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あなたの「できる」を 誰かのために(ショートストーリー)

-1- 喪失

真白由舞(ましろ ゆま)、結婚。

見出しを見たとき、俺はスマホを落としそうになった。
仕事帰りの電車の中、疲れ切った顔が並んでいる中で、俺の顔だけは異色の、絶望に染まっていただろう。

真白由舞は、デビュー当時はアイドルっぽく売り出していたが、最初の曲から作詞を自分で担当。以降10年、先月のラストライブまでに発表した111曲の作詞を、すべて自分で手掛けた。ラブソングよりも、人の気持ちを前向きにするような歌が多く、苦しい状況にあっても、無理に頑張ろうとしなくていい、道は必ず開ける、と思わせてくれる歌詞は、男女問わず多くのファンを獲得した。

俺、井塚昇(いづか のぼる)も、真白由舞に救われた一人だった。
それだけに、デビュー10年目を迎えた今年、歌手を引退して、芸能界からも離れると聞いたときは、しばらく仕事が手につかなかった。ファンクラブの特権でラストライブには行くことができたが、過去最高のパフォーマンスであったにも関わらず、終わりが近づくにつれ、涙で前が見えづらくなり、最後はもう、声を上げることもできなかった。

ラストライブを機に、一切メディアにも出なくなって一ヶ月と少し。
すでに引退しているので、ファンクラブもSNSもWebサイトも閉じており、メディアがスクープとして出したもので、本人のコメントもない。メディアは当然、インタビューに行っただろうが、それを察してか、彼女は密かに海外に出ていたらしい。おそらくは、メディアにストーキングされることを嫌ったのだろう。引退したばかりとはいえ、真白由舞はもう、一般人。当然といえば当然の反応。

それは分かる。
分かるが、やはり感情の穴は大きく、足の指に力を入れていないと立っていられない気がした。

家に帰ってくると、倒れるように床に腰を降ろして、ベッドに寄りかかった。
ワンルームの部屋は、ほとんどが真白由舞のCDやDVD、グッズを置くスペースになっていて、それ以外は、ベッド、テーブル、クッション、パソコンしかない。

なんとなくスマホをポケットから出して、SNSを見始めたものの、すぐに閉じた。真白由舞の結婚に対する反応は様々だが、どんな色のものであっても、見ていられなかった。中学生のとき、読書感想文のために読まされた本で、大切な人を失って、世界から色味が消えたという表現を見たが、あれはこういうことかもしれないという気がした。

今までと同じもの見ているのに、同じように見えない。
引退が発表されたときも、ラストライブが終わったときも、ショックは大きかった。でもどこかで、また復活してくれるかもしれないと思っていた。淡い期待が、崩壊寸前の心を、ギリギリのところで支えていた。それが今、支えを失って、立ち上がる気力すら奪っていた。

-2- 生きる意味

翌朝起きたとき、いつどうやって寝たのか思い出せず、シャワーも浴びていないことに気づいて、急ぎ熱い湯を浴びたものの、目と体は重いままだった。このままもう一度横になりたい、何も考えたくない……頭の中で声が響いたが、生活の中から推しが消えても、自分の現実は何一つ変わらない。

生きるためには仕事をしなければならず、そのためには朝起きて、会社にいかなければならない。
職場に着くと、周囲はいつもどおりだったが、一部の人は少し、よそよそしく見えた。真白由舞の結婚のニュースを見て、俺がショックを受けていることを察しているのだろう。

真白由舞のファンであることを、会社で強くアピールしたことはないが、会社の飲み会に参加したことがあるメンバーなら、知っている。そして、ラストライブ以降、俺がずっと沈んでいることも。そこに昨日の追い打ちとくれば、哀れみを感じるものかもしれない。

