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雪の花 第1話(小説/ラブストーリー、ヒューマンドラマ)

-1-

止むことのない雪が激しさを増し、膝まで埋もれると、足がさらに重くなった。

「もう少し、なのに……」

水無月優香(みなづき ゆうか)は、白い息を荒く吐き出しながら呟いた。
数十メートル先に見えていたはずの明かりは、チカチカと点滅するように雪にかき消されていき、どんどん遠ざかっているように感じる。

いつも、あの明かりだけが頼りだった。
真っ暗な空と、止むことのない雪。冷たくなっていく体と、乾いていく心。希望などないと言わんばかりに、雪は降り積もり、明かりを地平の向こうに隠していく。唯一の明かり、それさえも否定するように。

優香は、それでも明かりに向かって足を出したが、思うように動かなくなり、前のめりに倒れた。雪が一瞬にして顔を包み、流砂のように体ごと飲み込んでいく。

もう、立ち上がれそうにない……
頭の中で声が響く。
このまま死ぬのだろうか。
それもいいかもしれない。
もう、抗う力も残っていない。
これが私の……

夢の中で冷たくなって、意識を失うと同時に、優香は目を覚ました。
ベッドの中で温められた体は、しっかりと熱を保っており、ベッドから50センチほど上にある窓のカーテンを少しめくると、月が夜更かししているのか、まだ薄暗い空が見えた。

「寒い……」

ベッドから出た手に、ひんやりした空気が触れた。

ピリリリリ、ピリリリリ

ベッドの中に帰ろうとする手を引っ張るように、テーブルの上に置かれた目覚ましが鳴り、優香は足をポリエステルの絨毯の上に下ろして、目覚ましを消してヒーターのスイッチを入れると、もう一度ベッドに戻った。

「……」

12月になって、寒さは厳しさを増した。11月までは秋のような陽気だったものが、グラデーションではなくコントラストのように気温が変わり、冷え性の優香にとっては厳しい季節になった。

部屋が温まってくると、優香はベッドから出て、身支度を始めた。楽しくもないが、特に不満もない仕事。だからといって、何かやりたいことがあるわけでもない。それでも、自分の人生はこれでいいのだろうか、と思うこともある。

しかし、大人になったら何になりたかったとか、絵を描くのが得意、花が好き、人をサポートするのが得意、といったことすら、よく分からないし、少なくとも絵は得意ではない。子供の頃の記憶もない。

正確には、まったくないわけではない。夜、家に一人でいるときに、ふと子供の頃に見ただろう光景が浮かぶことがある。両親と思しき男女の顔も。しかし、思い出そうとすると、片頭痛のような痛みが襲ってきて、思い出すのをやめてしまう。だから、子供の頃の記憶は、ないといっても間違いではなかった。

「雪だ……」

かすかに、カーテンの向こうから漏れ出した光を部屋に入れようと外を見ると、パラパラと、白いものが降り始めていた。天気予報では、明日が雨、雪になるかもしれないと言っていたが、一日前倒しになったらしい。

といっても、いつもどおりの一日に変わりはなかった。準備をして、電車に乗り、仕事をして帰ってきて……

「全部、埋もれてしまえばいいのに……」

外を見ながら漏れ出た言葉に、優香はうつむき、苦笑いした。

「何言ってんだろ、私……」

下向きの気持ちを振り払うように、ウンっ……と伸びをして、洗面台に向かった。

-2-

「またか……」

氷室正臣(ひむろ まさおみ)は、椅子から立ち上がって額に手を当てた。
木製のデスクと、その上に置かれたノートPC、ゲーミングチェア、デザインや色彩、アートに関する本が並んだ本棚だけの部屋を、氷室はぐるぐると歩き回って、ため息を吐いた。

「なんなんだこれ……」

苛立ちを隠さずに呟く。
一ヶ月ほど前から、頭の中に覚えのない記憶が残るようになった。正確には、突然ひらめきのように浮かぶというか、記憶が差し込まれるような感覚。

最初のうちは、朝目覚めたときに記憶があるだけで、夢を覚えているだけだと思っていたが、二週間ほど前から、昼間起きているとき、仕事中でも友達と会っていてもデート中でも関係なく、前触れなしに記憶が差し込まれるようになった。

