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第1話 記憶の欠片【口裂け女の殺人/伏見警部補の都市伝説シリーズ】小説

-1-

女は、ゆっくりと夜道を歩いていた。
昼間はともかく、朝夕は冷え込むこともある10月に、朱殷(しゅあん)色のワンピースを纏い、腰のあたりまである黒髪は艶があり、時折風に揺れると、いい香りが周囲に漂う。服の上からでも分かるスタイルの良さと、意思の強そうな目と高い身長は、モデルのようにも見える。

服と同じ色の、7cmのハイヒールを履いて、アスファルトの道を歩いているのに、足音は響かず、地面に足をつけていないかのように歩き続ける。

「こんばんは~」

見知らぬ男が声をかけてきたが、女は無視して歩き続けた。駅周辺でもない、ほとんどの店が閉まって眠りについている場所で声をかけてくるのは妙だが、最近このあたりでは、近くにできたコンビニにたむろして、夜一人でコンビニに来る女性をナンパしている連中がいるらしく、横で必死になっている男もそれだろうと、女は思った。

「お姉さん、そんな服装で寒くない? よかったら、暖かいコーヒーでも飲みながらお話しません?」

「……」

「いきなり知らない男に声をかけられても、困るよね。それは分かる。けど、お姉さんみたいな綺麗な人、男なら声をかけないわけにはいかないから……」

「私が、綺麗?」

女は立ち止まって言った。

「うん、すごく綺麗だよ。もしかして、自分の魅力に気づいてない? 俺、女を見る目には自信あるし、お姉さんは間違いなく……」

「これでも……?」

「……!!!!」

「これでもまだ、綺麗って言える?」

「あ……あんた……ま……うわぁぁぁぁぁっ!!!!」

男は、顔に恐怖を浮かべて逃げていった。何度か転びそうになりながら、どこかへ向かって走っていく。

女にとって、それはショックなことではなかった。いつものこと。絵に描いたように、みな同じ反応をする。

「……」

男が走っていった方向が騒がしくなった。そっちにはコンビニがある。おそらく、コンビニでたむろしている仲間に、今のことを話しているのだろう。

“口裂け女を見た”、と。

反応に慣れていても、見世物になる気はない。
女は踵を返すと、音もなく闇の中に消えた。

-2-

「ねぇ、聞いた? 営業課の松山さんが口裂け女を見たって話」

スマホアプリを開発する会社、スパフルの休憩室には、12時から14時の間は、昼食をとるために、ほとんどの社員が集まってくる。駅から歩いて20分、バスだと10分、周囲に飲食店はなく、大手コンビニが一店舗ずつしのぎを削るという場所だけに、駅周辺まで食事に行く社員はほとんどいない。だが、2、3分も歩けば海辺に出られるので、春や秋には、外に出て海を見ながら弁当を食べる光景も見られる。

(口裂け女……?)

竹神肇(たけがみ はじめ)は、総務の社員の会話に、ふと耳が動いた。

「聞いた! でもさ、あの人、その手の話好きでしょ? 前も人面犬を見たとか言ってたし。おまけに飲むの好きだけどすぐに酔っ払うし、暗がりでマスクしてる女の人でも見て、口裂け女って騒いでるだけじゃない? ほら、なんて言うんだっけ、そういうの」

「なんのこと?」

「口裂け女はいる! って思い込んでるから、そう見えちゃうみたいな。なんかあるじゃん」

「え~、知らない」

(パレイドリアか、結論有りきという意味だと確証バイアスかな。……ん?)

