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壁越しの恋 第四幕 感情の境界線 (連載小説)

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第四幕 感情の境界線

-1-

チャットでのやり取りになると、思った通り、言葉を交わす時間が増えた。三日も経った頃には、数カ月分ではないかと思うほどの言葉がチャットを埋めて、來未の想いはいよいよ強くなった。

お互いの写真も交換して、顔を知ったあとは、想いはさらに加速して、「素敵です」という秀一の言葉に、何度もニヤニヤして、ふと我に返って赤面したりもした。そのことを藍梨に話すと、藍梨は少しからかうようなことも言いながら、「いいね~、來未がそんなふうに自分を抑えられない感じ、初めて見た気がする」と、嬉しそうに目を細めた。

一方で、森下からの連絡も、頻度が増えていた。
最初の頃は返信していたが、秀一とのやり取りが増えるのと反比例して減っていき、最近は既読にすらしてしない。内容だけは確認しようと思っても、怖くて、通知がきたときに見える最初の数行しか見れず、上司である近田に状況を伝え、再度指導するとは言っていたが、期待はできそうにないと思っていた。

契約上、週に一度は会社に顔を出すことになっていて、そのときに会う森下は、特に問題がないように見えるが、他の人と話しているとき、背中に視線を感じて、振り返ると森下が見ていたということは、何度かあった。

「本当に、申し訳ございません」

友平機械の応接室で、近田は向かいのソファに座ったまま頭を下げた。気苦労が多いのか、ふさふさとした髪の八割は白髪が占めており、顔のシワも深い。もっとも、目の辺りのシワは、近田の優しさを示すようなラインを作っており、気弱ながら必死さを感じさせる目は、どこか安心感を覚える。

「森下をここに呼んで、止めるようにこの場で承諾させましょうか?
お、ありがとう」

事務員の丸井が、気を利かせて運んでくれたお茶が、ガラステーブルの上に置かれた。

「いえ、やめたほうがいいと思います、それは」

來未は言った。

「私が個人で、森下さんと話して証文を取るなら、まだいいと思いますが、それでも法的なものでなければ、効果は限定的だと思います。もしここに呼んで承諾してもらっても、彼の中には恥の感情が残ります。屈辱と言い換えてもいいかもしれません。

第三者がいることで、言った言わないは防げるかもしれませんが、近田さんや丸井さんが見ている前で”もうしません”みたいなことを言わされたと、本人は受け取ります。それは長い目で見ると、あまりいい結果はもたらしません」

「なるほど……言われてみれば確かに。森下の性格を考えても、それは止めたほうがよさそうですね」

近田は唸った。

「ただ、お伝えし辛いんですけど……」

「……?」

「もし、このまま何も解消されないようなら、ご要望をいただいても、次回の契約は更新しないということで、お願いしたいです」

來未が言うと、近田は目を見開いて立ち上がった。

「いや、それは困ります……! 君沢先生のおかげで、従業員たちは一人悩むことなく相談できて、仕事にもプラスの影響が出ています。売上も上がっているんです。彼ら一人ひとりの頑張りはもちろんですが、君沢先生の力が大きい。森下のことは、必ず私がなんとかしますから、どうか……」

近田は、後頭部が見えるほど頭を下げた。

「やめてください、そんな……」

「次回の契約のことは、もう少し待ってください。あと一ヶ月あります。その間になんとかしますので……!」

「……分かりました。近田課長がそこまでおっしゃるなら、待ちます」

「ありがとうございます……!」

近田は、さらに頭を下げようとしてバランスを崩し、ガラステーブルに手をついた拍子にお茶が溢れた。

「ああ、いや、お恥ずかしい……」

近田は、丸井が布巾を持ってきて、拭こうとするのを制して、自分で受け取って拭き取った。

「森下とは、今日話します。仕事が終わったあとに」

「分かりました。ただ、あまり追いつめすぎないようにしてください」

「分かりました」

來未は、森下と会わないように気をつけながら、会社を出た。どこかから見られていたかもと思うと、肩が縮む思いだったが、まだ日が高いこともあって、恐怖心はそれほど大きくない。

ちょうど来たバスに乗ると、出口に一番近い一人掛けの席に座って、スマホを取り出した。
LIVEREの通知は三通。一つはチラリと見てスルーし、一つは頬が緩んだが、最後に取っておこうと既読にせず、最後の一通を開いた。

(なに、どういうこと……?)

液晶に映る大西からのチャットには、理解しがたいことが書かれていた。

『來未のお母さんから連絡がきた。最近連絡くれないんだけど、何か聞いてるかって。特に何も、仕事が忙しいんだと思いますって返したけど、たまには連絡してあげろよ。心配してたぞ、一人ってことにも。俺が一緒にいてくれたら安心なんだけどって言われて、俺も返答に困った。でも俺も、もしまた不安定になったらって思うことがある。これから先のこともある。一度会って話すいい機会じゃないか?』

「……」

呼吸が早い。
心臓も早い。
來未は、スマホをバッグ戻してから、周囲に変に思われないように、左手で口の辺りを覆った。

(なんなの……なんで辰也に聞くのよ。私に直接連絡してくればいいだけでしょ……!)