とはいえ、心配されているわけでもないのは分かっている。彼らは仕事に支障が出ることを気にするだけだ。加えて、先週から入ってきた新人三人は、全員やる気がって、積極的。いつまでも沈んでいる人間より、そっちを育てたほうがいいと考えるかもしれない。つまり俺は、このままだとお役御免になる可能性がある。

でも、いいのかもしれない。
淡々と仕事をしながら、頭の中には別のことが浮かぶ。

俺にとっては、真白由舞がすべてだった。ライブに行ったり、DVDやグッズを買うために仕事をして、休日もほとんど、曲を聞いたり、動画を見て過ごしてきた。真白由舞を応援することが、ファンの一人として支えることが、他全ての行動の理由だった。

その理由がなくなってしまったこの世界で、生きる意味はあるのだろうか。
仕事を終えて、推しで埋め尽くされた家に帰ってくると、なんのために、という問いが頭の中を占めた。たまらず、パソコンの電源を入れて、何か「音」と出そうとしたが、動画のホーム画面も、ほとんど真白由舞で埋められている。逃げるように、特に興味のないゲーム実況を検索して再生すると、俺はその場に座り込んだ。

夕食は帰りに買ってきた弁当だったが、何を買ったのか、何を食べたのか、よく覚えていない。頭の中に浮かぶものと、目から入ってくる情報は不一致で、考えるという行為ができなくなったが、それで良かった。考えるなんて、したくない。

木曜日。
あと一日で週末と思っても、週末に何をするのかと考えると、顔が下を向く。仕事をしているときは、まだいい。目の前のことに集中すればいい。
自分とは対象的な新人たちが、真剣に、ときに笑顔を見せながら頑張っているのを見て、胸のあたりが苦しくなったが、それもやがて、麻痺した。

苦しみを吐露できる相手もいない。
誰も、一人も。

-3- 芽生え

金曜日の朝。
目を覚ましたものの、俺は起き上がることができず、会社を休んだ。
体調が悪い、ような気もする。でも悪くないような気もする。どちらでもいいが、出勤に耐えられる力はなかった。

それでも眠ることはできず、9時頃になってノロノロと起き出し、遺品でも整理するように、真白由舞のCDやDVDを引っ張り出して、眺めた。

一枚一枚に、そのとき、その瞬間の自分が見える。この曲を聞いたとき、自分はどんな状態だったか、仕事はどうだったか、と。自分でも驚くほど、あふれるように思い出されてくる。やがて、デビュー曲のCDにたどり着くと、手が止まった。

この曲を聞いたのは、19歳。真白由舞が同い年だと知って、最初は驚きと共に、劣等感を覚えた。

当時の俺は、高校を卒業して働き始め、周囲との落差に、コンプレックスを強くしていた。子供の頃から、勉強のできる親戚と比較され、自分以外の全員が大学に行く中で就職し、自分でお金を稼げるようになったのに、誇らしさは微塵もなかった。

社会に出てからも、大卒の同期との違いを感じた。自信に溢れ、彼女もいて、この先彼らは出世もしてくだろうなと思うと、酷く惨めな気持ちになった。逃げるように、仕事以外はゲームに没頭して過ごしたが、社会人二年目になって後輩が入ってくると、さらにコンプレックスは強くなった。自分より年上で、頭も良さそうな新人。年下でも、自分より自信をもっているように見える新人。今は先輩でも、いずれ追い抜かれる……

俺の人生ってなんなんだろうか……そんな思いに支配されていたとき、真白由舞の曲に出会った。
俺と同い年で、見た目はアイドルのような雰囲気だったが、自ら作詞を手掛けたデビュー曲にアイドル色はなく、一人の歌手という強いアイデンティティを感じるもので、その歌詞に、心を救われた。