竹神は、目の前の本よりも、興味がないはずの噂話に耳を奪われていることに気づいて、苦笑いした。

「とにかく、そういうなんかあるの! それじゃない? なんかの見間違い」

「と思うでしょ? でもね、本気で怯えてるみたいなの、松山さん」

「マスクを取った姿を見て、怖くて逃げたって……松山さんって、普段はあんなでも、営業成績は常にトップ3に入ってて、朝から晩まで走り回ってるのに、ここ数日、夕方になると会社に戻ってきて、出ようとしないみたい」

「じゃあ、ほんとなの……?」

「バカバカしい」

総務の女性社員二人を鼻で笑うように、猪瀬が言った。

猪瀬は、竹神と同じ開発部の人間で、仕事ができてその手の話が好きという意味では、松山と似ている。

「猪瀬さん、バカバカしいってなによ」

「口裂け女って言うのは、1970年代からある都市伝説なんだぜ? でも実は、100年以上前、江戸時代の吉原でも、口が裂けた女を見たって話があったりするんだ。次のネタが出るまでのつなぎみたいなもんだよ。また別の都市伝説が出てくれば忘れられる」

「でも松山さん、怯えてるんだよ?」

「松山さんについて詳しいみたいだね、実咲ちゃん」

猪瀬がニヤニヤしながら言う。

「そんなことないけど……」

「とにかく、見間違いだよ、きっと。口裂け女って、マスクしてれば普通の女と変わらない外見だからな。酔って間違えたってのが正解だと思うぞ。なあ、竹神」

「……!」

突然話を振られ、三人の視線が一斉に自分に向くと、竹神は首を横に振った。

「どう思う? 口裂け女について」

「そういう話は詳しくないので……」

「知らないなりに何か意見はあるんじゃないか。聞いてたんだろ? 今の話」

覗き見していたように言われて、顔の温度が上がった気がしたが、深呼吸のようにため息をついてから、口を開いた。

「口裂け女がいるかどうかってことを聞いてます?」

「そうそう」

「……どうですかね。口裂け女って、妖怪とか、そういうものですよね、生物として考えるなら。妖怪の存在が確認されていないので、そういう意味ではいない、松山さんは酔ってマスクの女性を見間違えたってことになると思います」

「だよなぁ? ほら、やっぱり……」

「ただ……」

「……?」

「妖怪がいるって証明されていないだけで、もしかしたら人間社会に溶け込んでて気づかないだけかもしれないし、口裂け女って、口が裂けてること以外、人間の女性と同じですよね。裂けてる口だって、何か事故でとか、そういうものだと考えると、怖いっていうのも失礼かなと……まあ普通じゃないのは確かだから、見た目が怖いって思うのが普通の反応なのかもしれないけど」

「すっごい冷静……」

「竹神くんらしいね(笑)」

「真面目だなぁ、相変わらず(笑)」

「いや、だって……」

「いいんだいいんだ。でもよ竹神、口が裂けてること以外は普通って、見た目は確かにそうかもしれないけどだよ、口裂け女って、刃物だったか、ハサミだったか、なんか持ってるんだぞ。遭遇した人はそれで襲われる。それって怖くないか?」

「口が裂けてようがいなかろうが、刃物もって襲ってくるのは怖いですよ、人間でも妖怪でも、どっちでも……」

「そりゃあそうか(笑)」

「猪瀬さんって、口裂け女の存在を信じてるのか否定してるのか分からないですね(笑)」

「俺はその手の話が好きなだけで、いるとは思ってないよ(笑)」

「え~、そうですかね(笑)」

「そうだよ。松山さんとは違うの、俺は(笑)」

「あ、そろそろ戻らないとだよ」

「ほんとだ」

「俺たちも戻るか、竹神」

「そうですね」

口裂け女がいるかいないか、竹神にとっては、どうでも良かった。モノクロの心は、目の前に恐怖がこようと、体を金縛り状態にすることもないし、前に進めようとすることもない。感情など無意味だ。冷静さを失わせ、正しい答えから遠ざけるのは、いつでも感情。モノクロ、大いにけっこう。

開発部のオフィスに戻ると、竹神は淡々と仕事を続けた。プログラムという、感情を必要としない作業に没頭できることは、竹神にとってはありがたく、心地いいことでもあった。楽しいわけではない。つまらないわけでもない。ただ、コードのこと以外何も考えなくていい、そのことが心地よかった。

21時過ぎ。
仕事を終え、竹神は、駅から家までの道を、いつものように歩いていた。駅から家までの道は、駅周辺の商店街を抜けると住宅街であり、この時間になると人はあまりいないし、車の往来も少ない。人を避けたり、車を気にして歩かなくて済むのは楽でいい。