ある映画を見ているとき、急に別の映画のワンシーンが入り込んでくるように、自分が生きている世界とは別の世界……と思われる記憶が差し込まれる。

といっても、ファンタジーでもメルヘンでも、ホラーでもない。現実に存在していても不自然じゃない、どこかの街の風景。そして、一人の女性。

「仕事しすぎ……ってほど仕事はしてないはず……確かにここ二ヶ月は締め切りが立て続けでストレスはあったけど」

部屋の中央で立ち止まり、頭の中に視点を向ける。
今のところ、これといって仕事に支障は出ていない。気にはなるが、集中しているときにふと別のことが浮かんで、一時的に手が止まってしまうことがあるそれと、表面的には変わらない。問題は、さらに悪化したらどうするかということ……

(どうしたもんかな……今のところ急ぎの仕事はないし、打ち合わせもない。今日は休んでのんびり……)

ひとまずコーヒーでも淹れようと、ダイニングに行くと、リビングのテーブルに置いたスマホが鳴った。

『おはよう^^ 起きてる?』

「菜々美は朝から元気そうだな」

チャット画面を見て、氷室は呟いた。
付き合って半年になる、恋人の雨宮菜々美(あまみや ななみ)は、氷室とは対象的に天真爛漫で、一緒にいると明るくなれるが、場合によっては疲れることもある。

少し疲れてる、と返すと、

『疲れが吹き飛ぶような画像、送ってあげようか?』

と返ってきた。
なんとなく、次のシーンが予想できて、断ると頼むという選択肢が頭に浮かび、胸のあたりにモヤリと雲が浮かんだ気がして、頼むと返した。

2分ほどして、『これで元気出して、がんばってね』というメッセージとともに、予想と八割ほど一致した画像が送られてきて、「ありがとう」とだけ返すと、スマホをテーブルに置いた。

「……」

ダイニングのテーブルに戻って、淹れたてのコーヒーを喉に流し込む。香りがふわりと、鼻の内と外を包み、喉を通って胃のあたりが熱くなると、全身が覚醒するような感じがした。

(あの夢? 記憶? はなんなんだろう。一時的なものかもしれないし、放っておけばそのうち消えるかもしれない。でも最近は頻度も上がってるし、もう一度病院に行くか……けど行ったところで……)

氷室は、そこまで考えると椅子から立ち上がり、リビングまで歩いてスマホを取ると、会社に、今日は休むというメッセージを送った。それからすぐに友人の栗林にチャットをして、スマホを戻した。

「ふぅ……」

リビングのソファに腰を下ろして、首をもたれる。
以前病院に行ったときは、原因はハッキリせず、体には異常はないから、精神的なことが影響しているかもしれないと言われ、それなら解消できるだろうと思ったが、寝不足という最悪の敵が目立つようになってきた今、今後仕事にもプライベートにも支障が出る可能性は高い。

「……!」

ふと眠気が襲ってきたところで、スマホがテーブルの上で震えて、体がビクリとした。今、かなり間抜けな顔をしているだろうと思いつつスマホを取ると、栗林からの返信だった。

『昼ぐらいなら時間取れるぞ。飯でも食うか?』

氷室は、助かると書いて、だいたいの時間と待ち合わせ場所を返すと、栗林からはすぐに、「OK」と返ってきた。途端、眠気が戻ってきて、抗うことなくソファに横になった。

家を出るまで二時間ほどある。その前に少し時間を取って、今の状況を整理する……そこまで決めると、夢の中に落ちた。

-3-

雪は、相変わらず降り続けていた。駅までの道が少しずつ白に染まっていき、吐く息と同化するように、世界が変わっていく。厚手の手袋もして、完全防寒のつもりで出てきたが、体が無意識に内にこもる。こんな日は休んでしまいたい……という衝動に駆られるが、駅に近づくにつれて、少しずつ気持ちが明るくなった。

駅について、電光掲示板を確認、電車が動いているのが分かると、頬が一瞬緩むと同時に、肩のあたりに力が入った。

(今日も会えるかな……)