世界に一つ あなたのこと 比べないで 踏みしめていいの
小さくても 笑われても 踏み出せたら 色が変わるよ
今の「できる」を あなたのために

Hideto Shirosaki

初めて、自分は自分でいいのだと言ってもらえた気がして、涙が止まらなかった。それから俺は、真白由舞を応援するようになって、やがて生活の一部になった。

「もう、応援することに意味はないんだよな……」

外付けのプレーヤーにCDをいれて、再生ボタンを押す。
見なくても歌える歌詞が、メロディとともに耳から流れ込んで、体中を満たしていく。

「……?」

一曲目が終わると、カップリング曲が流れ出した。
でも俺の頭の中には、一曲目の歌詞の一部が残っていた。
あの日救われた部分とは違う、何百、何千と聞いたはずの歌詞。

世界に一つ あなたのこと 比べないで あなたでいいの
自信なくても 震えてても 手の開いたら 見えてくるよ
誰かの「悲しみ」 拭える力

Hideto Shirosaki

いつのまにかCDは止まり、俺はずっと、歌詞が残る意味を考えた。
あの日救われたように、もしかしたらここにも何かある……そんな気がした。

でも結局何も分からないまま、一日を終え、夕食を済ませて寝る時間が近づくと、気持ちは沈みだして、電気を消して、無理やり目を閉じた。

-4- 気づいたもの

週明け会社に行くと、金曜日休んだ事実などなかったように、時間が流れていた。俺がやるはずだった仕事をフォローしてくれた人に礼を言ったが、相手はとくに気にする様子もなく、心なしか、同情が見えた。いや、気の所為かもしれない。自分がそう思っているだけ……

デスクに座って、仕事を始める。
相変わらず気力はないが、不思議と体は動く。

「……?」

始業から二時間ほど経って、ふと気づいた。

うちの会社のオフィスは、仕切りのない、いわゆるフリーアドレスで、大きな木のテーブルが、前後左右に二つ並び、前後の隙間から8口の電源タップが出ている。リモートが導入されてから、席が完全に埋まることはなく、多いところでも、人一人分を空けて座っているが、その中に、先週の木曜までは見なかった顔が見える。

俺は、少し離れた場所に座っていたから気づかなかったが、どうやら新人三人は、先週の金曜から、それぞれの部署に配属されたらしい。つまり、三人はそれぞれ別の場所に移り、今日から一人で仕事を始めている。
そのうちの一人が、俺の部署に配属となり、一人でパソコンと向き合っているが、表情が硬い。

手も止まっている。
周囲は誰も気づいておらず、新人も、動こうとしない。

「……」

助けなければ、と思ったわけじゃない。
ただ、体が勝手に動いた。
変なことを言っているのは分かる。
でも確かに、無意識に体が動いて、俺は立ち上がった。

「どうかしたの?」

新人の松川さんの隣まで言って、声を掛けた。
松川さんはビクリと肩を上げて、俺を見た。

「えっと、あの……」

マウスを持つ手が震えている。
俺はもう一度質問する代わりに、モニターを見た。

「……ああ、なるほど。これはね」

俺は「ちょっとごめんね」と言ってキーボードを動かし、松川さんの震えの原因を処理した。

「そんなにビクビクしないで大丈夫だよ。誰でもやってしまうミスだし、今みたいに対処できるから」

「ありがとうございます……私、先週も叱られたばかりで……」

「俺も入ったばかりの頃、よく叱られたよ。なんでこんなこともできないんだとか言われて、落ち込んだこともあったし」

(あれ? 何言ってんだ、俺……)

「でも、ミスなんて誰でもするから。慣れたなぁと思ったらまたミスして……そうやって、学んでいくんだと思うよ。ミスしないって、別に偉いことでもなんでもないから、気にしないで」

「ありがとうございます、ありがとうございます……」

松川さんは、涙をこらえながら何度も頭を下げて、周囲の目が気になった俺は、「大丈夫大丈夫」と、逃げるように自分の席に戻った。

自分の仕事を再開しても、さっきのことが残っていた。
なんで、あんなふうに話せたんだろう。今までも、後輩に教えることはあったけど、いつも少し、頼りない口調だったし、後輩にそれを指摘されたこともある。そもそも人に教えるのは苦手なはずなのに……