來未の母、恭子(やすこ)は、大西との結婚を喜び、これで來未は安心だと思っていた。しかし二年後には離婚、恭子は事あるごとに、「なんでなの?」と來未を問い詰め、あなたが悪い、やり直しなさいと言ってきて、來未はうんざりしていた。離婚してからも、実家には何度か顔を出したが、同じことばかりで話を聞こうともしないので、最近は連絡も取っていなかったが、大西に連絡することは予想外だった。

呼吸が落ち着くと、再びスマホを出して、恭子にチャットを送った。
復縁はない、仕事が忙しい、私は元気、その三点を端的に書いた。それから、大西に向けて、話す機会をもつ必要なんてない、もう会う必要もないと、ハッキリと書いて送った。

(はぁ……)

人の悩みを聞いて、解決に導くカウンセラーが、自分の人間関係がスムーズじゃないのは問題かもしれないが、カウンセラーも人間、相手もいることで、常にうまくいくわけじゃない……そう言い聞かせてから、最後の一通を開いた。

『昨日、ちょっといつもと違う映画を見ました。ホリデイっていう、ラブコメみたいな映画ですが、恋愛要素がありながらも、コテコテじゃなくて、前向きになれる内容でした。來未さんの好みとも、僕の好みとも違う世界観の映画ですが、たまにはそんなにもいいかなと。お時間あれば、見てみてください。記事にするかは分かりませんが、もし観てくれたら、内容についてお話できたら嬉しいです』

(もう……秀一さん、大好き)

心の中で、ハッキリと自分の言葉が聞こえた。
元永を“秀一さん”と呼ぶことは、少し前からのことで、秀一の本名が天利秀一であることも聞いた。秀一も、來未のことを”來未さん”と呼んでおり、それだけでも、中学生の恋のように嬉しかったが、大好きだと、言葉として出てきたのは初めてだった。

胸の辺りが熱くなって、顔も熱くなって、俯く。
周囲から変に思われているかもしれないと、現実と解離した想像が浮かび、バスから降りるときも、少し顔を隠すようにして降りた。

さっきまで感じていた憤りも消えて、違う種類の、ピンクとオレンジがグラデーションしているような熱が、心の真ん中に灯っている。電車に乗って景色を見ているときも、”ほわっ”と灯った明かりは消えず、どんなふうに返そうか、そればかりを考えて、家に着いてからも、バッグをリビングのソファに置いて、両手でスマホを持って、見つめた。

『映画の共有ありがとうございます!
絶対観ます!! そうしたらお話したいです。
そんなふうに、自分の興味以外のジャンルの映画も観て、教えてくれる秀一さんも大好きです! 今日か明日には観て、連絡しますね。』

気持ちに、なに一つ偽りはなかった。
それでも、送信ボタンを押すとき、少し指が震えた。

(大好きって、書いちゃった……いきなりこんなこと書いたら、びっくりしちゃうかな)

立ち上がって、リビングを歩き周り、スマホを手に取って、藍梨にチャットした。まだ昼を回ったぐらいだから、仕事中だろうと思っていたが、一時間ほどするとチャットが返ってきて、今日あったことをすべて伝えると、

『本当に、元永さんのことが好きなんだね』

と返ってきた。
藍梨に言わせると、チャットで話しを聞いているだけでも、秀一のこととその他のことでは、まったく色が違って見えるらしい。今日のことで言えば、森下と大西のことは濃い灰色、秀一のことは薄いオレンジ。

『たぶん、來未が元永さんを好きなのは、彼とやり取りしてるときにも漏れ出てるだろうから、言葉にしなかったとしても伝わってると思うけど、どんなふうに返信くれるか、楽しみだね』

藍梨からのチャットを見て、オレンジの気持ちに、少し黒が混ざった。
勢い、送ってしまったが、どんなふうに返信をくれるかと考えると、怖くなる。波のように、それでも好きという気持ちが押し寄せては、また不安が顔を出す。

「あ、仕事の準備しなきゃ……」

リビングでボーっとしていると、次の予約の30分前であることに気づいて、立ち上がった。そこから19時まで、隙間はない。
モードを切り替えて仕事に集中し、途中で通知音が鳴ったスマホに意識が向きかけたが、足の指に力を入れて、画面の向こうの相手に集中した。

「終わった~……」

予定より時間をオーバーして、すべて終わったときには20時を過ぎていた。仕事が終わった開放感からか、力が抜けて、一気に疲れが襲ってきて、そのまま突っ伏したい衝動に駆られたが、スマホを見ると、足が動いた。

心臓が目覚めたように、ドクンとする。
いつもなら感じないような緊張が指先まで覆って、少し震える。
そっと、スマホを手に取って、通知を確認した。

「……」

通知は、秀一からのものだった。
嬉しさはある。
大好きなのも変わりない。
なのに、オレンジは不安の黒に覆われて、薄っすらとしか見えなくなった。

-2-

來未からのチャットを見たとき、秀一は今日やることを終えたタイミングだった。リモートワークだから、仕事を着実に終わらせていけば、職場にいるときのような気遣いは必要ないのは楽で、それだけに、やることを終えてしまうと、時間を手に入れた喜びが膨らんでくる。

(來未さん……)

椅子から立ち上がって、両手を突き上げたイメージが浮かんだが、立ち上がったものの、スマホを見ては天井を見上げ、次に出てきたのは、どう返そうか、という問いだった。

(大好き、か……)

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