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人面犬とハーメルンの噂 /第1話 始まりの遺体(伏見警部補の都市伝説シリーズ)/連載小説

第1話 始まりの遺体

-1-

都心の喧騒から少し離れた東進京線(とうしんきょうせん)、丸松府藤駅(まるまつふどうえき)。駅周辺の商店街を抜けると住宅街があるが、住んでいるのは老夫婦が多く、夜になると人の気配が消える。そんな住宅街を抜け、高台へ続く道を進んでいくと、公園が見えてくる。

高台に作られた府藤ヶ丘公園(ふどうがおかこうえん)は、遠く都会の景色が一望できるが、夜は完全な闇に包まれ、人の住む世界とは隔てられた空間になる。物の怪はいないが、カップルが夜な夜な密会するには、少々ムードが足りない。

午前0時過ぎ。
一人の男が、高台へ続く坂道を歩いていた。足取りは少し重く、時折息が漏れる。地面を踏みしめるようにして歩いているのは、何か考えがあってのことなのか、外からは分からない。肩に担いだ何かを両手で支え、一定のペースで歩く。やがて公園にたどり着くと、迷いなく足を進めて、街を展望できる屋根付きのスペースに着くと、担いでいたものを下ろした。

時計を確認し、耳に手を当てて一言二言話すと、男は上ってきたのと反対側の出入り口から出て、ゆっくりと歩いて公園を去った。

それから一時間ほどして、先ほどとは違う男が公園に現れた。今度は二人組で、屋根付き展望まで来ると小さく悲鳴を上げて、走って公園を去った。

数分の後、微かに車の音が聞こえて、近所でミアと呼ばれている三毛猫の野良が、走り去る車を見ていたが、人の気配を感じて公園に逃げた。足音は一瞬、公園に向きかけたが、やがて離れていった。


-2-

今井日奈子(いまい ひなこ)は、読んでいた本を閉じると、腕時計を見てからそっと、トイレの個室を出た。ゆっくりと、足音が響かないように歩いて、二階から一階への階段を降りる。廊下の角から少しだけ顔を出して、下駄箱を確認する。約一分、誰もいないことが分かると、廊下に右足を踏み出した。

下駄箱に異常がないことを確認して、辺りを気にしながら素早く靴を履き替えると、今度は早足で昇降口を出る。

「日向子」

「……!」

ビクリと肩が上がって垂直に固まる。振り返ると、知った顔が視界に入ってきた。といっても、今日の昼休みに初めて顔を合わせたのだが。

「遼くん……」

「なんだよ、帰るとき待ってるって言ったろ? 何してたんだ?」

遼は呆れたように言った。

「だって、下駄箱に誰かいるかもって思って……」

「それをなんとかするために、先生は俺と日向子を会わせたんだろ」

「そうだけど……」

「さ、帰ろうぜ」

「うん……」

今日の昼、日向子は突然、担任教師の前谷静佳(まえたに しずか)に呼び出され、遼を紹介された。遼は、ある事件で両親を亡くし、施設で暮らしていたのを静佳が養子として引き取った、日向子の一つ上の学年の子で、荒っぽい男の子として、低学年の間でも知られていた。

『今井さん、紹介するわね。彼は遼くん。先生の息子よ。学年は一つ上で、四年生。全部話してあるから、お兄ちゃんだと思って頼ってね』

静佳はそう言ったが、いきなりお兄ちゃんと言われても「分かりました」と受け入れられるものでもない。

「今日は大丈夫だったのか?」

遼が言った。

「うん、今日は……」

「そうか。なあ、日向子」

「なに?」

「おまえ、いつからイジメられてるんだ?」

「……三年生になって、6月ぐらいから」

「なんかあったのか、そんとき」

「クラスでイジメられてる子がいて、見てられなくて庇ったの。そうしたらその子に対するイジメはなくなったんだけど、今度は私が……」

「最低な奴らだな。全員ぶっ飛ばしてやろうか?」

「ダメだよ、そんなことしたら……」

「だって日向子は何も悪くないじゃんか。おかしいだろ、そんなの」

「悪いことしたとは思ってないよ。でも暴力はダメだよ……」

「俺は喧嘩が好きでしてるわけじゃない。必要なときにするだけだ」

「……」

「ちゃんと俺に言えよ? 何かあったら」

「うん、ありがと、遼くん」

「じゃあ、また明日な」

「うん、またね」

遼と別れて、家に着くと、ランドセルに仕舞ってある家の鍵を取って、玄関を開けた。

「ただいま~」

築32年のマンションの一室。家の中から返事はなく、部屋の中は暗い。いつものことだが未だに慣れず、少し怖くなるが、電気を点けると恐怖は沈む。
洗面台で手洗いとうがいを済ませ、自分の部屋まで歩いてランドセルを置くと、キッチンまで行って冷蔵庫を開け、コップにジュースを注いだ。