「ん……?」

チカチカと、暗闇と光が交互に目を刺激する。街灯の一部が切れかかっているらしく、照らされたり暗闇になったりする道を見ていると、不安という感情が出てくるのを感じた。

そこから連想したのか、昼間の口裂け女の話が浮かんだ。そんな自分に思わず苦笑したが、信じていようといなかろうと、そういうことはあるのだと思うと、興味深くもあった。

(ここで本当に口裂け女が出てきたら、映画みたいで面白い)

そう思い、少しだけ立ち止まってみた。だが、何も起こるはずもない。馬鹿らしいことをしたと自嘲気味に笑うと、家に向かって歩き出した。

-3-

「雨草!! おまえこれ、また間違えたのか? こないだ注意したばかりだろ」

「あ、すみません……」

「すぐに作り直せ!!」

「はい……」

雨草奈津美(あまくさ なつみ)は、俯いたまま、自分の席に戻った。

「あんな、みんなに聞こえるように言わなくてもいいのにね、感じ悪いよね、課長」

隣の席の天田麻里(あまだ まり)が言った。

「あ、はい……でも、間違えた私が悪いですし……」

「とにかく、あんまり真面目に受け取らないほうがいいよ。課長、社員からもあまりよく思われてないし」

「……」

奈津美は、なんとなく「はい」と言って、パソコンのほうに体を向けた。

一見味方のように振る舞っている麻里が、影では自分のことを、鈍くさい、あの子のせいでちゃんとやってる私たちまでよく思われないと言っているのを、奈津美は知っていた。課長に対しても、本人を目の前にすると、艶っぽい声で話しているのを、同じ部署の人間は全員見ている。

『何度も怒られてるから、もう慣れてるんじゃない? あの子。実はドMだったりしてね(笑)』

麻里がそんなふうに言ってるのも、聞いたことがあった。だが奈津美自身は、何度叱られても慣れず、毎度強く落ち込む。慣れないのはいい部分でもあるかもしれないが、落ち込んでばかりいるわけにもいかず、でもうまくいかず、長年の悩みになっていた。

叱られるたびに、次はちゃんとやろうと、間違えたこと、教わったことはメモして、次に生かそうとはする。だが、いざ仕事に取り掛かると、どうにもうまくいかない。

もう失敗できないと緊張してしまうのもあるが、心の底で、自分はダメな人間なんだという思いが消えず、すべて空回っていく。最初に就職したときからそうで、現在は、派遣での仕事を転々とするという状態が続いていた。

「お疲れ様です……」

その日は、なんとか残りの仕事はミスなくこなすことができた。だが頭は、午後一の失敗に支配され、心には真っ黒な雲がかかったままだった。

「雨草」

帰ろうとすると、課長と飯野が言った。

「あ、はい……」

「そんな身構えなくても大丈夫だ。今日は、あれ以外はミスなくこなせたんだろ? そこはちゃんと、自分で自分を認めてやれ」

「……」

「まあ……平均的に見ると、少しミスが多いのは確かだ。けど、天草が一生懸命やってるのは分かる。ちょっと叱ると来なくなってしまう人間も多いが、勤怠は良好だしな。もう少しだと思う。一生懸命やってますだけじゃ、会社では認められない。だけど、天草が持ってる粘り強さは、最近の人間が失くしかけてる、貴重な強みだと思う。がんばれよ」

「はい、ありがとうございます……」

「おつかれさん」

「お疲れ様です……」

奈津美は、飯野があんなふうに言うのを、初めて聞いた。フロアには、他の部署の課長や社員数名しか残っていなかったからかもしれない。少しだけ雲が晴れた気がしたが、だから問題が解決するわけでもない。