優香は少し、ポーっとした顔で電光掲示板を見つめたまま、マフラーを顎のあたりまで上げた。まだ人はそれほど多くない。以前満員電車に乗ったときは、左右の上から押しつぶされそうになり、会社に着く頃にはクタクタになっていて、それ以来、少し早めの電車に乗るようにしたが、会社の最寄り駅に着く頃にはかなり人が増えており、身長がもっとあれば……と、ないものねだりが浮かぶことは未だにある。

ホームへの階段を降り、いつもの場所で電車を待つ。前後にサラリーマンらしい男が立ち、前にいる男は新聞を広げている。後ろの男はスマホでも見ているのかもしれないし、分からなかったが、やがて電車が到着すると、押し込まれるように車内に入った。

席はすべて埋まっているものの、まだ隙間はあるが、会社の最寄り駅に近づくにつれて人は増えていく。ドアの近くに立って、”彼”が来るのを待つ。

「……」

そわそわと、落ち着かない気持ちになる。見かけないこともあり、今日もそうかもしれない……そう思ったとき、”彼”が乗ってきた。一瞬目があって、ドキンとしたまま反射的に軽く頭を下げると、”彼”は少し微笑みながら、会釈を返して、優香は首から頬のあたりが熱くなるのを感じたが、すぐに後ろから人が入ってきて、”彼”は見えなくなってしまった。

「優香、何か良いことあったの?」

会社に着いて、デスクにバッグを置くと、都筑美華(つづき みか)が声をかけてきた。
美華は、優香がこの会社で働き始めてから、最初にできた友達であり、今でもプライベートで付き合いがある。

明るく、一日の半分以上を笑顔で過ごす美華は、社内でも男女問わず人気があり、どちらかというと地味で目立たない優香とは対照的で、なぜ優香と……? と思っている社員も一部いる。

最初のうち、自分といることで美華の明るさが引き立つから、そのために一緒にいるのではないかと、優香は思っていた。そんなふうに疑ってしまう自分が嫌だったが、それぐらい、美華のような女性が自分と一緒にいてくれることが分からなかった。

美華は、そんな優香の警戒を知ってか知らずか、仕事でもプライベートでも良くしてくれて、優香は、何も返せていないような気がして、時々申し訳ないような気持ちになった。

「え? どうして?」

聞き返すと、美華は微笑みながら、

「なんか機嫌良さそうだよ? いつもはつまらなそうな顔してるのに(笑)」

「そうかな(笑)」

「イイ男でも見つけた?」

「そんなんじゃないけど……後で話すね、お昼のとき」

「うん。
まあとにかく、機嫌がいいのはいいことよ。
今日もがんばろうね」

「うん」

美華がいうように、確かに機嫌がいい……というより、いつもより心が軽い。その理由は分かっていたが、胸の少し下辺りには、チクチクとした、小さくて黒い、棘がついたボールのようなものがあるように感じる。

次はちゃんと挨拶しよう、お礼も言おう……
そう決めると、優香は仕事に取り掛かった。

-4-

眠りに落ちてから一時間ほどして、氷室はソファから体を起こした。

「冷えるな……」

エアコンを付け忘れたかと思ったが、しっかりとついているし、温かい空気も出ている。ふと、窓の外を覗くと、雪がパラパラと舞って、ベランダが少し白くなっていた。

「雪か……
……!」

寝ている間に見ていた夢の一部らしいものが、記憶のように浮かんで、氷室は右手で頭を押さえた。

通勤で電車に乗り、少し離れたところにいる女性が、遠慮がちに会釈してくる。それに応えて、自分も微笑みながら会釈を返す……その場面だけが、どこからか切り取って貼り付けられたように残っている。いつ電車に乗ったのか、その後どうなったのか、辿ろうとしても、前にも後ろにも道がない。

一瞬の頭痛と、覚えのない記憶。
リビングで寝ていた一時間で見た夢かもしれないが、夢の場合、ある程度前後を思い出すことができる。ここ一ヶ月のことを考えても、それは「差し込まれた記憶」であると考えて間違いなさそうだった。

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