部屋に戻ると、母親が買ってくれた猫図鑑を開いて、読み耽る。最近の日向子の習慣で、猫の写真や生態について見ていると、頬が緩んで、心にも明かりが灯る。
一時間ほど堪能した後、ランドセルからノートと教科書を出して、机に向かう。これもまた、帰宅後の流れの中の一つで、鉛筆を持って宿題に取り掛かる。

宿題を終えて顔を上げると、左斜前に立てかけてある写真立てと目が合った。写真には、三人の笑顔が写っている。四年前の夏、海の近くの民宿に泊まったときのもので、海を背景に映したそれは、今でも音や匂いを記憶している。

「……」

涙が零れそうになって、日向子は椅子から立って、猫図鑑を手に取った。

「家にも猫ちゃんがいたらいいのにな……」

いつかペットOKの家に住んで、猫と一緒に遊んで、猫と一緒に寝る。今の日向子にとっては、それが夢だった。


-3-

「酷いな。何かの見せしめか?」

伏見靖(ふしみ やすし)は、府藤ヶ丘公園の屋根付き展望に遺棄された遺体の前で、しゃがみ込んだ。

「第一発見者は、毎朝公園の中をランニングしている近所の人です」

谷山修一(たにやま しゅういち)は言った。
谷山の後ろには、早朝にも関わらず人だかりが見える。キープアウトのテープと、制服警官によって阻まれ、遺体は外から見えないようになっているが、注意されてもスマホを向けてくる人間が多い。

「実際にこれを見たら、はしゃいでいられないだろうに、気楽なもんだな」

伏見が呟くと、谷山はため息混じりに、

「しょうがないですよ、物珍しさが勝るんです」

と言った。

「それは分かってるが……まあでも、おまえの言う通りだな。ぼやいてもしかたない」

伏見は遺体に視線を戻した。

「身長ありますね。伏見さんよりちょっと大きいぐらい?」

「180を越えてそうだな。手もでかい。指紋を焼くのも一苦労だったかもな」

横たわる遺体は男で、デニムに黒いシャツ、黒いジャケットを着ており、靴は片方脱げて、側に落ちている。絞殺らしく、首周りにはハッキリと、紐のようなもので絞めつけられた跡が残っていて、他殺で間違いない。

