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心に耳を傾けて 第6章 亀裂(ショート連載/エッセイ風)

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「本庄、今、残ってる仕事あるか?」

オフィスに戻ると、僕についているベテラン社員が言った。

「新しい仕事が入ってきてなければ、特に・・・・・・」

「じゃあ、すぐに社長室に行け」

一瞬、何を言われたのか分からず、「はい?」と聞き返した。

「社長室に行け」

ベテラン社員は、苛立たしげに社長室を指さした。

心臓が強く脈打ち始めたのは、突然の呼び出しだけが理由ではないと、すぐに分かった。少し大げさに聞こえるかもしれないが、僕にとってそれは、トラウマのフラッシュバックだった。

事故に遭ったり、犯罪被害者となってしまったり、戦場で過酷な現実を目の当たりにすると、心にはトラウマとして残る。アドラーはトラウマはないと言ったらしいけど、捉え方によってという注釈は必要と思いつつも、ないと否定するのは、ただの現実否定、自分の心に対する思いやりに欠ける解釈だと、僕は思っている。否定しても、トラウマという言葉を使わないとしても、心に傷はできる。

その傷は、トラウマを作ったのと似た出来事に遭遇すると、そのときの恐怖を呼び起こすが、それがフラッシュバックだ。たとえば、夜道で性犯罪に遭った女性は、夜道を一人で歩くことはもちろん、家の方向が同じ男が近くを歩いているだけで、恐怖で体が震え、手に汗をかき・・・・・・といった反応が出てしまう。

歩いている男が既婚者で子供もいて家族仲が良好でも、独身でも、関係ない。その男が何もしてこないのが事実であっても、心は反応し、体にも影響が出る。

そういったことに比べれば、僕のトラウマなど大したことではない。でも、あの日、理由もわからないまま突然社長に呼び出され、四時間近くも、やってもいないことを"自供”させられたことは、恐怖体験だった。そして今、あのときと似た状況に、突然放り込まれて、僕の体は震え、手には汗が滲んでいた。

「どうした? 待たせるなよ。社長も忙しいんだから」

「すみません・・・・・・」

声がかすれる。
僕は、一度下ろした腰を上げて、意識的に深呼吸しながら、社長室前までくると、ドアをノックした。社長は、パソコンから顔を上げて、人差し指で入ってくるように合図した。

「失礼します・・・・・・」

いつもどおり言ったつもりだったし、声はかすれなかったが、心臓の音が聞こえてしまうのではないかとか、動揺が伝わってしまうことに対する恐れも出てきて、警戒心を隠せないまま、社長を見た。

「突然呼び出して悪かったね」

社長はニコやかに言った。

何を言おうとしている?
なんのために呼び出された?
何を言われるんだ?

