞いた限りだと、おそらく神経反射性失神だと思います」
「なんですか? それ……」
「疲れなどでも起こりますが、強いストレスによって交感神経が強く緊張して、副交感神経が反応して、吐き気や発汗などの症状を引き起こすものです。意識を失う直前、目の前が暗くなったとおっしゃってましたよね?」
「ええ……」
「全員ではありませんが、そういった症状を見せる人もいます。目の前が少しずつ暗くなってきて、倒れてしまう」
「……そうなんですね」
「先ほど伺った中では、直接的な原因になることは読み取れませんでしたが、本当に、まったく分かりませんか?」
「……理由は、分かってます。ただちょっと、言いづらいことで……でも大丈夫です、対処できますから」
「もし助けが必要なら……」
「必要ないです」
被せるように言うと、医師は「分かりました」と、何かあれば看護師にと言い残して、歩いていった。
「あの……!」
「はい?」
「すみません、今日一日、入院ってできますか?」
夏希が聞くと、医師は目を丸くした。
「どこか、他に不安が?」
「いえ、そうじゃないんですけど、ただ少し、一人で考える時間がほしくて……」
「……分かりました。では入院の手続きを取りましょう」
「ありがとうございます」
医師の姿が見えなくなると、夏希はベッドで上半身を起こしたまま、両手で顔を覆った。
「……」
これ以上話して、何か意味があるだろうか。二人の信念を変えることができるだろうか。いずれはできるかもしれない。でもそれは、いつになるだろう。それまで、自分は自分でいられるだろうか。
距離を置くのが最適解……
そう、仕事もあるし、自分の生活もある。やりたいこともあるし、寧々のことも……やるだけのことはやった。説得もしたし、話も聞いた。頭ごなしに否定もしなくなったし、疑問という形で質問もした。誰も責めない、無責任だとも言わない、酷い人間でもない。私は、できることをやった。
「……」
俯いて、シーツを握る手に力が入る。
明日、退院したら実家に行って、荷物をまとめて家に帰る。二人には、仕事が忙しくてこれ以上はいられない、連絡は取れるようにしておくからと伝えればいい。そう、嘘ではない。仕事が忙しいのも事実だし、連絡がくれば話は聞く。嘘じゃない、嘘じゃ……
翌日。
退院の手続きを済ませると、入口ではなく待合室に足を向けたが、人が多く、呼び出しのアナウンスも聞こえるため、外野の音を避けて外に出た。
寒い。
ひんやりとした空気が肌を撫でて、夏希は体を縮めた。
ゆっくりと歩き、実家に戻って荷物を置いたものの、二人を話す気になれず、まだ体調がと言って部屋にこもった。外はさらに気温を下げ、窓を開けると、息が雪だるまのように白く見えた。
顔が痛くなるほどの寒さに、窓を閉めかけた手が、止まった。
これでいいのかもしれない。
この寒さがあれば、冷静でいられる気がする。
スマホを手に取って、コールする。
「寧々、私、夏希……ごめん、返信できてなくて」
寧々の声を聞きながら、こみ上げるものを必死で抑えた。
こうするしかない。
こうするしか……
-3-
「何? 話しておきたいことって……最後にって、何言ってるの、夏希……」
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