身長が180ちょっとあるだろう男を絞殺するのも中々だが、異様なのは手の指と顔だった。指は一本一本、丁寧に指紋が焼かれており、顔も原型を留めないほど焼かれている。

「犯人は、被害者の身元が分かると困る人間、ということですかね?」

「それも一つ。他の可能性だと、見せしめか、怨恨か……死亡推定時刻は?」

「昨夜の20時から23時の間ぐらいです。公園の入口からここまで、土の部分には足跡が残ってまして、被害者が履いている靴と一致します」

「なるほど」

「この公園、夜になると真っ暗で、このとおり街灯もないです。誰かと待ち合わせしていて、その相手に殺されたんですかね」

「その可能性もある。反対側の出入り口の足跡も確認がいるな」

「はい。そっちも調べてます」

「目撃者は?」

「公園に入っていく人間を見た人はいません。ただ、死亡推定時刻近くに、周辺を歩いていた男がいたらしくて、特定を急いでます」

「分かった。じゃあ俺は、もう少し遺体を調べてみるかな」

「何か、他に気になることが?」

「殺され方が妙だろ」

「それは確かに」

「いわゆる異常者の仕業と考えることもできるかもしれないが、被害者は男。しかもでかい。ターゲットにするにはリスクが大きい」

伏見は膝を落としたまま、遺体の周りを移動した。体が大きいだけでなく、ガッチリしているように見える。

「ん……?」

ジャケットの内側に、わずかだが膨らみがある。手を触れると、細長い金属のような感触がした。

「なんだ?」

どうやら、隠しポケットらしい。手を入れると、金属に直接触れた。

「随分と物騒なものを持ってるな。しかも隠しポケットに」

細長い金属は、持ち手の部分が20センチほどで、安全装置のような小さなカバーの下にボタンがついていて、押すと、アイスピックのような針が飛び出した。

「なんですか、それ……」

「携帯用のアイスピックといったところだろうけど、普段からこんなものを持ち歩く奴はいないだろう。別の目的で、常に携帯していたと考えたほうがいいだろうな」

「殺人のため、ですか……?」

「そう考えると、顔と指紋が焼かれた理由とも繋がってきそうだな」

この男は何者で、なぜ殺されたのか。なぜこの場所に捨てられたのか。
もう一度遺体を確認してから、伏見は立ち上がった。

「まずは司法解剖、それから身元の確認だな」

「顔の復元はできますかね」

「そうだな、復顔の手配も頼む。木野と連携するといい」

「常磐さんが何か言わないですかね……」

「木野は表向き、常磐のチームだが、”あれ”以来、実質は誰のチームにも所属しないヘルプ要員になってる」

「そうなんですか?」

「ああ。常磐も木野を信用してないみたいでな。けど、木野はいい仕事をする。もしかしたら、おまえよりもな、谷山」

「そ……分かりました、木野ちゃんと話します」

「冗談だよ。でも、オタオタしてられないのも確かだぞ」

「分かってますよ」

この男は殺し屋か何かかもしれない……伏見は思ったが、口には出さなかった。確信はないし、そこを前提として捜査を進めるには早い。だが、もし殺し屋だとすると、単純な事件ではなくなるかもしれない。

(今回は自分が担当なだけマシか)

先に歩き出していた谷山を追って、伏見は警察署に戻るために、車に向かった。


-4-

「おい日向子! まてって……!」

遼の声が聞こえたが、日向子は走ることを止めなかった。
放課後、もう午後の4時を回っていて、泣き腫らした目は赤いままだったが、すぐにでも家に帰りたかった。

イジメられても、泣くことはなかった。家に帰ってから泣いてしまったことはあったが、学校では耐えることができた。

『おまえんち、父ちゃんいないんだって? だから貧乏なんだろ? 服もダセェし、恥ずかしいようなぁ。こっちくんなよ、貧乏が感染るから(笑)』

授業が終わって、掃除当番として教室の掃き掃除をしていたとき、クラスメートの木村という男子生徒が、唐突に言った。日向子は一瞬固まり、なぜそんなことを言われてるのか分からず、無視して掃除を続けた。木村はさらに、『服選んでるのは母ちゃんか? センスねぇな』と笑い、他のクラスメートと三人で、笑いながら教室を出ていった。

小刻みに震える体を無理やり抑え込んで、掃除を終わらせてから、ランドセルと持ってトイレに駆け込んだ。ドアを閉めると涙が止まらず、叫び出したい気持ちを無理やり抑え込んだ。

「お母さん……」

声が滲んだ。
なぜ言い返さなかったのか、どうしてあんなことを言われたのに、怖いと思ってしまったのか……きつく握った手のひらが、爪で少し切れた。

痛い。
でも遠い。

ようやく少し落ち着くと、トイレを出たが、下駄箱まで来るとまた涙が溢れそうになって、靴を履き替えると走った。

遼と一緒に帰って、すべて話すべきだったかもしれない。職員室に行くべきだったかもしれない。頭にいろいろなことが浮かぶたびに、重さで顔が俯く。
家と反対側の土手のほうへ、ほとんど無意識に歩いてきて、キラキラと夕日が反射する川を眺めた。

(家が貧乏なのは、お父さんがいないから? 私がいなくなれば、お母さんは楽になるのかな……)

土手に座っていると、また涙が出てきた。抱えた膝に顔を埋める。

「にゃあ」

「……?」

顔を上げると、一メートルほど先に猫がいた。茶トラで、賢そうな顔をしている。お手本のような姿勢で座り、大きな目を日向子に向けている。

「猫ちゃん……」

日向子は立ち上がって、ゆっくりと近づいた。

「にゃあ」

猫はもう一度鳴くと、背中を向けて歩き出した。

「あ、まって……!」

猫は逃げるつもりはないのか、付いてくる日向子を時々振り返りながら歩いていく。日向子は猫だけを見て歩き続け、気づくと、辺りの景色から見覚えが消えていた。

「あれ? ここ、どこ……?」

土手までは来たことがあったが、その先に来るのは初めてで、振り返っても、もう土手も見えない。
土手を抜けた先は、細い車道と並行している歩道で、車道の反対側には深い木々が見える。
キョロキョロしているうちに猫を見失ったかと思ったが、猫は日向子を確認しながら歩き続け、信号のない横断歩道を左に曲がると、さらに歩いて、右斜め前方、数十メートル先にある森の前で座っている。

触れられる距離まで近づいても逃げず、日向子を見上げて、じっと円らな瞳を向けてくる。

「この森に、何かあるの?」

「にゃあ」

猫の声を合図に、日向子は森の中に視線を向けた。一応の道はある。土で、葉っぱもたくさん落ちているが、歩くことはできる。
猫はもう一度「にゃあ」と鳴いて、森の中へ入っていく。日向子は少し躊躇ったが、右腕の腕時計にそっと触れると、足を踏み出した。