どうすればうまくいくのだろう……

少し暗い階段を降りながら、奈津美は思った。何度も自分に問いかけ、未だに出ない答え……

仕事を効率よくこなす10の法則。
できる人がやっている12の習慣。
7日間で落ちこぼれを卒業する方法。

そういった本も、たくさん読んだ。結果として、少し変わった気はする。読む前と後とでは、確かに違いはある。でも、相変わらずうまくはいかない。

(私は、何をやってもダメなのかな……いけない、そんな弱気になっちゃ……がんばらなきゃ、せっかく課長もああ言ってくれたんだし……)

疲れた心に鞭を打って、奈津美は会社を出た。

「雨……」

電車に揺られ、自宅の最寄り駅に着くと、空が泣き始めた。そういえば、天気予報では、夜から降り始めるかもしれないと言っていたのを思い出した。会社に置き傘があったが、雨のことなどすっかり忘れていた。

(これぐらいなら、傘なくても大丈夫かな、走るのは難しいし……)

奈津美は、右肩に掛けたバッグを両手でギュッと握ると、カツカツと音を鳴らして、家へ急いだ。

歩き出して5分ほどすると、雨は大粒になり、傘なしで歩くのは厳しくなってきたが、今更駅に戻って傘を買っても意味がないし、あと10分も歩けば家。周囲には誰もいない。濡れてたって、そんなに問題は……

(……?)

自宅に向かう道と、住宅地へ向かう道。分岐する位置から少し奥に入ったあたりに、おそらくは男と女と思われる人影が見えた。

心細い街灯の近く、傘は差しておらず、男は傘を落としたことも気にせずに、女に向かって何か言っているように見える。痴話喧嘩かと思ったが、男が女を押さえつけようとしているように見えた次の瞬間、男の動きが止まり、支えを失った人形のように、その場に崩れ落ちた。

「え……?」

声を出しかけて、両手で口を押さえた。
自分は今、何を見ているのか。
頭の遠くで、逃げないと、という声がするが、体は硬直したまま動かない。
やがて、女の顔がこちらを向いた。

-4-

(なんで……)

女は、雨の刺激を感じながら、動かなくなった男を見下ろしていた。
首の左から流れ出る血が、雨で流れ、一部はアスファルトに留まって、赤い染みを作っている。

右手に持った、銀色のハサミの先端は、赤く染まっている。
女は、恐怖を手放すように、ハサミを地面に放り投げた。
手には感触が残り、目の前の状況は、自分がやったことの結果だと分かるが、なぜそうなったのか分からなかった。声をかけてきた男の顔を見た瞬間、拒絶が全身に広がって、男が近づいて手を伸ばしてきた時には、体が動いていた。

雨が勢いを弱めると、視界が開けてきた。
ふと顔を上げる。
数十メートル先に人がいて、こちらを見ている。
反射的に背を向けて、女はその場から離れた。

弱まった雨が、パラパラと草木を揺らす音がする。
地元民だけが訪れる小さな神社。道路から見えないよう、社務所を通り過ぎて、境内を守るように立っている木の一つに寄りかかり、女は自分の内側に意識を向けた。

(頭が痛い……)

奥歯に力が入り、顔が俯いていく。
あの男に遭遇してからずっと、記憶の断片のようなイメージがチラついて、徐々に頭痛が酷くなってきていた。

(森、どこかの家、男の声……)

断片を言葉にする。書き留められるものがあればいいと思ったが、そんなものはポケットを漁っても出てこない。社務所の中に入れば見つけられるだろうが、女は首を横に振った。

(みづき……)

男の声の断片に、新しい言葉が見えた。

(みづき、橘みづき……)

断片は、すべて主観。それが自分の名前なのだと、女は理解した。

「橘みづき。それが、私の名前……」

声に出してみたものの、再びズキンと強い痛みを感じて、目をきつく閉じた。

「……」

自分が口裂け女と呼ばれる存在であることは知っていても、自分の名前など気にしなかった。口裂け女という存在そのものが、名前なのだと思っていた。だが、記憶の断片は、そうでないと言っている。今の存在になってからの記憶にはないもの。

「私は人間、だったの……?」

そんなふうに考えたことはなかった。
自分がどうやって生まれたのかも、興味はなかった。

「私は、なんなの……」

今は違った。
考えずにいることは、もう、できなかった。

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