「まあ、そこに座って」

社長は、自分のデスクの前にある、テーブルを囲むソファに座るよう促した。
"あのとき”は、最初から尋問する気満々の雰囲気だった。

「失礼します・・・・・・」

僕が座ると、社長は対面に座った。

「竹内くんのことなんだ」



-2-

竹内さん・・・・・・?
さっきのあれのことかと思ったが、それで呼び出される理由が分からない。

「えっと、竹内さんが何か・・・・・・?」

探るというより、本気で分からずに聞いた。

「さっき竹内くんが来てね、辞めると言ってきたんだ」

「辞める・・・・・・」

その決断には、特に驚きはなかった。さっき話したときに、そう言っていたし、行動の速さには驚いたが、正しい判断だとも思う。

「そう、なんですね。残念です・・・・・・」

何に対して残念なのかは、気にしないでほしい。ここに至っても、なぜ自分が呼び出されたのか分からず、何を言えばいいのか分からなかった。

「えっと・・・・・・」

「竹内くんと話してるうちに、君の名前が出てね」

「え?」

「彼は、この会社のすべてを否定するつもりはないが、上司や先輩社員による社風の押しつけは許容できないと言ってね。唯一自分を理解してくれたのは、君だと言ったんだ」

「そう、なんですね・・・・・・」

「他の社員に心を開かなかった竹内くんに、心を開かせた。君がどんなふうに彼と話したのか、教えてほしくてね」

「あの、それが呼び出された理由、ですか・・・・・・?」

「君も、上司や先輩社員との折り合いが良くないみたいだね」

「・・・・・・」

「二つのことについて、話がしたい。
まずは、竹内くんのほう」

「どんなふうに話したか、でしたね・・・・・・」

「うん」

「特に何を言ったとか、そういうことはないです。竹内さんが悩んでるみたいだったので、声をかけて、彼の思いを聞いただけですよ」

「話を聞くということなら、上司も先輩社員もしてきたはずなんだよ。でも彼としては不満だったみたいでね」

「そう言われても・・・・・・」

「うちは、たとえ新人であっても、疑問があれば自由に意見を言える、そういう環境を作っている。先輩社員や上司は、意見の内容が自分たちの考えにそぐわないものであっても、受け止める。にもかかわらず、竹内くんは意見せずに辞めることを選択した。君にだけ話してね」

「・・・・・・」

「竹内くんが別の仕事で頑張っていくなら、応援したい。しかし、意見と退職の間に、相談というプロセスがなかったことは、会社としては問題なんだ」

「・・・・・・竹内さんは、自分の意見を言いましたよ」

「どんなふうに?」

少しためらったが、僕は竹内さんが、自分の仕事のやり方について説明して、なぜそうなのかという理由も話していたことを伝えた。

「つまり君に言わせると、私がさっき話したことが実践されていない、そういうことかな?」

社長は、口調は穏やかなままだったが、その顔には不快感が滲んでいた。そんなはずはない、おかしいのは僕や竹内さんのほうだと、無言で訴えてくるようで、僕は俯いた。

「竹内くんの上司と教育担当とは、あとで話すつもりだ」

話してどうするのだろうと、僕は思った。
上司もベテラン社員も、会社の色に染まりきっている。何が問題なのか、本気で話し合うとは思えないし、ベテラン社員は自分たちの正しさを証明することに終始するはずで、それは会社の方針と一致していて、社長はそれに反対できない。前提を変えなければ問題の解決にならないことでも、前提を変えることはこの会社にとって死を意味する。

茶番だ・・・・・・
僕はテーブルの下で拳を握った。

結局、竹内さんを悪者にして終わる。
何一つ建設的でない、自分たちが正しい理由を並べて安心するだけの話し合い。
そんなものに、意味はない。

「・・・・・・お言葉ですが」

「ん?」

「話したところで、何か変わるんでしょうか・・・・・・」

「どういう意味かな?」

「竹内さんが辞めるのは、本人の問題というか、合う合わないというのもあるでしょうけど、会社の何かがおかしいと考えることも必要じゃないでしょうか」

「会社がおかしい?」

明らかに、社長のトーンが変わったが、僕は続けた。

「社長の話は聞きました。本のことも。毎朝唱和してる訓示も、大事なことだとは思います。でも、100%正しいわけじゃない」

「なんだって?」

「そんなもの、ないんですよ。どんな状況にも対応できる考え方なんて。前向きに考えても道が見つからないことだってある。そういうとき、自分の気持ちがどんなものであってもいったんは受け入れて、寄り添うにしなければ、苦しさが強くなるだけです・・・・・・!」

自分の言っていることもまた、絶対に正しいと思っているわけではなかったけど、いつも前向きでいようとすることが自分を追い詰めてしまうことは、間違いないと言い切れる。何冊もの本で、科学的に証明されているし、何より僕自身が、かつて自分を追い詰めてしまったから・・・・・・