「猫ちゃん、どこまで行くの……?」

猫は迷いなく歩き、途中で土の道を外れて、草木生い茂る方へ足を向けた。
さらに進むと、高さ1メートルほどの木のトンネルが見えて、猫はそこに入っていく。日向子は体を少し屈めて歩き、しばらくすると、トンネルは2メートルほどの高さになった。

「まって、あんまり奥に行ったら帰れなくなっちゃうよ……!」

日向子が声を震わせると、猫は立ち止まった。
トンネルを抜けた先は、小さな広場のようになっているが、何もない。猫はトンネルを抜けてすぐ右側を見て、「にゃあ」と鳴いた。

「……?」

日向子は視線をぐるりとさせたが、辺りには何もいない。猫が鳴いたほうにも、草木があるだけ。風と、風が草木を揺らす音、少し遠くにカラスの声が聞こえる以外、五感が反応するものは何もない。急に怖くなって、日向子は守るように腕を体に回した。

「なんだ? 客か?」

「……!」

大人の男の声が聞こえて、日向子はビクリとして、2、3歩後退りした。

「にゃ~ん」

「子供が泣いてから連れてきたって、なんだそりゃあ」

「え? え……?」

「ったく……」

猫が視線を向けていた草木を分けて、一匹の犬が出てきた。

「小学生か。まいったな、おい」

日向子の視界に映っているその犬は、体は柴犬のようで、狐のような明るい茶色と白。大きさは近所で散歩しているのと同じぐらいで、特に大きくも小さくもない。尻尾もクルリとしていて、どこからどう見ても柴犬だが、顔だけが違っていた。

記憶を辿って、日向子の知る大人の男の顔を思い出すも、父親はもちろん、学校の先生よりも年上なのは間違いなく、かといって、教頭や校長ほどの年配者ではない男の顔が、柴犬の顔があるべきところにある。

口は開けているが声が出ず、尻もちを着くと、猫が近寄ってきて、腕に顔を擦り付けた。

「にゃあ!」

「驚かすなって言われてもな、しょうがねぇだろ、こればっかりはよ」

犬は、いや、人間の男の顔の犬が言った。

「悪いな、お嬢ちゃん。俺は別に、脅かそうと思ったわけじゃねぇんだ。シャルの奴が……ああ、シャルってのは、その猫の名前だ。女の子を連れてきたって言うんで、まあとりあえず挨拶でもと思ったわけだが……」

「じ、人面犬……」

「お、なんだ、知ってんのか。お嬢ちゃんの世代じゃ知らねぇと思ったんだけどなぁ。たぶん、お嬢ちゃんの親か、それよりもう少し上の世代ぐらいなら、ブームになったことを覚えてるはずだ。まあそれはそれで迷惑だったけどな、騒がしくて外にも出づらかったし。謎のグッズで儲けた会社もあったはずだが、俺にも売上の一部を寄越せと……」

「にゃあ、にゃあ」

「ああ、そうだな、ワリィ。で、お嬢ちゃんはここに何しに来た? 一人なんだろ?」

「人面犬……なんで、本物……」

「ああ、本物だぞ。別にそんなに驚かなくてもいいだろ。顔がおっさんの犬種だと思えばそれで……」

「にゃあ!!」

「それは無理があるって? なんだよシャル、随分と冷てぇじゃねぇか」

「にゃあ……」

「本物の柴犬はもっとかわいいっておまえ……そりゃあ失礼だろ。傷つくぞ、俺だって。
……ああ、それよりあれだ、お嬢ちゃん。特に用がねぇんなら帰んな。もうすぐ日が暮れるぞ」

「人面犬さん、このシャルって猫ちゃんと、お友達なの?」

「ああん? まあ、そうだな。一年ぐらい前に会って、いろいろあってな、今は俺の寝床の一部を使ってる」

「そうなんだ……」

「しかしお嬢ちゃん、あれだな、意外と落ち着いてるな。最初は声が出ねぇほどビックリしてたってぇのに」

「昔パパと一緒に読んだ小説に出てきたの、人面犬さん」

「へぇ、そうなのか。親父さんはホラー系が好きなのか? あ、だからって今日家に帰って、人面犬を見たなんて言うなよ? 面倒くせぇことになるのはゴメンだ」

「大丈夫、パパはもう、お家にいないから……」

「あ、ああ、そうなのか。それは、なんか悪かったな……すまねぇ」

「ううん、いいの」

「まあとにかくだ。そろそろ帰んな。日が暮れると、森は真っ暗になる。それと、もうここへは来るな。俺はガキには興味ねぇし、今日はたまたまシャルが連れてきちまったが……」