そんなことを考えているうちに午前中は終わり、昼になったが、食欲はあまりなかった。といって、オフィスに残るのも……

「あの、井塚さん……」

行き先を考えていると、松川さんが声を掛けてきた。

「あ、うん、どうしたの?」

「あの、よければ一緒に、ランチ行きませんか?」

「へ?」

声が裏返った。

「俺と……?」

「はい。あの、もう別の人と行くことになってるとか、そういうのがあれば全然……」

「ああ、いや、大丈夫、昼どうしようかなって思ってたところだから」

「ほんとですか? 良かった……」

「うん……あ、行こうか」

「はい!」

オフィスの外に出て、何度か行ったことがあるカフェレストランに入って、端の席に座った。

「あの、さっきはありがとうございました」

注文を終えると、松川さんは肩を縮めて、お辞儀した。

「いや、そこまで感謝されることでも……」

俺は彼女の態度に少し戸惑った。なぜそこまで……

「私、不器用で、失敗もよくするんですけど、失敗するとどうすればいいか分からなくなってしまうんです。落ち着いて、手順通りにやればと言われても、できるはずのことが、やり方が分からなくなってしまったり……今まで何度も、そういうことがあって、職場を変わってるんです。さっきも、ああ、また同じって思ったら、涙が出そうになったんですけど、そうしたら井塚さんが……」

「そう、だったんだ……そんなふうに見えないけどね。研修も、俺が見えてる範囲だけど、うまくこなしてるように見えたし」

「研修は緊張があまりないから、大丈夫なんです。でも独り立ちするといつも……」

「本番の緊張みたいなの、あるもんね。でも、慣れればできるようになるよ。俺みたいな奴だって、なんとかなってるんだから」

「俺みたいなって、井塚さんは自分をそんなふうに言う必要ない人だと思いますけど」

「俺はさ……社内でも周知のことだけど、真白由舞って歌手のファンなんだ。まあ、先月……あ、先々月か……引退して、結婚して、もう公の場には出てこないんだけど……彼女がデビューしてから10年間、ずっと応援してきて、歌に何度も救われて、でも引退しちゃって、なんかこう、体の中から大事なものが抜け落ちたみたいな感覚でさ。

もう生きてる意味もないかぁって思ったりして……そんな俺に比べたら、松川さんは不器用だったとしても頑張ろうとしてるんだから、もっと自信もって大丈夫だよ」

考えて口にしたわけじゃなかった。
ただ自分の気持ちを吐露した。
本当に、生きてる意味なんて……

「井塚さんは、今日私を助けてくれました。今まで、あんなふうに言ってくれる人、いなかったんです。でも私、今日初めて、間違ってもいいんだって思えたんです。そこから学べばいいんだって。ずっと、間違っちゃいけないって思ってたから……」

「間違っちゃダメなんて、あるわけないよ。誰だって間違えるんだから、自分のできることを……」

そこまで口にしたとき、ずっと頭の中に漂っていた疑問が、ストンと体の中心あたりに落ちたように感じた。
同時に、また真白由舞に救われたのだと気づいた。
そして、目の前の女性にも。

「井塚さん?」

「え? ああ、ごめん、ちょっとボーっとしてたね」

「大丈夫ですか……?」

「うん、もちろん。
それより」

「……?」

「ありがとう」

「え? 私、お礼を言ってもらえるようなこと……」

「松川さんのおかげで、どうすればいいか分かった気がする」

「私の……? どういう意味……」

「あ、そろそろ戻らないとだね」

「あ、ほんとだ……」

「よければ、続きは明日のランチでどうかな?」

「え? はい! もちろんです!」

生きる意味なんて、見つけようとしなくていいのかもしれない。
それはたぶん、探すものじゃなく、見つかるもの。
大きさも、個人の自由。

それでいいんだ。

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