「本庄くん」

「はい・・・・・・」

「君は随分と、口が達者なんだな。驚いたよ」

「口が達者・・・・・・?」

「もっともらしいことを言ってるが、君はうまくいってないだろう?」

「・・・・・・それは、僕がいろいろな仕事を転々としているのが問題だと、そういうことですか?」

「一つのことを、これと決めたことを諦めずにやり続けるからこそ、成功できる。君のように定まらずに転々とするのは、結局何も成し遂げられない人間によくあることだ」

社員が知っている社長の顔ではなく、見下したような目と、圧力・・・・・・僕は瞬間的に俯き、胃が重くなり、心臓が早くなったが、頭だけは不思議と冷静だった。

「それも違いますね」

僕は言った。

「違う? 何が違う? 事実じゃないか」

「僕がうまくいっていないのは、そのとおりです。でも数年前より人生は良くなってます。自分の内側が変わったことで、外の世界も変わったから」

「だから自分が正しいと言いたいのかな?」

「正しさを証明する気なんてありませんよ」
僕は言った。

「さっきも言ったように、絶対的な正しさなんてありません。社長がいう、一つのことを諦めずにやり続けることで成功する人もいますが、そういう人のほうが珍しいんですよ。ただ、そういう人は目立つし、注目されるから、みんなそれが正しいって思うだけです」

「本当は違うと? やはり君は自分の正しさを・・・・・・」

「社長」

「なんだ?」

「僕は、社長の言ってることが間違ってるとも言ってませんよ。でも絶対に正しいわけじゃない。そういう話をしています」

「何が言いたい?」

「いろいろなことを学んで、体験するからこそ、自分は何に喜びを感じるのか、何がしたいのかが見えてきます。これと決めたことをやるのも一つですが、それは自分のやりたいことでも、向いていることでもないと気づいたら、やめたっていい。たとえば、誰もが知る有名画家のゴッホだって、寄り道をたくさんして、今知られている絵のほとんどは、晩年に描かれたものです。やめることも、ネガティブなることも、悪いことではないんです」

「ゴッホは天才だ。サンプルとして使うべきじゃない」

「その天才の軌跡が、いろいろなことをやってみて、やめてみて、自分の道を見つけることだったんですよ。天才の一言で片付けるのは、ゴッホの背景を見ていないということにならないですか?」

「君と私では立場が違う!! 成功していない君のいうことに説得力はない!!」

社長は立ち上がって僕を指差した。

不思議だった。
以前、あのブラック企業で同じような目にあったときは、萎縮して何も言えなかった。でも今は、心臓の鼓動は早いままだけど、その状態を冷静に見ている自分がいる。

「確かに、社長と僕では立場が違います。知らない人と話したら、信用されるのは社長のほうでしょう、いわゆる成功者ですから。でもサンプル数は社長一人です」

「な……」

「僕が今話したことは、例としてゴッホを取り上げただけで、サンプル数はもっとたくさんあります。一個人の経験だけに頼らない、科学です。客観的な説得力は、社長より科学ではないですか?」

「何様だ君は!!」

「社長」

「な、なんだ……」

「社長はなぜ、そんなに自分の正しさを証明しようとしてるんですか?」

「それは君のほうだろう!」

「僕はただ、自分の意見を言っているだけです。社長の意見や経験が全部間違ってると、言い負かしたいわけじゃありません」

「……」

「社長の信念を一部否定する事実があっても、社長の意見がすべて間違っているということにはなりません。ポジティブに考えて乗り切ったほうがいいときもあるし、諦めないことも大事です。でも、ネガティブを使ったほうがいいときもあれば、諦めて別のことをやったほうがいいこともあります。僕は、その場に応じたものを使えばいいと思います」

「偉そうなことを……もういい、君はどうやら、うちには適していないようだ」

「そうみたいですね、感じてはいましたが」

僕は立ち上がった。

「でもおかげで、自分が何をすべきか、何をやりたいのかが見えてきました」

僕は、その場で退職する旨を伝えた。
「お世話になりました」とお辞儀をして、社長室を出た。山岸さんにも状況を伝えると、戸惑いの表情で、退職手続きのために明日は出社してほしいと告げられた。

「なんでそんなにスッキリした顔をしてるんだ……」

山岸さんが言った。

「無職になるんだぞ」

「道が見えたので。竹内さんと、社長のおかげで」

「竹内?」

「では、失礼します。また明日」

「あ、おい……!」

仕事がなくなる。
そのことに不安はあったが、気持ちは晴れやかだった。
会社との間に、修復が難しい亀裂が入ったが、僕自身にも亀裂が入った。
殻を破る亀裂。
新しい自分になるための亀裂が。

続く

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