「にゃあ!」

「また来てもいいっておまえ……なに勝手に決めてんだシャル!」

「にゃあ!!」

「放っておけないだろっておまえ……いや、そりゃあ泣いてたんだからなんかあんだろうけど、俺の知ったことじゃ……」

「にゃあ、にゃあ!」

「薄情者って、そこまで言うか……」

「にゃあ」

「ったく、しょうがねぇな……存在も知られちまったし、そのほうが安全って見方もあるか。
じゃあよ、お嬢ちゃん」

「なに?」

「俺のこと、この場所のことは、他の誰にも言わない、黙ってると約束できるなら、また来てもいい。俺のことはともかく、シャルには会いてぇだろ?」

「いいの……?」

「約束できるならな」

「うん、約束する。おじちゃん、最初は怖いかと思ったけど、優しいんだね」

「お、おじちゃん……!?
よせ、そんな呼び方……」

「にゃあ」

「何照れてるんだって、うるせぇ!!
今日はもう帰れ!」

「ふふ、おじちゃん、またね」

「あ~、もう好きに呼べ。
シャル、森の外まで送ってやれよ」

「にゃあ!」

人面犬に手を振ると、日向子は来たときと同じように、シャルの後について歩き、森を出た。シャルは歩き続け、土手のところまで来ると、立ち止まった。

「シャルちゃん、送ってくれてありがとね。またね」

日向子が手を振ると、シャルは「にゃ~ん」と鳴いて、日向子が家のほうに向かって歩き出してから、しばらく見守った後、森に帰っていった。

「ただいま~」

家に着く頃には、日が落ちていて、母親も帰宅していた。

「おかえり、日向子。今日はちょっと遅かったのね」

咎めるふうではなく、母親の理恵は言った。

「うん。遊んでたら、ちょっと遅くなっちゃった……」

「あんまり遅くまで遊んでちゃダメよ? 暗くなると危ないから」

「うん、ごめんなさい……」

「いいの、気をつけてくれれば。つい遊びすぎちゃうことだってあるわよ」

「うん……」

「ランドセルを置いて、お風呂に入ってきなさい。もうすぐご飯できるから」

「うん。
……ねぇ、お母さん」

「ん? どうしたの?」

「ううん、なんでもない……」

「……?」

私がいて、大変じゃない? 私、お母さんにとって邪魔になってない……?

そんな言葉が浮かんで、日向子は走って部屋に戻って、ランドセルを置いて風呂に向かった。湯船に浸かっていると、また沸々と言葉が浮かんできて、体が縮んだ。

家が貧乏なのは、私がいるから。私がいなければ、お母さんが馬鹿にされることもない……ズキズキと、胸のあたりが痛む。風呂から上がっても痛みは続き、食事中は明るく振る舞ったが、理恵と話していると苦しくなってきて、食べ終える頃には顔が下を向いた。

「日向子? 体の具合でも悪いの? 何かあった?」

ふわりと、包みこんでくれるような声。

「日向子……?」

もし、邪魔だと言われたら……いないほうがいいと言われたら……

「日向子、だいじょう……
……!」

日向子は椅子から飛び降りると、理恵に抱きついた。理恵は少し驚いたようだったが、背中と頭に手を添えて、そっと撫でた。

「どうしたの? 何か怖いことあった?」

「お母さん、大好きだよ……」

「ありがとう、日向子。そんなふうに言ってくれると、本当に嬉しい。お母さんも、日向子のことが大好きよ」

「うん……」

ズキズキも悔しさも、すべてが流れていく。理恵に触れられているだけで、この世には怖いものなど何もないとさえ思える。

離れたくない……でも母親が侮辱されるのも耐えられない。どうすればいいのかと思うと、涙が溢れそうになったが、歯を食いしばった。

「おやすみ、お母さん」

「うん、おやすみ」

理恵はそっと言うと、もう一度日向子を抱きしめて、髪を撫でてから、腕を離した。

部屋に戻った日向子は、ベッドに寄りかかって膝を抱えた。こんなとき、どうすればいいのだろう。

「おじちゃんなら分かるかな……」

呟き、猫図鑑を一時間ほど見てから、電気を消してベッドに入った。

同じ頃、伏見は山城警察署別館の検視室で、遺体と向き合っていた。奇妙な出会いと、厄介な事件が幕を開けようとしていた。


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